第10話
恭也と別れた後、華弥はとぼとぼと帰宅の途についていた。
途中の景色なんて覚えていない。
頭の中に繰り返されるのは、先ほどの恭也と美緒の姿ばかり。
違うと分かっていても、納得したように見せかけても、やはり気になってしまうのだ。だって本当に何でもないのなら、そもそも腕を絡めることなんてしないだろう。
そうして気づけば、華弥はいつの間にか我が家である神社に着いていた。
「ただいま……」
真っ暗な、寂しい空間に向かって声をかける。誰もいないのは百も承知だ。
それでも華弥はこれを習慣としていた。出かけるときは行ってきます、帰ったときはただいま。必ず声をかけている。もう、癖のようなものだろう。
でもときどき、その声に返事があることもあるのだ。華弥にしか聞こえない声で、今日もその声が華弥を出迎えてくれる。
「おかえり、遅かったな……っておいおい、なんて顔をしておるんだ華弥」
「織……」
白い猫の姿をした式神が、困ったように息をつく。
ようやく主が帰ってきたと思ったら、その顔が泣きそうに歪められていたのだ。どうしたのかと訊かずにはいられなかったのだろう。
「それは、帰りが遅かったことと関係しておるのか?」
首を横に振る。
他には何も言っていないというのに、織はすぐに図星をついてきた。
「なら、あいつか?」
反射的に瞳を大きく揺らすと、織が深いため息を吐いた。
「話を聞いてやるから、とりあえず風呂でも入ってこい。泥がすごいぞ」
いったいどこをほっつき歩いてたんだ、と呆れた言葉をこぼすけれど、その声音はどこか優しい。
まるで兄がいたらこんな感じなのかなと思うような、そんな扱い方だ。
とりあえず織の言うことを素直に聞くことにして、華弥はまず風呂場へと向かうことにした。
*
入浴を済ませれば、先ほどまで冷えていた体は芯までぽかぽかに温まる。
おかげで心が徐々に落ち着きを取り戻したようで、帰ってきたときに見せたあの悲愴な表情が華弥から少し抜けていた。
それを確認して、織は事のあらましを訊ねた。なるべく穏やかに、華弥の傷ついた心をさらに抉ることのないように。
すると、華弥がぽつりぽつりと話し始めた。
「病院からの帰り道、悪戯をしている妖をね、見つけたの」
話している華弥の瞳は、まるで虚空を映しているかのように光がない。
「そこまで悪いモノじゃなかったから、とりあえず注意だけしようと思って追いかけたの。そしたらね、その先で偶然、佐野さんに会った」
織は自身の尾をぴしりと揺らして、話の続きを促した。
「もうびっくりしちゃって。でも最初は嬉しかった。偶然でも、会えたんだから」
「ではなぜそんな顔をしている」
それはどう見ても嬉しそうな顔ではないと織は思う。
その言葉に織へと視線を滑らせた華弥は、けれどすぐにその目を伏せた。まるで、瞼の裏に蘇らせた何かを見ようとするために。
「佐野さんの隣に、女優の高橋美緒さんがいたの。綺麗な人でね、お似合いだった。それに、腕を、絡めてたの」
最後の言葉は、まるで血反吐でも吐くんじゃないかと思うほどに苦しそうに吐き出された。そこに彼女の痛みの全てがあることに、織が気づかないわけがない。
華弥の膝の上で固く握られている手に、ぎゅっと力が加わった。おそらく無意識のうちにそうしてしまっているのだろう。指先が白く変色してしまっている。
「結局、二人はそういう関係じゃないって、佐野さんも高橋さんも否定してたけど……。でももしかしたら、いつかはそうなるかもしれないでしょう? だって腕を絡めてたんだもの。今は違っても、もしかしたら……。そう思ったら私、急に怖くなって」
「……」
「解ってたはずなのに。いつかは、佐野さんの隣が誰かのものになることくらい、解ってたはずだったのに。なのに私、それが怖くなった。ちゃんと覚悟して、それでもいいって決めたのは私なのに。なのになんで……なんでこんなに胸が痛いんだろ……っ」
華弥が胸のあたりを手で押さえて、痛みに耐えるようにぎゅっと服を掴む。
「だがそれが、おまえの正直な想いだろう?」
封じ込めると、心の奥底に隠しておくと、そう決めていたとしても。
それが彼女の本当の想いであることに、変わりはない。
「でも駄目なんだよ。だって、そう決めたじゃない」
「それは、あいつを不幸にするからか?」
その問いに、華弥が力なく頷いた。
「なのにどうして、私はこんなふうに傷ついてるんだろ……」
傷つくということは、願っているということだ。
期待している、ということでもある。
恭也の隣に、いつか自分が居られる日が来るのではないかと、そんな甘い期待を。
でもそれは、仕方のないものだろう。
「『人』とはそういう生き物だ。どうしても願ってしまう。だからこそおまえも、人らしく生きればいい。おまえは少し背負いすぎだ」
小さな体躯で華弥を慰めるように寄り添った。
彼女が織を持ち上げて抱きしめる。
「ありがとう、織。でもね、それでも、約束したから」
「……ああ。おまえは、約束したな」
そう、約束をした。
あの日、まだ十にも満たない幼い子供が、約束をした。
違えないと、切実に誓っていた。
「私は、陰陽師」
陰陽師は、言の葉を大切にする。
言霊の力を、彼らは知っているから。
「だから守るよ。絶対に、護る」
では、だったら。
誰がこの、今にも壊れてしまいそうな少女の心を守るというのか。
(神とは、惨いものだな)
自身も『神』の名をいただきながら、しかしそう思わずにはいられない織だった。




