影は世界を試す
世界は、同時に壊れ始めていた。
北方の鉱山都市。
坑道が一晩で崩落し、
掘り出されたはずの魔鉱が“血を吸う石”に変質した。
原因不明。
対処に向かった冒険者は戻らず、
街は封鎖されたまま、沈黙している。
―――
東の穀倉地帯。
魔物の群れが、
作物ではなく人だけを狙って襲った。
逃げる者を追わず、
抵抗する者だけを執拗に殺す。
まるで――
感情を学習しているかのように。
生き残った村人は、
口を揃えて言った。
「……魔物が、笑っていた」
―――
南の港湾国家。
夜明けと共に現れた“影”は、
艦隊を沈めなかった。
代わりに――
港の中央だけを切り取るように消した。
海は凪いだまま。
波も血も立たない。
だが、
そこにあったはずの人、船、建物だけが
「なかったこと」になっている。
調査に入った英雄は、
一言だけ報告した。
「……戦闘の痕跡がない」
「戦いですら、なかった」
―――
そして、
誰にも知られない場所で。
影の中に、
“それ”は並んで立っていた。
人型。
だが、人ではない。
魔力でも、殺気でもない。
存在そのものが、
周囲の世界を歪ませている。
一体は、崩れた街を見下ろし、
興味なさそうに首を傾げる。
別の一体は、
逃げる人々を眺めながら、
まるで計算するように指を動かしていた。
残る存在は、
何も見ていない。
ただ、
何かが“立つこと”を嫌悪している。
言葉は、まだ交わされない。
名も、語られない。
だが共通しているのは、一つ。
――彼らは、急いでいない。
「……まだ、足りない」
誰かが、
そう呟いた気がした。
世界は、
“選ばせる段階”を終えつつある。
次に来るのは――
奪う段階。
切るでもなく、
裁くでもなく。
立つことそのものを、許さない影。
その歪みが、
静かに、確実に、
《非裁定》の進む先へ
収束し始めていた。
世界機関・中央庁舎。
円卓の間に、沈黙が落ちていた。
地図の上には、赤い印が打たれている。
一つや二つではない。
同時多発。
「……多すぎる」
誰かが、絞り出すように言った。
「英雄を分散させても、
対応が追いつかない」
「被害の性質が違う」
「魔物暴走、都市消失、
判断不能案件……」
報告官の声が、淡々と続く。
「共通点は一つ」
「すべてに、
“影”の介在が確認されています」
円卓の一角で、
蒼衡の代表が腕を組んでいた。
「……切った」
低い声。
「我々は、
即時判断で切った」
「結果は?」
問いかけに、
一瞬の間。
「……被害は止まった」
「だが」
報告官は、言葉を選ぶ。
「切った区域は、
戻らない」
「人も、街も、
“再建不能”です」
蒼衡の空気が、わずかに揺れた。
「それでも、
被害拡大よりは――」
「違う」
英雄の一人が、静かに遮る。
「それは、
“次の段階”を呼ぶ」
全員の視線が集まる。
「影は、
反応を見ている」
「切れば、
より切れない場所を狙う」
「守れば、
守る者の限界を測る」
拳を、軽く卓に置く。
「つまり――」
「もう、
英雄と蒼衡だけの問題じゃない」
沈黙。
世界機関の長が、
ようやく口を開いた。
「……非裁定は?」
その名が出た瞬間、
空気が一段、重くなる。
「彼らは――」
「裁かない」
「退かない」
「だが、
切らないわけでもない」
英雄の一人が、
苦笑する。
「正直、
扱いづらい」
「だが」
別の英雄が続ける。
「今、
“残す戦い”をしているのは、
あいつらだけだ」
蒼衡の代表が、舌打ちする。
「……理想論だ」
「世界は、
そんなに待ってくれん」
「だからこそだ」
長が、静かに告げる。
「彼らを、
正式な指揮下には置かない」
「だが」
一拍。
「非公式に動いてもらう」
視線が、集まる。
「命令ではない」
「依頼でもない」
「ただ――」
「情報を渡す」
「判断は、
彼らに委ねる」
英雄の一人が、肩をすくめた。
「面倒な役だな」
「だが」
「今は、
それが一番“世界に優しい”」
地図の端。
まだ印のついていない、
一つの地域。
そこに、
静かに影が落ち始めていた。
世界は、
誰かに決めてほしいわけじゃない。
立っていてほしいだけだ。
そしてその役を、
引き受けてしまう連中がいる。
裁かず。
退かず。
――《非裁定》。
その情報は、
命令でも依頼でもなかった。
一枚の紙と、
いくつかの地名。
それだけだ。
「……ずいぶん雑だね」
ミリアが、紙をひらひらさせる。
「説明なし。
期限なし。
優先度も書いてない」
「つまり」
リュカが、静かに補足する。
「“好きに判断しろ”ということですね」
エルドは、紙に書かれた地名を指でなぞる。
「……どれも、
人が多い場所だ」
「街道沿い。
補給線。
避難が遅れやすい」
レインは、まだ紙を見ていなかった。
代わりに、
周囲の“気配”を読んでいる。
《模写理解》は、
何も拾わない。
だが――
それが逆に、不自然だった。
「……来てる」
小さな声。
「もう、
始まってるね」
その瞬間。
地面が、わずかに揺れた。
揺れというより――
重さが増した感覚。
「……影?」
ミリアが、即座に前に出る。
「違う」
レインは首を振る。
「もっと……」
言葉を探す。
「“端”だ」
空気の端。
世界の端。
何かが、
“立つ場所を削っている”。
リュカの《戦域把握》が、
遅れて反応する。
「……っ」
「戦場として、
成立しない」
「ここ、
前線が引けない……!」
エルドが、盾を構える。
《不退域》。
だが、
いつもより感触が重い。
「……押されてる?」
「押してない」
レインが、低く言う。
「消してる」
その時。
前方の空間が、
“折れた”。
音はない。
光もない。
ただ、
そこにあったはずの空気が――
なかったことになる。
ミリアが、歯を食いしばる。
「……四天王、
ってやつ?」
「分からない」
レインは、正直に答える。
「でも――」
一歩、前に出る。
「本体じゃない」
「……それだけで、
十分ヤバいんだけど!」
影の向こうで、
“何か”がこちらを見ている。
直接ではない。
評価でもない。
配置を確認している。
「……なるほど」
リュカが、低く呟く。
「これは、
“戦うため”じゃない」
「立てるかどうかの、
確認だ」
エルドが、盾を地面に突き立てる。
「……立つ」
「俺は、
ここに立つ」
ミリアが、隣に並ぶ。
「前線、
譲らない」
レインは、二人の背を見て――
ゆっくりと息を吐いた。
《因果遮断》は、
まだ使わない。
使えば、
“答え”を見せてしまう。
「……行こう」
「世界機関が何を考えてようと」
「英雄が切ろうと」
「影が、
立つなと言おうと」
一歩、踏み出す。
「俺たちは、
非裁定だ」
空間が、
わずかに軋んだ。
だが――
まだ、壊れない。
影は、
それを確認すると――
引いた。
完全な撤退ではない。
次は、
もっとはっきり来る。
ミリアが、剣を握り直す。
「……嫌な予感しかしない」
「当たりです」
リュカが、淡々と答える。
エルドは、盾を背負い直した。
「……でも」
「立てた」
レインは、頷く。
「それで、
十分だ」
《非裁定》は、
まだ何も倒していない。
だが――
世界にとって一番厄介な答えを、
すでに出していた。
ここに立つ。
それだけで、
影は本気になる。




