余白の居場所
非裁定の事務所は、朝から騒がしかった。
理由は単純だ。
「……動くな」
「?」
床の上で、ピコがころんと転がった。
昨夜から何度も見ている光景だが、未だに慣れない。
ぽよっとした体が、転がるたびに形を変える。
「だから動くなって……あっ」
ミリアの手が、空を切る。
ピコはすでに、机の脚の裏に潜り込んでいた。
「……かくれんぼ?」
「違う!」
ミリアが声を張り上げる。
「落ち着いて撫でさせてほしいだけ!」
エルフィナが、くすっと笑った。
「ミリアさん、それだと遊びに誘ってるみたいですよ」
「……そういうつもりじゃないんだけど」
言いながら、また手を伸ばす。
ピコは一瞬だけ考え、
次の瞬間、ころんとミリアの膝の上に転がった。
「……あ」
「……あ」
二人同時に声が漏れる。
ピコは、ぽよっと体を緩めた。
「……あたたかい」
ミリアの動きが止まる。
「……動けない」
「それは……仕方ないですね」
エルフィナが、そっと毛布を掛ける。
カイラは、その光景を少し離れた場所から見ていた。
戦況最適化が働く場面ではない。
だから、逆に戸惑う。
「……これ、どう扱えばいい?」
「扱わなくていい」
レインは、壁際で書類を整理しながら言った。
「いるだけでいい」
ピコは、その声に反応し、
ミリアの膝から転がり落ちて、レインの足元まで来た。
じっと見上げる。
「……ひと」
呼ばれた音に、意味はない。
けれど、レインは一瞬だけ目を伏せた。
「……何だ」
「……わかんない」
それだけ言って、
またころんと転がる。
理解しようとすれば、できてしまう。
だから、しない。
それが、この事務所での最初のルールになった。
昼前。
事務所の扉が、ノックされた。
間延びした、しかし遠慮のない音。
「……来たな」
エルドが立ち上がる。
扉を開けると、ギルド職員が二人立っていた。
「非裁定様。
昨日の懸賞金レースについて、いくつか確認が」
形式的な口調。
だが、視線は事務所の中を探っている。
ピコは、エルフィナの後ろに隠れた。
それだけで、空気が変わる。
「……あの」
職員の一人が、言葉を選ぶ。
「その個体は……」
「居候だ」
ミリアが即答した。
「……居候、ですか」
「保護、と言い換えてもいい」
リュカが続ける。
「ただし、所有ではない」
職員は、困ったように眉を寄せた。
「希少種の場合、登録義務が――」
「分かっている」
レインが口を開いた。
「観察対象として、協力はする。
だが、引き渡しはしない」
短い沈黙。
職員は、深くため息をついた。
「……クロスロードですね」
責任の所在が、曖昧になる言葉。
帰り際、もう一人の職員が、ぽつりと言った。
「可愛いですね」
ピコは、首を傾げた。
「……かわいい?」
扉が閉まったあと、カイラが言う。
「“価値”が付くの、早いね」
「だから、決めない」
ノウンの声は、淡々としていた。
「ここにいる理由は、まだ未定だ」
ピコは、その言葉を理解していない。
ただ、床に寝転がり、
天井の染みを見つめていた。
「……これ、なに?」
「雨漏りの跡だ」
「……ふしぎ」
クロスロードでは、
価値も、居場所も、後から貼られる。
それを、貼らせないでいるのは、難しい。
夕方。
蒼衡の一人が、事務所を訪れた。
正式な用件ではない。
だから、武装も軽い。
「……妙な噂が出てる」
そう切り出した。
「希少種を囲ってる、って」
「囲ってない」
ミリアが即否定する。
「勝手にいるだけ」
蒼衡の男は、少しだけ笑った。
「君たちらしい」
視線が、ピコに向く。
ピコは、じっと見返した。
「……ひと、つよい?」
「まあな」
「……こわく、ない?」
問いに、蒼衡の男は少し考えた。
「怖くならないように、してる」
それを聞いて、ピコは満足そうに転がった。
男は立ち上がる。
「忠告だ。
この街は、可愛いものを放っておかない」
「知ってる」
レインは、静かに答えた。
「だから、ここにいる」
蒼衡の男は、何も言わずに去った。
夜。
事務所の明かりは、弱い。
修繕は、まだ先だ。
床はきしみ、壁は古い。
それでも。
ピコは、毛布の上で丸くなっていた。
「……ここ、ねる」
「そうしろ」
エルフィナが、そっと頭を撫でる。
ミリアは、もう撫でるのを諦めて、隣に座った。
カイラは、窓の外を見ながら言う。
「正しい選択を、教えなくていいって……楽だね」
「楽ではない」
レインは答える。
「壊れないだけだ」
ピコは、その会話を聞きながら、
もう理解できない世界の中で、眠りに落ちた。
選択肢を、まだ持ったまま。




