弟子にいいところを見せる日
北部拠点の空気が、唐突に変わった。
風が止まり、
森の音が消える。
「……来た」
リュカの声は低い。
エルドは、反射的に盾を構えた。
「敵意、
はっきりしてる」
ミリアは、すぐに前線の線へ立つ。
剣に手をかけるが、
踏み込まない。
修行で叩き込まれた“立ち位置”を、
身体が覚えていた。
レインは、一歩引いた位置で全体を見る。
《戦場演算》が回り始める。
(……一体)
(……でも、
質が違う)
森の影が、
ゆっくりと形を持つ。
黒い靄のような存在。
輪郭は人型だが、どこか歪んでいる。
「……あれが」
ミリアが、唾を飲む。
「影」
殺気が、はっきりと“向けられて”いる。
次の瞬間。
影は、音もなく踏み込んだ。
速い。
ミリアが反応しようとした、その時――
「待て」
落ち着いた声。
全員の前に、
ふらりと歩み出る影が一つ増えた。
ジル=バルドゥイン。
酒瓶を片手に、
欠伸を噛み殺しながら。
「ほれほれ」
「物騒な顔しとるのう」
「……爺さん!」
ミリアが叫ぶ。
「下がって!」
「下がる理由がない」
ジル爺は、影を一瞥する。
「ふむ」
「これは……」
少し考える素振り。
「一兵卒じゃな」
影が、明確な殺意を放つ。
だがジル爺は、気にも留めない。
「弟子が見とる前で、
雑魚相手に後れは取れん」
軽く、肩を回す。
「ちょいと」
「いいところを見せようかの」
影が、跳んだ。
次の瞬間。
何が起きたのか、
誰も正確には理解できなかった。
影の動きが、
“途中で無くなった”。
存在が削られ、
踏み込みの概念ごと消えている。
音もない。
衝撃もない。
ただ――
影が、後方に弾かれるように吹き飛んだ。
「……は?」
ミリアが、呆然と呟く。
エルドの盾が、
微かに震えている。
(……見えなかった)
リュカは、歯を食いしばる。
(配置も、
因果も、
読めない)
レインは、はっきりと理解した。
《模写理解》が、
何一つ拾えない。
技ですらない。
(……“やった”という結果だけ)
ジル爺は、満足そうに頷いた。
「うむ」
「圧倒、じゃな」
影は、まだ消えていない。
歪んだまま、
必死に“何か”を溜めている。
空気が、再び張り詰めた。
「……まだ、来る」
レインが言う。
ジル爺は、ちらりと後ろを見る。
ミリアが、そこに立っている。
その瞬間。
影の殺意が、
一点に集中した。
「……っ!」
ミリアが、気づく。
「ミリア――!」
レインの声が、
鋭く響いた。
影が、
最後の力を振り絞る。
渾身の一撃が、
一直線に――
影が、裂けるように跳んだ。
その動きは、先ほどまでとは明らかに違う。
“残っている全て”を、一点に集めた速度。
「……ミリア!」
レインの声が、鋭く響く。
ミリアも気づいていた。
自分に向けて、
殺意が“固定”されていることを。
(……速い)
(止めきれ――)
次の瞬間。
衝撃が来る、はずだった。
だが――
「危ない!」
レインが、踏み出す。
前に出るな。
そう教えられていた。
だが、
身体が先に動いた。
ミリアの前に、
レインの背中が来る。
(……しまっ――)
レインの脳裏を、
最悪の予測が走る。
だが。
「ほっほ」
軽い声。
次の瞬間、
視界が暗転した。
衝撃が――
来ない。
代わりに。
どん、と重い音。
「……え?」
ミリアが、目を見開く。
目の前には、
見慣れた背中。
だが――
レインではない。
ジル=バルドゥイン。
影の一撃を、
真正面から“受けていた”。
「……爺さん!!」
エルドが、思わず叫ぶ。
ジル爺の身体が、
地面に崩れる。
「ジル爺!」
リュカが、血の気を失う。
「……直撃、
したはず……」
影は、力を使い切ったのか、
霧のように霧散していく。
静寂。
倒れたジル爺。
動かない。
ミリアの胸が、
一気に締めつけられる。
「……なんで」
「なんで、
庇うのよ……」
レインは、無意識にミリアを抱き寄せていた。
守るように。
離さないように。
「……大丈夫」
震える声。
「もう、
終わった」
だが、
返事がない。
「……爺さん?」
エルドが、恐る恐る近づく。
その時。
「……む」
地面から、
間の抜けた声。
「ちと、
驚かせすぎたかの」
「……?」
ジル爺が、
ゆっくりと起き上がる。
服は破れているが、
血は出ていない。
「……効いた?」
ミリアが、恐る恐る聞く。
ジル爺は、肩を回した。
「効くわけなかろう」
「あれしきの雑魚の一撃で、
ワシがどうにかなるかい」
えっへん、と胸を張る。
その直後。
「じゃがのう」
真顔になる。
「若者」
視線が、
ミリアに向く。
「命を守った礼として」
「最後の願いがある」
場の空気が、
一気に嫌な方向へ傾く。
ミリアの目が、
完全に据わった。
「……言ってみなさい」
ジル爺は、満面の笑みで言った。
「パンティを――」
「パンティを――」
言い終わる前だった。
ゴンッ!!
乾いた音が、森に響く。
ジル=バルドゥインの身体が、
今度こそ地面に転がった。
「死ね!!」
ミリアの拳が、
容赦なく叩き込まれていた。
「この!!
スケベ!!
たぬきジジイ!!」
「おごっ!」
「ぐふっ!」
エルドが慌てて止めに入る。
「ミ、ミリアさん!
もう十分――」
「十分じゃない!!」
拳を振り抜きながら叫ぶ。
「人が本気で心配した直後に
何言ってんのよ!!」
ジル爺は、地面に仰向けになりながら、
なぜか満足そうに笑っていた。
「はっはっは!」
「よい……」
「実によい反応じゃ……」
そう言って、
何事もなかったかのように起き上がる。
「……ピンピンしてる?」
リュカが、目を疑う。
「当たり前じゃ」
ジル爺は、胸を張る。
「あれしきの雑魚の攻撃、
ワシには蚊ほども効かんわい」
「えっへん」
その様子に、
一瞬の沈黙。
次の瞬間。
「ははっ……」
エルドが、吹き出した。
「……なんだそれ」
リュカも、苦笑する。
「心配して損しました」
ミリアは、腕を組んで吐き捨てる。
「このスケベたぬきジジイ……」
「褒め言葉じゃな」
即答。
空気が、一気に緩んだ。
その時。
「……あ」
ミリアが、ふと気づく。
自分が、
まだレインの腕の中にいることに。
「……」
レインも、
遅れて気づいた。
一瞬、
時間が止まる。
「……ご、ごめん!」
レインが、慌てて手を離す。
「危ないと思って……」
「……う、うん」
ミリアは、少し顔を赤くしながら視線を逸らす。
「……ありがとう」
「庇ってくれて」
声が、少しだけ小さい。
「……当然だよ」
レインも、目を合わせられない。
気まずい沈黙。
だが、
嫌ではない。
むしろ――
少し、温かい。
そこへ。
「ほっほっほ」
ジル爺が、わざとらしく咳払いする。
「若いのう」
「青春じゃのう」
「黙れ」
ミリアの即答。
全員が、笑った。
森に、
久しぶりに明るい声が響く。
影は、消えた。
だが、
脅威が終わったわけではない。
それでも――
彼らは、立っていた。
一人ではなく。
同じ場所で。
修行は、確実に進んでいる。
距離も。
信頼も。
そして、
邪魔な賢者も含めて。




