役割が壊れる音
森を抜ける街道。
《非裁定》は、足を止めていた。
理由は単純だ。
「……気持ち悪い」
ミリアが、率直に言う。
「敵意がない。
でも、いないとも言い切れない」
「戦場が、薄い」
リュカが眉を寄せる。
《戦域把握》が、正常に働いていない。
「前線、後衛、退路……
全部あるはずなのに」
「“役割”として、
認識できない」
エルドは、盾を構えている。
だが――
いつもより、半歩遅い。
「……俺、前に立ってるよな?」
その言葉に、ミリアが振り返る。
「立ってる」
「でも……」
一瞬、言葉に詰まる。
「……なんか、
“そういう感じ”がしない」
その瞬間だった。
空気が、ずれた。
音もなく、
人影が“立っている”。
いつからいたのか、分からない。
背丈は普通。
装備も簡素。
だが――
笑っている。
「へえ」
軽い声。
「ちゃんと噛み合ってるじゃん」
ミリアが、即座に前に出る。
《踏越位》。
だが――
踏み込んだ瞬間、違和感。
(……前じゃない?)
剣を振る。
《断迷穿》。
だが、
刃は“空振った”。
「……え?」
「今のは」
男は、楽しそうに首を傾げる。
「前衛の動きだよね?」
「でもさ」
一歩、横にずれる。
「それ、
“前衛じゃない位置”なんだ」
次の瞬間。
エルドの盾が、
重くなる。
《不退域》が、成立しない。
「……っ!」
「盾役が前に立つのは、正しい」
男は、淡々と言う。
「でも」
「今は――」
視線が、リュカに向く。
「君が前に立つ“流れ”だ」
リュカの足が、
一歩、前に出てしまう。
「……!?」
意志じゃない。
役割が、
押し付けられた。
ミリアが叫ぶ。
「リュカ、下がって!」
「下がれない!」
レインの《戦場演算》が、
異常を示す。
(……配置が)
(役割が、
入れ替わっている)
男は、心底楽しそうだった。
「いいね」
「壊れ方が、
すごく綺麗だ」
名は、まだ告げられない。
だが――
《非裁定》は、はっきり理解する。
これは、
切る相手でも、裁く相手でもない。
“噛み合い”そのものを
壊しに来た存在だ。
「……レイン!」
ミリアの声。
「指示を!」
レインは、歯を食いしばる。
《因果遮断》は、
まだ使えない。
使えば、
“答え”を見せてしまう。
「……全員、動くな!」
その一声で、
男の笑みが、さらに深くなった。
「いい判断」
「でも――」
「それ、
長くは持たないよ?」
森が、静まり返る。
役割が、
音を立てて軋み始めていた。
「……くそっ」
ミリアが歯を食いしばる。
剣は振れる。
身体も動く。
だが――
当たるべき場所に、当たらない。
「位置が……ずれてる?」
「違う」
レインが即座に否定する。
「役割が、先に動いてる」
《戦場演算》は、
いつもなら即座に“前線”“後衛”“退路”を描き出す。
だが今は――
線が、定まらない。
(前線が、流動化してる)
(誰が前に立つかを、
戦場そのものが決めてる……?)
男は、距離を保ったまま動かない。
攻撃も、しない。
ただ――
配置を“眺めている”。
「いいねぇ」
楽しげな声。
「ちゃんと役割を覚えてるパーティほど、
壊れるのが早い」
「……っ!」
エルドが、前に出ようとして止まる。
盾を構えた瞬間、
身体が重くなる。
《不退域》が、
逆に“足枷”になる。
「……俺が、前に出るほど」
「他が、前に押し出される……!」
「正解」
男は、ぱちんと指を鳴らす。
「君は“盾役”だ」
「だから――」
一瞬、
リュカの視界が歪む。
「……前に、来い」
足が、勝手に踏み出る。
「リュカ!」
ミリアが叫ぶ。
「下がれ!」
「下がれない!」
リュカは、歯を食いしばる。
《余白展開》を使おうとするが――
余白が、成立しない。
「……っ」
「連携は、
信頼が前提だろ?」
男は、心底楽しそうだった。
「でもさ」
「信頼って、
役割を固定する」
「固定された役割は――」
一歩、踏み込む。
「崩すと、楽しい」
その瞬間。
ミリアが、無理やり前に出た。
《踏越位》。
だが――
踏み越えた“先”が、前線じゃない。
「……っ!?」
空を切る。
男は、
すでに“後衛の位置”にいる。
「おっと」
「今は、
君が後ろだ」
「ふざ――」
ミリアの声が、詰まる。
レインの演算が、
警告を出す。
(……このままだと)
(誰かが、
本来の役割じゃない場所で被弾する)
(それが、
狙いだ)
「……全員」
レインは、低く告げる。
「役割を捨てろ」
一瞬、
全員が動きを止める。
男の笑みが、わずかに揺れた。
「……ほう?」
「盾役とか、前衛とか」
レインは、言葉を選ばず続ける。
「今は、
全部“ただの個人”だ」
「立ちたい場所に、立て」
エルドが、盾を下ろす。
ミリアが、半歩下がる。
リュカが、無理に前へ出るのをやめる。
戦場が、
一瞬だけ“静止”した。
「……なるほど」
男は、感心したように言った。
「でも――」
「それ、
長く続かない」
視線が、レインに向く。
「君がいる限り、
また役割は生まれる」
「君は――」
一歩、距離を詰める。
「“再定義”する側だ」
空気が、張り詰めた。
役割を壊す影と、
役割を再構築する者。
勝敗は、
まだ決まらない。
だが――
次に動けば、何かが折れる。
沈黙が、戦場を支配していた。
役割を捨てたことで、
《非裁定》は一時的に崩壊を免れている。
だが――
安定していない。
「……息が合わない」
ミリアが、小さく吐き捨てる。
「前に出ると、
誰かが空く」
「下がると、
誰かが押される」
エルドは、盾を持ったまま動けずにいた。
「……盾を構えない方が、
場が軽い」
「でも、
それじゃ意味がない」
リュカが、歯を食いしばる。
「僕が下がると、
今度は前が薄くなる」
「……詰んでる?」
男は、その様子を眺めていた。
まるで――
壊れかけの玩具を見る子供のように。
「惜しいなぁ」
軽い声。
「本当に、
あと一歩だ」
「役割を捨てる判断は、正しい」
「でも」
一歩、前に出る。
「捨てただけじゃ、
再構築できない」
空気が、軋む。
「君たちは、
“役割がある前提”で強い」
「だから」
「それを奪われると、
自分が何者か分からなくなる」
ミリアが、睨みつける。
「……それが、
あんたの狙い?」
「そう」
男は、あっさり認めた。
「立つ理由を、
壊す」
「それだけで、
大抵の連中は崩れる」
一瞬。
エルドが、盾を地面に突き立てた。
「……俺は」
低い声。
「盾役じゃなくてもいい」
「前線じゃなくてもいい」
「でも」
盾に、手を置く。
「誰かが倒れそうなら、
そこに立つ」
その言葉に、
空気がわずかに変わる。
「……あ」
リュカが、気づく。
「それ、
役割じゃない」
「意思だ」
ミリアが、笑った。
「そっか」
「前とか後ろとか、
どうでもいい」
「倒れそうな場所に、
行くだけだ」
レインの《戦場演算》が、
静かに再起動する。
(……再定義)
(役割じゃない)
(選択の重なりだ)
男の表情が、初めて曇った。
「……それは」
「綺麗すぎる」
一歩、距離を取る。
「完成していない」
「今は、
たまたま立てているだけだ」
「次は――」
視線が、レインに刺さる。
「もっと深く壊す」
「役割も、意思も、
区別がつかなくなるところまで」
空間が、歪む。
男の輪郭が、
影に溶け始める。
「名乗らないの?」
ミリアが、挑発する。
男は、最後に一度だけ振り返った。
「名は、
勝った後でいい」
影は、消えた。
森に、静寂が戻る。
誰も、すぐには動けなかった。
「……勝ってないよね」
ミリアが、ぽつりと言う。
「うん」
レインは、正直に答える。
「でも」
全員を見る。
「折れてない」
エルドが、盾を背負い直す。
「……立てた」
リュカが、息を整える。
「完成じゃない」
「でも、
方向は見えました」
レインは、空を見上げた。
《模写理解》は、
まだ沈黙している。
だが――
次に拾う歪みは、
今日より深い。
「……行こう」
「影は、
もう一段上から来る」
《非裁定》は、
再び歩き出す。
裁かず。
退かず。
そして――
役割に縛られないために、
迷い続ける。




