修行の終わりは、唐突に
古文書のページをめくる音が、また止まった。
「……なあ」
最初に声を上げたのは、ミリアだった。
膝の上に開いたままの書を閉じ、天井を仰ぐ。
「これ、何日目?」
「八日目」
即答で返すリュカ。
「正確には、同じ工程を繰り返し始めてからは六日」
「……だよね」
ミリアは床に転がる。
「飽きた!!」
「早い」
「いや遅い!」
即座に起き上がり、ジル爺を指差す。
「いつまでやるのよこの修行!
配置だの立ち位置だの、
もう頭いっぱいなんだけど!」
エルドも、珍しく頷いた。
「……正直に言うと」
盾を壁に立てかけたまま、少し困った顔。
「成長してる感覚はあるんだ。
でも……」
言葉を探す。
「“終わり”が見えない」
リュカも、本を閉じる。
「同感です」
「理解は深まってる。
でも、これが実戦でどう噛み合うのか――」
視線が、自然とレインに集まる。
レインは、答えなかった。
代わりに、ジル爺を見た。
そのジル爺は――
縁側で茶をすすっていた。
「……おい」
ミリアが詰め寄る。
「ジル爺」
「いつまでやるの?」
「まさか一生とか言わないでしょうね?」
ジル爺は、ゆっくり湯飲みを置いた。
「落ち着け、バカモン」
「バカモン言うな!」
「修行は――」
一拍。
「もう、ほとんど完成しとるわい」
空気が止まる。
「……は?」
ミリアが固まる。
エルドも、目を瞬かせる。
「完成?」
「……今?」
ジル爺は、当然のように頷いた。
「うむ」
「これ以上やっても、
感覚が鈍るだけじゃ」
「今はな」
立ち上がり、外を見やる。
「“見せ場”を待っとっただけじゃ」
「見せ場?」
次の瞬間。
――空気が、変わった。
森の奥。
風の流れが、逆転する。
「……来た」
レインが低く呟く。
《戦場演算》が、
警告ではなく“確認”を返す。
(……影)
(しかも――)
ミリアが、喉を鳴らす。
「……重い」
「さっきのやつらと、
全然違う……」
エルドは、反射的に盾を構えた。
「……上位、ですね」
リュカの声も、硬い。
森の影が、ゆっくりと形を成す。
“影上位”。
これまで相手にしてきた存在とは、
格が違う。
一歩、また一歩。
「……無理じゃない?」
ミリアが、小さく言った。
「今のままじゃ……」
空気が、焦りに傾く。
その時。
「ほっほ」
間の抜けた笑い声。
「何をビビっとる」
ジル爺が、前に出た。
「心配するな」
振り返り、全員を見る。
「今のお主らなら、余裕じゃ」
「……え?」
「いや、爺さん」
ミリアが思わず突っ込む。
「相手、上位なんだけど!?」
「じゃからじゃ」
ジル爺は、にやりと笑った。
「修行の成果を見せるには、
おあつらえ向きじゃろ?」
そして、低く告げる。
「――ほれ」
「立ち位置を思い出せ」
その一言で、
不思議と場が静まった。
焦りが、引いていく。
レインは、息を整える。
(……確かに)
(今までと、違う)
ミリアは、剣を握り直した。
「……前に出る」
「でも、突っ込まない」
エルドが、盾を地面に据える。
「……ここは、通さない」
リュカが、周囲を見渡す。
「……余白、作れます」
ジル爺は、満足そうに頷いた。
「よい」
「それでこそじゃ」
影上位が、動く。
だが――
もう、怖くなかった。
影上位が、地面を踏み砕いた。
音もなく距離が詰まる。
ただ“来た”という事実だけが、空気を圧迫する。
「……速い!」
ミリアが前に出る――
が、踏み込みすぎない。
(前に出る。でも、孤立しない)
身体が、自然にそう動いていた。
《断迷穿》
剣が走る。
狙いは肉体ではない。
“次の行動”。
影上位の動きが、一瞬だけ鈍る。
「……?」
影が迷った。
ほんの一瞬。
だが、それで十分だった。
「来るぞ」
レインの声は、冷静だった。
《因果整流》
因果を切らない。
壊さない。
ただ――
“流れやすい形”に整える。
すると。
ミリアの斬撃が、
不自然なほど“通る”。
「……っ、軽い?」
ミリア自身が驚く。
いつもの感触と、違う。
「前線、安定してます」
リュカが即座に判断する。
《余白展開》
逃げ道でも、拘束でもない。
“選べる場所”だけが、
戦場に浮かび上がる。
影上位の動きが、また一瞬止まる。
(……どこを潰す?)
(……誰を狙う?)
その“迷い”が、
そのまま隙になる。
「――ここは、通さない」
低い声。
エルドが、一歩踏み出した。
《不退域》
盾を構えた場所が、
“退かない前提”になる。
攻撃が、集中する。
だが――
エルドは下がらない。
「……っ」
重い衝撃。
それでも、立っている。
(受け止めてる……)
(無理してる感じが、ない)
レインの演算が、
初めて“安心”を返す。
(……成立してる)
影上位が、力を集める。
黒い衝撃波。
「ミリア!」
「分かってる!」
ミリアは、前に出すぎない。
斬る。
止める。
下がる。
動きが、自然に循環する。
「……なんだこれ」
ミリアが、思わず笑う。
「戦いやすい!」
影上位が、後退した。
初めて。
「……逃げる?」
エルドが、息を整えながら呟く。
「いや」
レインが、首を振る。
「逃げてない」
《戦場演算》が、静かに結論を出す。
「崩れてる」
その瞬間。
全員が、同時に理解した。
今なら――
合わせられる。
「……行くよ」
ミリアが、短く言う。
「了解」
「行けます」
「任せろ」
呼吸が、揃う。
《立域共鳴》
戦場が、
“妙に楽”になる。
力を使っているはずなのに、
無理がない。
影上位が、
完全に押される。
「……嘘でしょ」
ミリアが、目を見開く。
「……余裕、なんだけど」
ジル爺が、後ろで腕を組む。
「ほれ言ったじゃろ」
「完成しとる、と」
影上位は、
最後の抵抗に入ろうとする。
だが――
もう、遅い。
影上位が、最後の力を振り絞る。
黒い靄が、身体から噴き出すように膨張した。
「……来る!」
エルドが、即座に踏ん張る。
《不退域》
盾を構えた場所が、揺るがない。
衝撃が、正面から叩きつけられる。
「……っ!」
だが、後退はしない。
(……受けきれてる)
エルド自身が、一番驚いていた。
無理に耐えている感覚がない。
“立っていること”が、自然になっている。
「今だ!」
ミリアが、前に出る。
《断迷穿》
影上位の進路を断ち、
判断そのものを切り裂く。
動きが、完全に止まった。
「……終わらせる」
レインの声は、静かだった。
《因果整流》
流れが、整う。
壊さない。
否定しない。
ただ――
“通る形”になる。
「行けます!」
リュカが、即座に判断する。
《余白展開》
逃げ場でも、罠でもない。
“避けられない一本道”が、
自然に出来上がる。
影上位は、そこに立つしかなかった。
「――っ!」
ミリアの剣が、閃く。
重くない。
怖くない。
ただ、
正しい場所に振られた一撃。
影上位の身体が、
音もなく崩れ落ちる。
黒い靄が、霧のように消えた。
静寂。
「……え?」
ミリアが、剣を下ろす。
「……終わった?」
「終わりましたね」
リュカが、肩の力を抜く。
「……あっさり」
エルドは、盾を見下ろす。
「……立ってる」
「俺、立ってる」
次の瞬間。
「……やった!」
ミリアが、思わず叫んだ。
「できたじゃん!!」
エルドが、思わず笑う。
「……できましたね」
リュカも、珍しく表情を緩める。
そのまま、
全員が――
自然に、
抱き合っていた。
「ちょ、ミリア近い!」
「うるさい!
今くらいいいでしょ!」
「盾邪魔!」
「今は許してください!」
笑い声が、森に響く。
少しだけ、
胸が熱くなる。
その様子を、
少し離れた場所で見ていた老人が、
深く頷いた。
「……ほっほ」
ジル=バルドゥイン。
満足そうな顔。
「ようやくじゃな」
「前に出る者」
「支える者」
「整える者」
「見る者」
「それぞれが、
ちゃんと立っとる」
杖を肩に担ぐ。
「これでやっと、
“戦える修行”は終わりじゃ」
「え、まだ続くの!?」
ミリアが即ツッコむ。
「次は実戦じゃ」
ジル爺は、にやりと笑った。
「本当の敵は、
もっと賢い」
「もっと卑怯で」
「もっと厄介じゃ」
レインは、皆を見る。
恐怖は、ない。
焦りも、ない。
ただ――
確かな手応え。
「……行こう」
レインが言う。
「次は、
俺たちの番だ」
その言葉に、
全員が頷いた。
修行は終わった。
だが――
戦いは、ここからだった。




