理解していい場所
ギルドの掲示板前で、ミリアは足を止めていた。
依頼書の内容は、目に入っていない。
視線は、その奥――人の流れの向こうを彷徨っている。
(……レイン・アルヴェルト)
昨日、何度も耳にした名前。
完全対処。
決闘。
無傷の勝利。
どれも、現実感がなかった。
(本当に……いるのかな)
街に戻ってから三日。
ミリアは仕事を探しながら、同時に“答え”を探していた。
理解することを否定されない場所。
考えていい、と言われる場所。
そんなものが、本当にあるのか。
「……ミリア?」
声がした。
振り向いた瞬間、思考が止まる。
黒髪。
落ち着いた表情。
噂よりも、ずっと静かな佇まい。
「……あ」
言葉が、出てこない。
「もしかして、紅鷹にいた?」
問いは、柔らかい。
詰問でも、同情でもない。
ミリアは、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
それだけで、伝わった。
レインは、視線を一度だけ伏せる。
「……大変でしたね」
その一言で、胸の奥が揺れた。
否定されない。
評価もされない。
ただ、理解されただけ。
「……あの」
ミリアは、勇気を振り絞った。
「あなたは……
どうして、あそこまで……」
言葉を探す。
「……理解できたんですか?」
レインは、少し考えてから答えた。
「できた、というより……
理解していい時間があった」
ミリアの指が、きゅっと握られる。
(……同じだ)
欲しかったのは、力じゃない。
時間と、許可。
「俺は後衛です」
レインは、はっきりと言った。
「前には出ません。
前提を崩すだけです」
ミリアは、首を傾げる。
「……それって」
「前に立つ人が必要です」
一瞬の沈黙。
ミリアは、自分の腰元を見る。
今は、何もない。
けれど。
(……前に立つ)
怖い。
でも――
逃げたまま終わりたくない。
「……私」
声が、少し震えた。
「剣を……
ちゃんと、使ってみたいです」
レインは、驚かなかった。
むしろ、頷いた。
「レイピアが、合います」
即答だった。
「突き主体。
間合いと前提を理解できる人向けです」
ミリアは、目を見開く。
「……どうして、それを」
「観ていました」
短い答え。
「あなたは、前に立てる」
初めてだった。
そう言われたのは。
ミリアの胸に、熱が灯る。
「……教えて、もらえますか」
剣を。
考え方を。
理解することを。
レインは、少しだけ微笑んだ。
「もちろん」
そう言って、静かに続ける。
「ここは、
理解していい場所です」
武器屋の奥は、静かだった。
壁一面に並ぶ剣の中で、ミリアの視線は自然と一本に吸い寄せられていく。
細身の刀身。
無駄のない鍔。
軽く、真っ直ぐで、嘘がない。
「……これ」
「ええ」
レインが頷く。
「レイピアです。
力で振る剣じゃない」
ミリアは、恐る恐る手を伸ばし、柄を握った。
軽い。
だが、不安定ではない。
(……持てる)
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。
「剣術書があります」
レインはそう言って、古びた一冊を取り出した。
表紙には、簡素な文字。
――《古剣術書・アーク・リネア》
「古代の剣術です。
でも、今の剣とも矛盾しない」
ミリアは、ページをめくる。
図が多い。
円と線。
交差する軌道。
(……難しそう)
そう思った、次の瞬間。
「あ」
声が、自然に漏れた。
レインが顔を上げる。
「……分かりました?」
ミリアは、少し戸惑いながら頷いた。
「これ……
相手を斬るんじゃなくて……」
言葉を探し、続ける。
「相手が“そこにいようとする動き”を、先に崩してます」
一瞬、空気が止まった。
レインの目が、わずかに見開かれる。
「……そうです」
静かに、しかし確かに。
「それが、この剣術の核心です」
ミリアは、もう一度ページを見る。
今度は、迷わない。
「だから……
突き、なんですね」
「ええ」
レインは続ける。
「点を突く。
線を断つ。
円を崩す」
説明は、短い。
だが、ミリアの中では、すでに形になっていた。
•
訓練場。
人の少ない時間帯。
ミリアは、レイピアを構える。
姿勢はまだ甘い。
だが、目は真剣だ。
「基本は一つです」
レインが言う。
「《直線穿ち(リネア・スラスト)》」
「……最短距離の、突き」
「ええ。
でも、狙うのは身体じゃない」
ミリアは、息を吸う。
「……間合い」
「正解です」
レインは、地面に小石を置く。
「ここが、相手の“成立点”です」
「そこを……」
「崩す」
ミリアは、踏み出した。
速くはない。
だが、迷いがない。
レイピアの切っ先が、
小石のすぐ横を、正確に貫いた。
「……っ」
手応えは、ない。
だが――
(……当たった)
そう、確信できた。
「今のです」
レインの声が、穏やかに響く。
「敵がいたら、
もう“そこに居られません”」
ミリアは、剣を下ろしたまま、息を整える。
胸が、少しだけ苦しい。
でも、それは恐怖じゃない。
(……分かる)
理解できる。
考えていい。
間違えても、怒鳴られない。
「……もう一度、いいですか」
「もちろん」
レインは、即答した。
ミリアは、もう一度構える。
剣を取ったのは、初めてじゃない。
でも――
「前に立つ」と決めたのは、今日が初めてだった。
訓練場の端に、簡易的な標的が置かれていた。
木製の人形。関節があり、簡単な動きだけは再現できる。
「……少し、動かします」
レインが言う。
魔力が、わずかに流れた。
人形の足元の砂が、ほんの一瞬だけ沈む。
(……今)
ミリアの胸に、**言葉にならない“感覚”**が流れ込んだ。
距離。
重心。
次の動き。
考える前に、身体が動く。
「――っ」
踏み込み。
《零距離踏み(ゼロ・ステップ)》。
レイピアの切っ先が、
人形の胸元――“成立点”を正確に突いた。
次の瞬間。
人形の関節が、
バラバラと音を立てて崩れ落ちた。
沈黙。
そして。
「……っ!」
ミリアが、目を見開く。
「……当たった……!」
声が、弾んだ。
「今の……
今の、分かりました!」
レインも、わずかに息を呑んでいた。
(……完璧だ)
前提提示。
線上固定。
リネア・スラスト。
初めての連動。
だが、ズレは一切ない。
「成功です」
レインが言う。
その声は、いつもより少しだけ明るかった。
「完全に、噛み合ってます」
次の瞬間。
「やった……!」
ミリアが、思わず駆け寄った。
勢いのまま、
ぎゅっと――レインに抱きつく。
「で、できました……!
一人じゃ、絶対……!」
言いかけて、止まる。
「……あ」
静寂。
ミリアは、自分が何をしているかに気づいた。
(……え)
近い。
近すぎる。
レインの体温。
心臓の音。
呼吸。
一気に、顔が熱くなる。
「……っ!?」
慌てて、ぱっと離れる。
「す、すみません!
その、つい……!」
ミリアは両手で顔を覆った。
「ご、ごめんなさい……
嫌でしたよね……?」
レインは、一瞬固まっていた。
だが、視線を逸らし、軽く咳払いする。
「……いえ」
声が、少しだけ低い。
「嫌では……ありません」
それだけで、
ミリアの顔がさらに赤くなる。
「……っ」
二人の間に、妙な沈黙が落ちた。
嬉しい。
達成感。
でも、それ以上に――
意識してしまう距離。
「……あの」
同時に口を開いて、
また止まる。
「……どうぞ」
「……どうぞ」
視線が合って、
また逸れる。
しばらくして、レインが言った。
「……これからは」
間を置いて、続ける。
「二人で、戦えます」
ミリアは、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
剣を握る手に、力が入る。
怖さは、消えていない。
でも――
(……一人じゃない)
それだけで、前に進める。
訓練場に、夕日が差し込む。
二人は、少し離れて立ちながら、
どこかぎこちなく――
それでも、同じ方向を見ていた。




