判断なき余波
影の王が消えてから、世界は一度、静かになった。
血の匂いも、怒号も、決断の強要もない。
それでも――世界機関の中枢では、静けさが不気味な軋みを生んでいた。
円卓。
白石で作られた広間に、重い沈黙が落ちている。
「――報告は以上です」
記録官の声が、わずかに震えた。
「影勢力、完全沈黙を確認。
四天王級、全滅。
王位存在……消滅」
ざわめきが起きる。
だが、それは歓声ではない。
“理解が追いつかない音”だった。
「……異常すぎる」
管理派の男が、額に指を当てる。
「英雄を投入しても止めきれなかった勢力が、
“老人一人”で終わった、だと?」
「正確には」
別の席から、淡々と訂正が入る。
「老人が“終わらせた”のではありません」
「“終わっていたところに居合わせた”だけです」
空気が、さらに冷える。
利用派の女が、静かに口を開いた。
「重要なのは、そこではない」
「問題は――」
指先で資料を叩く。
「影騒動の終結後、
各地で判断不能型被害が発生している点です」
別の投影が浮かぶ。
小さな村。
止まった人々。
倒れても、叫ばない集落。
「魔力汚染ではない。
呪詛でもない。
恐怖誘導でもない」
「にもかかわらず、
行動選択が著しく低下」
誰かが、ぽつりと呟いた。
「……影の残滓か?」
「いいえ」
記録官が首を振る。
「構造が違います」
「影は“選ばせてから奪った”」
「これは――」
一拍。
「最初から、選ばせない」
円卓が、ざわつく。
封印派の老人が、杖を鳴らした。
「……名前は?」
「仮称です」
記録官が答える。
「変異群」
「個体差が激しく、
共通言語を持たず、
だが――」
言葉を選ぶ。
「“社会的判断”のみを標的にします」
沈黙。
英雄の一人が、腕を組んだ。
「……面倒だな」
「切れない。
殴れない。
助けても、意味が分からない」
別の英雄が、苦笑する。
「まるで――」
言いかけて、止めた。
誰もが、同じ存在を思い浮かべていたからだ。
「……《非裁定》」
誰かが、はっきり口にした。
「判断を否定し、
裁かず、
退かない連中」
管理派が、即座に反応する。
「呼ぶべきだ」
「いや」
利用派が遮る。
「まだだ」
「彼らは“便利すぎる”」
「便利な存在は、
必ず壊れる」
封印派が、低く言った。
「……ならば」
「試すか?」
その一言で、空気が凍る。
誰も肯定しない。
誰も否定しない。
世界機関は、いつだってそうだった。
“決めない”ことで、均衡を保つ。
だが――
それが許されない相手が、現れ始めている。
円卓の端。
最後まで沈黙していた英雄が、ぽつりと呟く。
「……あいつらなら」
「もう、気づいてるだろ」
場の誰よりも先に。
“判断を奪う敵”が、
次の段階に入ったことを。
世界機関の会議が終わった、その日の夕方。
《非裁定》は、郊外の簡易宿営地に戻っていた。
影騒動が完全に終結してから、初めての「何も起きていない一日」だった。
「……静かだね」
ミリアが、焚き火の前で膝を抱える。
「逆に落ち着かない」
「分かる」
リュカが、頷いた。
「影がいた頃は、
“次に来るもの”が予測できた」
「今は」
視線を、暗い森へ向ける。
「何も来ていないのに、
“来る気配”だけがある」
エルドは、盾を磨きながら黙っていた。
だが、手を止めて言う。
「……街道の依頼」
「最近、
“失敗報告”が増えてる」
「戦闘で負けた、じゃない」
「判断できなくなって、
撤退も救助もできなかったってやつだ」
ミリアが、眉をひそめる。
「それって……」
「うん」
レインが、静かに答えた。
「影とは、違う」
焚き火の火が、ぱちりと鳴る。
レインは、手元の地図を見つめていた。
《模写理解》は、
今はほとんど沈黙している。
だが――
“何も拾っていない”わけではなかった。
(……判断回路への干渉)
(選択を奪う、というより)
(“選ぶ意味”を薄めている)
ミリアが、横から覗き込む。
「また、難しい顔してる」
「うん」
「でも」
視線を上げる。
「今度は、
分かりやすく強い敵じゃない」
「倒して終わり、じゃないやつだ」
ミリアは、一瞬だけ考えてから、肩をすくめた。
「……だから?」
「だから、何?」
「私たちのやり方でしょ」
焚き火の明かりの中で、
ミリアは笑う。
「切らない。
押し付けない。
選ばせない敵なら――」
一歩、近づく。
「選べる場所を、作ればいい」
レインは、その言葉に一瞬だけ目を見開いた。
そして、ゆっくり息を吐く。
「……そうだね」
「英雄も、蒼衡も、世界機関も」
「“判断する側”のままじゃ、
触れられない相手だ」
リュカが、静かに言う。
「なら、
僕らがやることは一つだ」
「“判断できる余白”を、
前線に残す」
エルドが、盾を立てる。
「その余白に、
人が立てるように」
一瞬の沈黙。
それから、ミリアが何でもないように言った。
「ねえ、レイン」
「ん?」
「影、終わったしさ」
少しだけ、声が柔らぐ。
「次の依頼、
のんびりしたやつにしない?」
「……のんびり?」
「そう」
「護衛とか、
魔物退治とか」
「普通のやつ」
焚き火の火が、揺れる。
レインは、少し考えてから頷いた。
「いいね」
「変異群が本格的に動く前に」
「“普通の戦い”を、
思い出しておくのは大事だ」
ミリアは、満足そうに微笑んだ。
その距離が、ほんの少しだけ近いことに、
互いに気づかないふりをしたまま。
だが――
森の奥で、
小さな枝が折れる音がした。
エルドが、即座に立ち上がる。
「……来た?」
リュカが、《戦域把握》を広げる。
「魔力反応、微弱」
「でも――」
一拍。
「……思考パターンが、
“個体”じゃない」
レインが、静かに立ち上がった。
「……のんびり依頼の前に」
「来ちゃったみたいだね」
焚き火の向こう、
闇の中で――
“何か”が、
迷うことなくこちらを見ていた。
判断も、敵意もない視線で。
森の中の“それ”は、
魔物としては――弱かった。
姿は獣に近い。
だが、角も牙も中途半端で、
どこか“組み合わせ途中”のような歪さがある。
「……雑魚?」
ミリアが、警戒を解かずに言う。
「魔力も薄いし、
動きも鈍い」
「うん」
レインは、即答しなかった。
《模写理解》は、
相手を“理解”しきれずにいる。
(……構造が、閉じてない)
(完成してない個体?
それとも――)
獣は、吠えなかった。
威嚇も、突進もない。
ただ、
“次に何をするか分からない”まま、
一歩、こちらに近づく。
「……気持ち悪い」
ミリアが、低く呟く。
「戦う理由が、
本人にもなさそう」
「それが問題だ」
レインは、短く言った。
「判断してない」
「だから、
止まらない」
「前、出る」
ミリアが一歩踏み出す。
《踏越位》
距離を詰め、
最小限の斬撃。
《断戦ライン・ブレイク》
刃は、確かに通った。
だが――
「……?」
手応えが、ない。
切った“感覚”だけが残り、
獣は遅れて崩れ落ちる。
倒れた後も、
しばらく四肢が微かに動いていた。
「今の……」
リュカが眉をひそめる。
「即死してない」
「でも、
生きようともしてない」
エルドが、盾を下ろす。
「……目的がない」
「命令も、
本能も薄い」
「ただ――」
視線を、獣へ。
「“動かされてる”だけだ」
その瞬間。
獣の身体が、
灰のように崩れた。
肉も骨も残らない。
痕跡だけが、地面に染みる。
ミリアが、舌打ちする。
「後処理まで、
都合良すぎ」
「うん」
レインは、静かに頷いた。
「これが“変異群”の末端だとしたら――」
一拍。
「戦争は、
もう始まってる」
「でも」
ミリアが、レインを見る。
「まだ、
私たちが勝てない相手じゃない」
レインは、少しだけ笑った。
「うん」
「だから」
地図を畳む。
「次の依頼は、
予定通り行こう」
「普通の護衛。
普通の討伐」
「“判断できる戦い”を、
一つずつ積み重ねる」
焚き火を消し、
《非裁定》は歩き出す。
背後で、
森は何事もなかったかのように静まり返る。
だが――
彼らが見えなくなった後、
灰の残骸の奥で、
別の“視線”が動いた。
感情も、言葉もない。
ただ、
“次はどう変えるか”を考える目。
変異群は、
まだ試している段階だった。




