寿命を笑う者、目を覚ます者
最初に戻ったのは、音だった。
水滴が、どこかで落ちる音。
遠くで、風が木々を揺らす音。
そして――誰かの、やたらと軽い声。
「……やれやれ」
「若いのは、すぐ無茶をするのぉ」
その声を聞いた瞬間、
ミリアの背筋が、ぞくりとした。
「……この声」
「まさか――」
次の瞬間。
「おお、起きとらんか。
まぁ、そりゃそうじゃな」
小屋の中央、
レインが横たわる寝台の横に、
いつの間にか老人が立っていた。
白髪。
杖。
そして――にやにやとした、見覚えのある笑み。
「……ジル爺!?」
ミリアが叫ぶ。
「いつの間に来たのよ!」
「来たんじゃない」
リュカが低く言う。
「……“いた”」
エルドは、無言で盾を握り直していた。
ただ立っているだけなのに、
場の空気が、明らかに変わっている。
ジル爺は、寝台を覗き込み、
眠るレインの顔をじっと見た。
「……ほう」
「因果、ズタズタじゃな」
「自分で払う気、満々じゃったか」
ミリアが、思わず前に出る。
「ちょっと!」
「レインに何する気!?」
「何って」
ジル爺は、肩をすくめる。
「仕方ないじゃろ」
「弟子が死にかけとるのに、
見て見ぬふりはできんわい」
「弟子!?
いつからよ!」
「今からじゃ」
あまりにも軽い言い方だった。
ジル爺は、躊躇なく杖を床に突く。
コン、と小さな音。
それだけで、空気が沈んだ。
詠唱はない。
陣もない。
準備動作すら、ない。
ただ――
「少し、払うかの」
その言葉と同時に、
ジル爺の背中が、一瞬だけ老いた。
ほんの一瞬。
だが確かに、
時間が“前に進んだ”痕跡。
「……っ!?」
リュカが息を呑む。
「今の……」
エルドが、声を絞り出す。
「寿命……」
ミリアが、血相を変えた。
「ちょっと!!」
「今、何したのよ!!」
「ん?」
ジル爺は、きょとんとする。
「いや、
ちょっと命を回しただけじゃ」
「“ちょっと”ってレベルじゃないでしょ!!」
「わし、長寿じゃし」
満面の笑み。
「百年や二百年、
誤差じゃ誤差」
ミリアは、本気で殴りかけた。
「ふざけんなこのスケベジジイ!!」
「おっとおっと」
ひらりとかわす。
「殴る前に、
起きるぞい」
その瞬間。
レインの指が、ぴくりと動いた。
「……!」
全員が、息を止める。
胸が、上下する。
呼吸が、戻る。
そして――
「……ん」
微かな声。
レインの瞼が、ゆっくりと開いた。
「……あれ」
「……生きてる?」
ミリアが、思わず抱きついた。
「バカ!!」
「心配させないでよ!!」
「……ミリア?」
レインは、まだ状況を理解できていない。
視界が、少しだけ――
妙に“澄んで”見える。
「……?」
その違和感に、首を傾げた瞬間。
ジル爺が、満足そうに頷いた。
「うむ」
「ちゃんと、繋がったの」
「……?」
レインが見たのは、
ミリアの肩口に、
“ぼんやりした光”のようなもの。
数値でも、文字でもない。
ただの、感覚。
(……近い)
(……まだ、行ける)
理由は分からない。
だが、なぜか分かる。
「……?」
その違和感は、すぐに消えた。
誰も、気づいていない。
ジル爺は、背を向けた。
「さて」
「起きたなら、よし」
「後は――」
肩越しに、にやりと笑う。
「本人が、気づくかどうかじゃな」
ミリアが、睨む。
「……あんた」
「説明しなさいよ」
「説明?」
ジル爺は、首を傾げる。
「いらんいらん」
「若者は、
“気づいた時”が一番伸びる」
そう言い残し、
老人は――いつの間にか、いなくなっていた。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
静寂。
レインは、胸に手を当てる。
「……なんか」
「変な感じがする」
ミリアが、少しだけ表情を和らげた。
「生きてるなら、いい」
「それだけで」
誰も気づかなかった。
この時すでに、
レインの中で――
“支払う側”と“見る側”の境界が、
静かに書き換えられていたことを。
目が覚めてから、しばらく。
レインは、天井を見つめたまま動かなかった。
体は、重くない。
痛みも、ほとんどない。
だが――
“元に戻った”感じがしなかった。
「……どう?」
ミリアが、恐る恐る覗き込む。
「気分、悪くない?」
「うん」
レインは、ゆっくり起き上がる。
「大丈夫……だと思う」
言葉を選びながら、手を握る。
震えはない。
魔力の流れも、乱れていない。
(……なのに)
「……変だな」
ぽつりと漏れた声に、
リュカが反応した。
「どこが?」
「説明しづらいけど……」
レインは、少し考える。
「“無理してる感じ”がしない」
ミリアが眉をひそめる。
「それ、良くないやつじゃない?」
「普通、無理した後って」
「もっとこう……反動とか、あるでしょ」
「うん」
レインは頷く。
「でも、今は」
「“もう一回同じことをしても平気”って、
錯覚しそうになる」
その場の空気が、わずかに沈んだ。
リュカが、低く息を吐く。
「……錯覚、ね」
「ジル爺の蘇生が、
何も残してないわけがない」
エルドが、腕を組む。
「寿命を使ったって話なら」
「“帳尻”が、どこかにあるはずだ」
ミリアが、レインの額を小突いた。
「だから!」
「次からは勝手に限界超えるな!」
「……ごめん」
「ごめんじゃない!」
いつものやり取り。
だが、どこかぎこちない。
レインは、ふと視線を外す。
エルドの立つ位置。
リュカの呼吸。
ミリアの足運び。
――“距離”が、分かる。
正確な数値ではない。
だが、
(……今、前に出たら)
(……エルドが受ける)
(……でも、致命傷じゃない)
思考が、自然に流れる。
「……?」
レインは、軽く首を振った。
(気のせいだ)
(戦い慣れただけ)
自分に、そう言い聞かせる。
だが。
その瞬間、
エルドが小さく呻いた。
「……っ」
「どうした?」
ミリアが振り返る。
「いや……」
エルドは、首を振る。
「一瞬、胸が詰まっただけだ」
「……今は、平気」
レインの胸が、わずかにざわついた。
(……近い)
理由は分からない。
だが、**“今のままだと危ない”**という感覚だけが残る。
「……エルド」
「今日は、前に出すぎるな」
エルドは、少し驚いた顔をした。
「珍しいな」
「お前が、俺を止めるの」
「……なんとなく」
曖昧な答え。
だが、エルドは頷いた。
「分かった」
そのやり取りを、
リュカは黙って見ていた。
(……演算じゃない)
(でも、判断が早い)
(……何を拾ってる?)
小屋の外。
風が、木々を揺らす。
誰も気づかない。
レインの影が、
ほんの一瞬だけ――
“二重に重なった”ことを。
遠く。
ジル爺は、歩きながら肩を鳴らした。
「……ふむ」
「早速、出とるの」
「じゃがまぁ」
にやりと笑う。
「気づかんうちは、
気づかん方がええ」
「代償を知るのは、
最後でええからの」
杖を、地面に突く。
「さて」
「わしはわしで、
やることがある」
誰もいない道に、
独り言が落ちる。
「なぁ……」
「影の王よ」
「久しぶりに、
本気でやり合うかの」
その声は、冗談めいていた。
だが、空気が――
わずかに、軋んだ。
夜は、静かだった。
村外れの小屋に、灯りが一つ。
窓から漏れる光は、揺れもせず、落ち着いている。
レインは、眠れずにいた。
目を閉じると、
昼間には気づかなかった“違和感”が浮かんでくる。
(……変だ)
胸の奥が、妙に静かだ。
魔力が満ちているわけでも、
疲労が残っているわけでもない。
ただ――
“足りている”。
それが、一番おかしかった。
(あれだけ使って)
(あれだけ無理して)
(……どうして)
指先を見つめる。
震えはない。
感覚も、問題ない。
だが、目を閉じると――
(……これ以上、行ったら)
(……誰かが、払う)
はっきりした言葉ではない。
思考ですらない。
ただの、確信に近い感覚。
「……」
レインは、ゆっくりと息を吐いた。
(……ジル爺)
理由は分からない。
だが、名前だけが浮かぶ。
その時。
「……起きてる?」
小さな声。
ミリアが、戸口に立っていた。
「……うん」
「やっぱり」
ミリアは、少し困ったように笑う。
「寝息、聞こえなかったから」
近づいてきて、
レインの横に腰を下ろす。
「……無茶したね」
責める口調ではない。
ただ、事実を確認するような声。
「ごめん」
「うん」
ミリアは頷く。
「でも、助けてくれた」
「……ありがとう」
一瞬、沈黙。
距離が、近い。
レインは、無意識に――
ミリアの“先”を見てしまった。
(……今、倒れない)
(……でも、これを繰り返したら)
(……いつか)
胸が、きゅっと締め付けられる。
「……レイン?」
「……あ、ごめん」
視線を逸らす。
(……見える必要、ない)
(……知らなくていい)
だが、その“見えた感覚”は、消えなかった。
ミリアは、腕を組む。
「ね」
「次からは」
「ちゃんと頼って」
「一人で全部、やらないで」
レインは、少しだけ笑った。
「……うん」
その返事は、
これまでよりも、少し重かった。
外では、風が吹いている。
世界は、何も変わっていない。
だが――
確実に、何かが“引き継がれた”。
遠く。
名もなき高台。
影の残滓が、ゆっくりと集まっていた。
「……一つ、失った」
低い声。
「だが」
「代わりに――」
空間が、歪む。
「“余計なもの”が、混じったな」
見えない視線が、
はるか遠くの一点を捉える。
「……寿命か」
「まったく」
くぐもった笑い。
「嫌な贈り物を、残してくれた」
闇が、再び静まる。
誰も、まだ知らない。
《非裁定》の中心で、
“支払う役”が、少しだけ変わったことを。
それに気づくのは――
もう少し、先の話だ。




