選ばなくていい距離
街は、何事もなかったかのように動いていた。
露店の呼び声。
焼き菓子の甘い匂い。
子どもが走り、誰かが笑う。
つい昨日まで、
ここから少し離れた場所で
“世界が壊れるかどうか”の話をしていたとは思えない。
「……平和だね」
ミリアが、ぽつりと呟いた。
「うん」
レインは短く答える。
人混みの中でも、
無意識に端を歩いている自分に気づいて、
少しだけ歩幅を変えた。
それに気づいたのかどうか。
ミリアが、何も言わずに隣へ来る。
前でも後ろでもない。
並ぶ位置。
「影がいなくなるとさ」
ミリアは、屋台を眺めながら言う。
「街って、
こんな音してたんだなって思う」
「……確かに」
レインは、少し考えてから続けた。
「今までは、
“次に起きること”ばかり見てた」
「分かる」
即答だった。
「静かな時間って、
逆に落ち着かないよね」
二人の足音が、自然と揃う。
沈黙が続いたが、
気まずさはなかった。
「……ねえ、レイン」
ミリアが、不意に言う。
「さっきの宿、
風呂あるって言ってた」
「……うん」
「先、行っていい?」
一瞬、間が空く。
「……どうぞ」
ミリアは少し笑った。
「遠慮しすぎ」
「そうかな」
「そう」
断言。
それから、少し間を置いて。
「……でも」
声のトーンが、柔らぐ。
「無理しなくなったのは、
いいと思う」
レインは、立ち止まった。
「……無理してた?」
ミリアは、すぐには答えなかった。
少しだけ空を見上げてから。
「前はさ」
「全部、
自分で終わらせようとしてた」
「それが、
正しいと思ってる顔してた」
レインは、何も言えなかった。
代わりに、視線を落とす。
「……今は?」
ミリアは、横を見る。
「今は」
一拍。
「隣にいるって、
ちゃんと分かってる顔してる」
胸の奥が、
ほんの少しだけ熱くなる。
「……それ」
「安心?」
ミリアは、肩をすくめる。
「どうだろ」
「でも」
足を止める。
「悪くはない」
風が、二人の間を通り抜ける。
近い。
でも、触れない。
「……ミリア」
「なに?」
「ありがとう」
それだけ。
理由も、説明もない。
ミリアは、少しだけ目を見開いてから、
照れ隠しみたいに笑った。
「どーいたしまして」
それから、歩き出す。
「ほら、行こ」
「置いてくよ」
レインは、慌てて追いついた。
距離は、さっきと同じ。
でも――
さっきより、確実に近い。
戦わない時間。
選ばなくていい距離。
その中で、
二人はまだ、何も決めていない。
だがそれが、
今はちょうどよかった。
宿は、静かだった。
木造の建物で、壁は薄い。
廊下を歩くと、床が小さく軋む。
「……思ったより、普通だね」
ミリアが、部屋を見回す。
「うん」
レインは、荷物を壁際に置いた。
部屋は二つ。
だが、共用の小さな居間がある。
「先、風呂行ってくる」
ミリアはそう言って、扉の前で立ち止まった。
「……あ」
振り返る。
「逃げないでね」
冗談めかした言い方。
だが、目はちゃんと見ている。
「……逃げないよ」
「よし」
満足そうに頷いて、出ていった。
一人になった部屋で、
レインはゆっくり息を吐いた。
静かだ。
《戦場演算》は、反応しない。
読むべき敵も、予測すべき未来もない。
それなのに――
胸の奥が、少し落ち着かない。
(……変だな)
戦場より、
こういう時間の方が、扱いづらい。
ほどなくして、扉が開く。
「はー……生き返った」
ミリアが、髪を軽く拭きながら戻ってくる。
湯気と一緒に、石鹸の匂い。
「次、どうぞ」
「……ありがとう」
すれ違う瞬間。
距離が、近い。
一瞬だけ、
互いに視線が合って、
すぐに逸らした。
風呂から戻ると、
ミリアはすでに椅子に座っていた。
窓を開けて、夜風を入れている。
「……ねえ」
「なに?」
「さっきのさ」
「“無理しなくなった”って話」
レインは、少し迷ってから口を開いた。
「……正直」
「今も、よく分かってない」
「一人でやった方が、
早いって思う時もある」
ミリアは、否定しなかった。
「うん」
それだけ。
「でも」
少し身を乗り出す。
「それってさ」
「“一人の方が楽”じゃなくて、
“失敗したくない”だけでしょ」
レインの言葉が、止まる。
「……まあ」
「ほら」
ミリアは、軽く笑った。
「図星」
「……否定はしない」
「でしょ」
それから、少し真面目な顔になる。
「でもね」
「レインが失敗したら、
あたしも失敗するんだよ」
「同じ場所に立ってるんだから」
レインは、ゆっくりと顔を上げた。
「……それ」
「怖くない?」
ミリアは、少しだけ考えてから答えた。
「怖いよ」
即答だった。
「でも」
視線を逸らさずに、続ける。
「一人で全部背負って、
壊れる方が、もっと嫌」
言葉は強くない。
でも、揺れていない。
「……ミリア」
「なに?」
「……その」
言葉を探す。
「助けられてる」
ミリアは、一瞬だけ目を見開いてから、
照れたように笑った。
「今さら?」
「うん」
「遅い」
そう言ってから、
ふっと距離を詰めた。
近い。
息がかかるほど。
でも――触れない。
「じゃあさ」
小さな声。
「これからも、
隣にいさせて」
「選ぶの、
一人にしないで」
レインは、ゆっくり頷いた。
「……約束する」
ミリアは、満足そうに笑う。
「よし」
それから、急に立ち上がる。
「じゃ、今日は寝よ」
「明日も歩くんだし」
少しだけ、振り返る。
「……逃げないでね」
同じ言葉。
でも、今度は意味が違う。
「……逃げない」
そう答えると、
ミリアは小さく手を振って部屋に戻った。
扉が閉まる。
静かな夜。
レインは、胸の奥に残る温度を感じながら、
そっと目を閉じた。
戦わない時間。
選ばなくていい距離。
――だが、
確かに選ばれ始めている感情が、そこにあった。
朝の光は、思ったより早く差し込んできた。
薄いカーテン越しに、
柔らかな明るさが部屋を満たす。
レインは、目を覚ましてすぐに状況を確認しようとして――
何も起きていないことに気づき、少しだけ肩の力を抜いた。
(……平和、か)
廊下の方から、足音。
「おはよー」
ミリアの声だった。
扉を開けると、すでに身支度は整っている。
昨日より、少し機嫌が良さそうに見えた。
「……おはよう」
「よく眠れた?」
「まあ」
「即答じゃない時点で怪しい」
そう言って、軽く笑う。
居間に出ると、
すでにリュカとエルドがいた。
簡単な朝食。
硬めのパンと、薄いスープ。
「……おはよう」
エルドが、少し気まずそうに言う。
「おはよ」
ミリアは、いつも通りだった。
だが――
「……なんで、そんな近いんですか」
リュカが、スプーンを持ったまま言った。
「近い?」
ミリアが首を傾げる。
「普通でしょ」
「いや」
リュカは、淡々と指摘する。
「昨日までは、
座る位置がもう半歩離れてました」
「観測結果です」
レインが、むせた。
「……細かいな」
「仕事なので」
リュカは、表情を変えない。
「ちなみに」
続ける。
「夜中、
レインの部屋の灯りが一度だけ点きました」
ミリアが、ぴたりと動きを止める。
「……なにそれ」
「寝返りだよ」
即答。
「灯りつける?」
「……癖で」
リュカは、何も言わなかった。
ただ、
「ああ」とだけ呟いた。
エルドは、パンを齧りながら、ぽつりと言う。
「……いいと思います」
全員が、エルドを見る。
「静かだった」
短い言葉。
「昨日までより」
「……場が、落ち着いてた」
ミリアは、一瞬だけ目を見開いてから、
少し照れたように鼻を鳴らした。
「盾役にまで言われると、
なんか照れるんだけど」
「事実です」
エルドは、淡々と続ける。
「立つ人が、
一人じゃなかった」
「それだけで、
空気は変わります」
レインは、何も言えなかった。
ただ、
ミリアが隣にいることを、改めて意識する。
「……行こっか」
ミリアが、立ち上がる。
「今日も歩くんでしょ」
「うん」
宿を出る。
朝の街は、穏やかだ。
人々は、それぞれの生活に戻っている。
「……ねえ」
ミリアが、小さな声で言う。
「昨日の約束」
「覚えてる?」
レインは、頷いた。
「逃げない、でしょ」
「そう」
満足そうに笑う。
「じゃ、今日も隣」
「……うん」
歩き出す。
距離は、変わらない。
触れていないし、
言葉も少ない。
でも――
選ばなくていい距離は、
選び続ける距離に変わり始めていた。
戦いは、まだ終わらない。
世界も、相変わらず面倒だ。
それでも。
並んで歩ける時間がある。
それだけで、
今は十分だった。
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