真髄を語るには酒が足りん
北部へ向かう街道は、思ったよりも静かだった。
「……緊張感、ないね」
ミリアが、馬車道の脇を歩きながら言う。
「北部って聞くと、
もっと物騒な感じするのに」
「異変がある場所ほど、
表面は静かです」
リュカが淡々と答える。
「まだ、
“起ききってない”」
エルドは、盾を背負ったまま前を見ている。
「……でも」
「空気は、
軽くないな」
レインは、何も言わず頷いた。
《戦場演算》は沈黙している。
だが、何もないわけじゃない。
何かが、起きる前段階。
その匂いだけが、薄く漂っていた。
日が落ちる頃、
彼らは小さな宿に辿り着いた。
北部街道沿いの、
旅人と冒険者向けの宿。
「今日は、
ここで一泊だな」
エルドの言葉に、異論は出ない。
中に入ると、
食堂はほどほどに賑わっていた。
酒の匂い。
煮込みの匂い。
笑い声。
「……平和だ」
ミリアが、心底そう思ったように言う。
「こういう日、
嫌いじゃない」
席に着き、
軽く食事を頼む。
その時だった。
「おーい、嬢ちゃん」
やけに通る、
酒焼けした声。
全員が、そちらを見る。
カウンターの端。
樽を抱くように座った老人がいた。
白髪ぼさぼさ。
長い髭。
服はヨレヨレ。
そして――
明らかに、酔っている。
「……なんだ、あれ」
ミリアが、即座に興味を失う。
「見ない方がいい」
「面倒なやつだ」
レインも、視線を戻す。
関わらない。
それが一番。
だが、老人は満足しなかった。
「おいおい、
無視とは冷たいのう」
「ほれ、嬢ちゃん」
「その剣、
前線の使い方が古い」
ミリアの手が、止まった。
「……は?」
「今どきの剣士は、
あんな踏み込み方せん」
「“前に出る意味”を、
知っとる者の足じゃ」
一瞬、
場の空気が変わる。
「……偶然だろ」
ミリアが、睨み返す。
「酒飲みの戯言」
「ほう?」
老人は、にやりと笑った。
視線を、リュカへ移す。
「配置の読み方も、
古文代式じゃな」
「層を重ねる癖、
もう消えとらん」
リュカが、
ゆっくりと顔を上げた。
「……なぜ、それを」
「盾の兄ちゃん」
次は、エルド。
「受け方が、
“役割論”じゃ」
「前に立つ気がないのに、
前線を守る盾」
「懐かしいのう」
最後に、
老人の視線が――
レインに向く。
一瞬。
酔いが、消えた。
「……ほう」
声の調子が、
明らかに変わる。
「それは――」
「古代魔導書じゃろ」
レインの指が、
わずかに動いた。
「……なんで、それを」
老人は、酒を一口あおり、
ぐっと笑った。
「なんで使えるか、
聞きたい顔じゃな」
「でも」
視線を、ミリアに戻す。
「まずは対価じゃ」
「嬢ちゃん」
「パンティ、寄こせ」
――次の瞬間。
「死ね!!」
乾いた音。
ミリアの拳が、
老人の顔面に炸裂した。
老人は、椅子ごと転がった。
「……っ、
このスケベジジイ!!」
宿中が、静まり返る。
だが。
床に転がった老人は、
腹を抱えて笑い始めた。
「はははは!」
「よい!
実によい!」
「反射で殴る!」
「感情の初動、
合格じゃ!」
ミリアが、剣に手をかける。
「次は、
刃でいくけど?」
老人は、むくりと起き上がった。
顔は腫れている。
だが、目は――
異様に澄んでいた。
「分かった分かった」
手を振る。
「冗談じゃ」
「……半分はの」
一拍。
「これから、
真髄を教えよう」
宿の灯りが、
微かに揺れた。
北部の夜は、
まだ静かだ。
だが――
変なのを拾ってしまったことだけは、
誰の目にも明らかだった。
宿の空気は、まだ微妙に凍っていた。
倒れた椅子。
腫れた老人の顔。
拳を振り抜いたままのミリア。
「……出てけ」
ミリアが低く言う。
「今すぐ」
「追い出すなら、
酒代くらい払ってからにしてくれんかのう」
老人――ジル=バルドゥインは、
まったく懲りていない様子で席に戻る。
「宿主、
この一杯は奢りじゃ」
「……ああ、はい」
宿主が一瞬迷ってから酒を出す。
誰も逆らえなかった。
「で?」
ミリアが腕を組む。
「真髄だっけ?」
「ふざけたこと言うなら、
次は盾の人に殴らせる」
エルドが、無言で盾を構える。
ジル爺は、それを見て満足そうに笑った。
「よい、よい」
「ちゃんと“怒れる”」
「ちゃんと“止まれる”」
「ちゃんと“受ける”」
一口、酒を飲む。
「じゃが――」
声が、急に落ちる。
「お前ら、
同じことを別々にやっとる」
リュカが、眉をひそめた。
「……どういう意味です?」
「文字通りじゃ」
ジル爺は、指を一本立てる。
「剣の嬢ちゃんは、
前に出る」
「盾の兄ちゃんは、
耐える」
「配置の兄ちゃんは、
場を読む」
「魔導書の坊主は、
因果を切る」
一本ずつ、指を折っていく。
「全部、
正しい」
「じゃがな」
拳を、軽く卓に置く。
「同じ“層”の話をしとらん」
空気が、変わった。
レインの視線が、
わずかに鋭くなる。
「……層?」
「うむ」
ジル爺は、床を指で叩く。
「今のお前らは、
“結果”を止めとる」
「だが、
古代書が止めていたのは――」
一拍。
「判断が生まれる前じゃ」
ミリアが、思わず舌打ちする。
「……分かりにくい」
「そうじゃろうな」
ジル爺は、楽しそうだ。
「だから滅びた」
「古代は、
難しすぎた」
リュカが、静かに言う。
「……つまり」
「僕らは、
事後処理をしているだけ?」
「そうじゃ」
即答。
「だから疲れる」
「だから、
因果遮断を連発できん」
その言葉に、
レインの指が止まる。
「……見てたんだね」
「見とらん」
ジル爺は首を振る。
「読めるだけじゃ」
「お前さんの因果遮断はな」
「“切る”技じゃない」
「世界に無理をさせる技じゃ」
ミリアが、思わずレインを見る。
「……だから、
息切れする?」
「そうじゃ」
「完成しておらん」
「正確には――」
酒を置く。
「一人で完成させる技じゃない」
沈黙。
エルドが、低く言う。
「……俺たちが、
足りない?」
「足りんのは、
“位置”じゃ」
ジル爺は、エルドを見る。
「盾は、
守るために立つな」
「判断を引き受けるために立て」
次に、ミリア。
「前線は、
切るために出るな」
「迷いを前で止めろ」
リュカへ。
「配置は、
逃がすためだけに読むな」
「選ばせる余白を作れ」
最後に、レイン。
「魔導書坊主」
「お前は――」
一瞬、言葉を選ぶ。
「完成を急ぐな」
「未完成でええ」
「仲間がおる」
レインは、静かに息を吐いた。
「……影が」
「本気で、
犠牲を出しに来る」
ジル爺は、あっさり言った。
「じゃから、
焦るじゃろう」
「その時」
ぎょろりと、全員を見る。
「一人で終わらせようとしたら、負ける」
ミリアが、ゆっくり笑った。
「……なんかさ」
「めちゃくちゃ
嫌な未来、見てきた顔してるよね」
「見てきたからのう」
ジル爺は、酒を飲み干す。
「じゃが、
今日はまだ教えん」
「はあ!?」
ミリアが声を荒げる。
「殴られ損じゃん!」
「続きは、
北でじゃ」
立ち上がり、
ふらりと歩き出す。
「ついて来るも来んも、
自由じゃ」
「――ああ」
振り返らずに言う。
「次は」
「死人が出るかもしれん」
扉が閉まる。
静寂。
エルドが、ぽつりと呟いた。
「……厄介なの、
拾いましたね」
「うん」
レインは頷く。
「でも」
古代魔導書に、手を置く。
「今までで、
一番ちゃんとしたヒントだ」
ミリアが、にやっと笑う。
「じゃあ、
追いかけよっか」
「スケベ爺でも、
本物なら文句ない」
北部の夜は、
まだ深い。
だが――
修行は、次の段階に入った。
北へ向かう街道は、夜明け前が一番静かだった。
鳥の声もない。
風だけが、低く流れている。
「……あの爺さん」
ミリアが、歩きながら言う。
「絶対ろくでもないよね」
「否定はしない」
リュカが即答する。
「でも、
言ってることは筋が通ってる」
エルドは、少し遅れて口を開いた。
「……俺は」
「盾の話をされた時、
胸が痛かった」
「守るために立ってるつもりで、
判断から逃げてたかもしれない」
ミリアは、ちらりとエルドを見る。
「逃げてはないでしょ」
「でも」
「引き受けてたのは、
衝撃だけだった」
レインは、前を見たまま歩いている。
古代魔導書は、
背中の鞄の中。
《模写理解》は、
何も拾っていない。
だが――
それが逆に、不気味だった。
「……ジル爺の言う通りかもね」
レインが、ぽつりと言う。
「僕らは、
結果を止めてきた」
「判断が生まれる“前”を、
止めたことはなかった」
「だから」
一拍。
「影みたいな存在は、
何度でも現れる」
その時だった。
街道脇。
少し外れた林の向こう。
「……血の匂い」
エルドが、足を止める。
次の瞬間、
全員が察した。
走る。
林を抜けた先にあったのは――
倒れた人影。
いや。
倒れすぎている。
「……これは」
ミリアが、言葉を失う。
鎧。
武器。
その色と意匠。
「……紅鷹」
かつて、レインを追放したパーティ。
いや――
元・紅鷹。
全員が、無言だった。
死体は、乱雑に転がっている。
争った形跡はある。
だが――
「……殺し方が、雑すぎる」
リュカが低く言う。
「見せしめ」
「いや」
レインは、しゃがみ込む。
《戦場演算》が、
静かに回り始める。
「選別だ」
「強いか弱いかじゃない」
「立ったかどうか」
ミリアの拳が、ぎゅっと握られる。
「……影が?」
「可能性が高い」
エルドが、盾を強く握る。
「……立たなかった連中の末路、
ってことか」
その時。
レインの背筋に、
微かな寒気。
《模写理解》が、
一瞬だけ反応した。
ほんの一瞬。
だが――
確かに、“拾った”。
(……まだ、完成してない)
(でも)
(急がせに来てる)
レインは、立ち上がる。
「行こう」
「ここに長居する理由はない」
ミリアが、短く頷く。
「うん」
「……次は」
剣の柄に、手を置く。
「守るだけじゃ、
足りないね」
エルドが、一歩前に出る。
「立つ」
「判断の前に」
リュカも、静かに続く。
「配置を、
“逃がす”ためだけに使わない」
「選ばせるために使う」
レインは、仲間たちを見る。
そして、はっきりと言った。
「影が、
本気で犠牲を出すなら」
「僕らも」
一拍。
「未完成のまま、前に進む」
北の空は、
うっすらと赤くなり始めていた。
夜は終わる。
だが――
次の段階は、もう始まっている。
修行は、
ただの準備ではない。
これからは――
選ばせる前に、立つための戦いだ。




