裁かれなかった人々
その村は、
地図にすらほとんど載っていなかった。
街道から外れ、
交易も少なく、
報告が遅れて当然の場所。
だからこそ――
影は、最初にそこを選んだ。
「……おかしいな」
朝市の準備をしていた男が、立ち止まる。
「今日は、
何を先に運ぶんだったか……」
荷車の前で、考え込む。
答えは、分かっているはずだった。
昨日も、先週も、
同じ作業をしていた。
だが――
決められない。
「父さん?」
娘の声にも、反応が遅れる。
「……ああ」
「今、行く」
そう言いながら、
足が動かない。
村では、同じことが起き始めていた。
逃げ遅れたわけでもない。
魔物に襲われたわけでもない。
ただ――
判断が、遅れる。
「……鐘、鳴らした方がいいんじゃないか?」
「いや……まだ様子を見よう」
「でも、もし――」
「決めるほどのことじゃないだろ」
誰もが、
“決断する理由”を失っていた。
そこへ、
《非裁定》が辿り着く。
「……静かすぎる」
ミリアが、眉をひそめる。
「逃げた形跡がない」
「でも、
生活の音もしない」
リュカが、《戦域把握》を広げる。
「……敵意反応、なし」
「魔力反応も、
戦闘レベルじゃない」
「なのに」
視線を、村の中央へ。
「……人が、
“止まってる”」
広場には、数人の村人が立っていた。
立っているだけ。
倒れてもいない。
逃げてもいない。
ただ――
次の行動を、選べずにいる。
「……これ」
ミリアが、小さく呟く。
「蒼衡も、
英雄も来ないやつだ」
「うん」
レインは、静かに答える。
「切る理由がない」
「戦闘じゃない」
「でも」
一歩、前に出る。
《模写理解》は、
微かに反応していた。
(……選択剥奪)
(四天王クラスの“実装”)
(でも――)
(本体じゃない)
エルドが、盾を背負ったまま言う。
「……放っておいたら?」
「どうなる?」
レインは、即答しなかった。
村人を見る。
迷い。
停滞。
焦りすら、薄れていく目。
「……そのうち」
「決められないまま、
倒れる」
「それは――」
ミリアが、歯を噛む。
「殺されてるのと、
同じだ」
遠くで、
誰かが倒れる音がした。
走る者はいない。
助けを呼ぶ声も、上がらない。
「……間に合う?」
リュカが、低く聞く。
レインは、全員を見る。
「英雄は、
戦場じゃないと来れない」
「蒼衡は、
切れない場所には手を出せない」
一拍。
「だから」
「ここは――」
静かに、告げる。
「僕らの場所だ」
《非裁定》は、
剣も魔力も構えないまま、
村へ踏み込んだ。
裁かず。
退かず。
そして――
選ばせないために。
村に踏み込んだ瞬間、
空気の“重さ”がはっきりと分かった。
重いのではない。
張り付くように、動かない。
「……足、取られる感じがしない」
ミリアが、地面を踏み直す。
「でも、
進んでる実感もない」
「“抵抗”じゃない」
レインは、静かに言った。
「“保留”だ」
《戦場演算》は、
数値を出さない。
代わりに示すのは、
“次の行動候補が生成されない”という異常。
(……選択肢が、出てこない)
(原因は外部)
(でも――強制じゃない)
広場の中央。
倒れた老人の横で、
若い男が膝をついていた。
「……水を」
「水を持ってくるべきか」
「でも、
他にやることがあるかもしれない」
男は動かない。
視線だけが、空を彷徨っている。
エルドが、一歩前に出た。
盾を構えない。
ただ、男と老人の間に立つ。
《受理領域》が、
音もなく展開される。
「……考えなくていい」
低い声。
「今は」
「水を取ってこい」
男の肩が、びくりと揺れた。
「……水」
言葉が、
“選択”として成立する。
男は立ち上がり、
走り出した。
「……効いてる」
リュカが、息を吐く。
「判断を、
一時的に“預かってる”」
「うん」
レインは、頷いた。
「でも、これは――」
長くは持たない。
村全体を覆う“停滞”は、
まだ解けていない。
その時。
《戦域把握》が、
わずかに歪んだ。
「……来る」
リュカの声が低くなる。
「中心じゃない」
「“選ばせなかった場所”から」
ミリアが、舌打ちする。
「ほんと、
嫌な性格してる」
影は、姿を見せない。
代わりに、
村の端に立つ一人の女が、ゆっくりと歩き出した。
「……あれ?」
誰かが、気づく。
「さっきまで、
いなかったよね?」
女は、笑っていた。
困っている様子もない。
迷っている様子もない。
ただ――
“決めている”。
「ここは、
安全じゃない」
女の声は、よく通る。
「動かないと、
全員、死ぬ」
村人たちが、ざわつく。
久しぶりに、
“理由”が与えられた。
「私について来て」
「早く」
「考える時間はない」
《戦場演算》が、即座に反応する。
(……選択肢、強制生成)
(恐怖による誘導)
(影――上位個体)
レインが、一歩踏み出す。
「止まって」
女の視線が、初めてこちらを向いた。
「……誰?」
「君に、
判断を任せる気はない」
女は、微笑む。
「判断しない人間は、
使えない」
その瞬間。
ミリアが、地面を蹴った。
《踏越位》
女の“前提”を越え、
恐怖の導線を断ち切る位置へ。
「ここは」
ミリアの声が、はっきりと響く。
「選ばせる場所じゃない」
影が、初めて表情を歪めた。
――ようやく。
戦闘ですらない、
“戦い”が、始まった。
女――影の上位個体は、笑ったままだった。
「面白いわね」
村の中央で、両手を広げる。
「判断を奪うと、止まる」
「恐怖を与えると、従う」
「なのにあなたたちは――」
視線が、非裁定の全員をなぞる。
「どちらも壊す」
空気が、再び重くなる。
村人たちの足取りが鈍る。
言葉が途切れ、
視線が泳ぎ始める。
判断が、
再び“遅れ始めた”。
「……来る」
リュカが低く告げる。
《戦域把握》の中で、
選択肢が急速に減っていく。
「恐怖を理由に、
“今すぐ決めろ”ってやつだ」
「厄介」
ミリアが、歯を噛む。
「前に出れば、
村人が巻き込まれる」
「下がれば、
止まる」
一瞬の沈黙。
その中央に、エルドが立った。
盾を、地面に突き立てる。
《受理領域》
音もなく、
“迷い”が集まってくる。
「……考えなくていい」
低い声。
「今は、
俺が受ける」
村人たちの肩から、
力が抜ける。
膝をつく者がいる。
泣き出す子どもがいる。
だが――
動きは、止まらない。
「……いい判断だ」
影が、目を細めた。
「でも、
一人じゃ足りない」
次の瞬間、
恐怖が“選択肢”として拡散する。
逃げろ。
隠れろ。
従え。
三つの未来が、
同時に突きつけられる。
「……させない」
リュカが、地面に手をつく。
《戦局重畳》
戦場が、重なる。
逃げる道。
守る位置。
対峙する線。
選択が、
排他じゃなくなる。
「同時に、行ける」
「誰かを切らなくても、
前に進める」
影の笑みが、
初めて歪んだ。
「……理屈が多い」
「嫌いじゃないけど」
次の瞬間、
女の立ち位置が“誘導点”になる。
恐怖の流れが、
村人たちを巻き込もうとする。
「――そこだ!」
ミリアが、踏み込んだ。
《踏越位》
誘導線の“外”へ。
《戦線確定》
一閃。
恐怖の通路が、
物理的に断ち切られる。
「ここから先は」
ミリアの声が、強く響く。
「通さない」
影は、静かに息を吐いた。
「……なるほど」
「でも、
それでも人は――」
言葉が、途中で止まる。
レインが、
一歩前に出ていた。
《因果遮断》
恐怖で“選ばせる”という因果が、
成立しなくなる。
影の存在が、
一瞬、揺らいだ。
「……これが」
「あなたたちの答え?」
「うん」
レインは、短く答える。
「裁かない」
「退かない」
「選ばせないために、
選ぶ」
影は、肩をすくめた。
「今回は、
ここまでね」
身体が、霧のように薄れる。
「次は、
もっと完成した形で会いましょう」
消える間際、
一言だけ残す。
「――観測は、済んだ」
静寂。
村に、
風の音が戻る。
誰かが、動き出す。
誰かが、誰かを支える。
生活の音が、
ゆっくりと戻っていった。
ミリアが、剣を収める。
「……疲れた」
「うん」
レインは、
その場に座り込んだ。
息が、少し荒い。
エルドが、
何も言わず盾を下ろす。
リュカが、空を見上げた。
「……英雄じゃなくて、
よかったですね」
ミリアが、笑う。
「切らなくて、
済んだもんね」
レインは、
村を見渡した。
「裁かなかった」
一拍。
「だから、
残った」
《非裁定》は、
静かに次の道を選ぶ。
――退かず。
――裁かず。
そして、
世界はまた一つ、
“切られずに”残った。




