立つ者を許さない影
異変は、静かすぎるほど静かに始まった。
風はある。
鳥も鳴いている。
森は、昨日と何も変わらない。
それなのに――
エルドだけが、息苦しかった。
「……」
胸の奥が、重い。
盾を背負っているわけでもないのに、
まるで押し付けられているような圧。
(……来てる)
理由はない。
確信だけがある。
「……エルド?」
ミリアが振り返る。
「顔、青い」
「大丈夫だ」
即答だった。
だが、声が少し遅れた。
レインは、その“間”を見逃さなかった。
《戦場演算》は沈黙している。
数値化できる敵が、いない。
それが一番、嫌な兆候だった。
「……止まろう」
レインが言う。
「ここで一度、間を取る」
その瞬間。
影が、立っていた。
距離は近くない。
武器もない。
攻撃の構えもない。
ただ――
エルドの正面。
「……やあ」
穏やかな声。
「今日は、
君に用がある」
ミリアが即座に前に出ようとする。
だが――
足が、止まる。
前線が、成立しない。
「……っ」
リュカが歯を噛みしめる。
《戦域把握》が、
影を“戦場外”として認識している。
エルドは、動かなかった。
動けなかったのではない。
動く意味が、消されていた。
「……何の用だ」
低い声。
影は、少しだけ目を細めた。
「確認だよ」
「君が、
本当に“立つ者”なのか」
ゆっくりと歩く。
一歩。
また一歩。
近づいているのに、
距離が縮まらない。
「……やめろ」
ミリアが叫ぶ。
「そいつから、
離れろ!」
影は、肩をすくめた。
「怖い?」
「でも」
視線を、エルドだけに向ける。
「君は、
もっと怖いはずだ」
エルドの喉が、鳴る。
「……何を知ってる」
「全部」
即答。
「立った瞬間の感覚」
「背負った重さ」
「誰にも渡せないって思った気持ち」
一歩、止まる。
「君は、
優しい」
「だから」
静かに、告げる。
「一番、壊しやすい」
その瞬間。
胸の奥に、
昨日と同じ重さが蘇る。
視線。
期待。
罪悪感。
《受理領域》が、
無意識に広がりかける。
「……っ!」
エルドは、
歯を食いしばる。
(立つな)
(受けるな)
(でも――)
「ほら」
影が、囁く。
「また、
立てるだろ?」
「君が立てば、
誰も選ばれない」
「君が立てば、
誰も傷つかない」
「……違う」
レインの声が、
割り込む。
影が、
初めて視線を動かした。
「君が立てば」
レインは、一歩前に出る。
「君が壊れる」
影は、微笑んだ。
「それが、
何か問題?」
空気が、
凍りつく。
エルドの視界が、
わずかに歪む。
足が、
一歩前に出そうになる。
その瞬間――
「エルド!」
ミリアが、
横に立った。
前でも後ろでもない。
隣。
「一人で立つな」
剣は抜かない。
でも、退かない。
リュカも、
反対側に来る。
「支柱になるな」
「盾は、
面で受けるものだ」
影は、
初めて眉をひそめた。
「……なるほど」
「分けるか」
レインは、
拳を握りしめる。
《因果再配置》
――まだ、不完全。
だが。
「今回は」
静かに言う。
「君の思惑通りには、
立たせない」
影は、
小さく笑った。
「いいね」
「じゃあ――」
一歩、下がる。
「次は、
選ばせる人数を増やそう」
影は、
音もなく消えた。
残ったのは、
荒い呼吸と、
震えが残る空気。
エルドは、
その場に膝をついた。
「……っ」
ミリアが、即座に支える。
「無理すんな!」
レインは、
影が消えた場所を見つめていた。
(……完全に狙われた)
これは、前触れだ。
盾を壊すための、
本番の前奏。
物語は今、
はっきりと“個人破壊”の段階に入った。
影は、正面からは来なかった。
それが、何より厄介だった。
次に起きた異変は――
同時多発だった。
街道を挟んだ三方向。
距離は離れているが、
時間差は、ほぼない。
「……来た」
リュカが、歯を噛みしめる。
《戦域把握》が、
瞬時に全体を描き出す。
逃げ遅れた行商。
立ち尽くす村人。
泣いている子供。
誰も武器を持っていない。
誰も争っていない。
だが――
全員が、“判断を待っている”。
「……人数、増やしたな」
ミリアが吐き捨てる。
「一人じゃなくて、
“場”を壊しに来てる」
エルドは、
地面に片膝をついたままだった。
呼吸は荒い。
盾を持つ手が、震えている。
(……立てない)
(今、前に出たら――)
「エルド」
レインが、即座に言う。
「動くな」
「今回は、
君が立たなくていい」
エルドは、
悔しそうに歯を噛んだが、
黙って頷いた。
「……リュカ」
「了解」
リュカは、
即座に走り出す。
《戦域把握》
《戦局重畳》
三つの現場が、
一つの“層”として重なっていく。
「……分かれない」
「分かれると、
影の思惑通りになる」
ミリアが、
剣に手をかける。
「じゃあ、
どうするの?」
レインは、
深く息を吸った。
《戦場演算》が、
必死に回る。
(……前に出れば、
誰かが“選ばせた側”になる)
(……止めれば、
別の場所が崩れる)
(……なら)
一拍。
「立つ人数を、
増やす」
ミリアが、
一瞬目を見開く。
「……それって」
「盾を、
共有する」
レインは、
はっきりと言った。
「エルド一人に
背負わせない」
「場そのものを、
“立たせる”」
リュカが、
即座に理解する。
「……なるほど」
「人じゃなく、
配置が盾になる」
ミリアは、
ニヤリと笑った。
「難しいけど」
「嫌いじゃない」
ミリアが、
剣を抜いた。
だが、振らない。
ただ、
三つの現場の中央に立つ。
《踏越位》
――しかし、前線は作らない。
「聞いて!」
張り上げる声。
「誰も、
今すぐ決めなくていい!」
「逃げてもいいし、
動かなくてもいい!」
「でも」
一拍。
「一人で立つな!」
その声に、
人々の視線が集まる。
同時に。
リュカが、
地面に手をついた。
《戦局重畳》
《退路設計》
三つの現場に、
同じ“逃げ方”が生まれる。
「……これなら」
「誰が選んだか、
分からない」
影の声が、
どこからともなく響いた。
「……面白い」
「でも」
「それ、長く持たないよ?」
レインは、
空を見上げる。
《因果再配置》が、
わずかに反応する。
(……まだ足りない)
(でも)
「時間は、
稼げる」
ミリアが、
剣を下ろさずに言う。
「……来るなら来なさいよ」
「次は、
真正面で受けてあげる」
影は、
姿を見せない。
だが、
確かに見ている。
「……いいよ」
声だけが、
残る。
「じゃあ次は」
「“立てない人間”を、
選ぼう」
空気が、
凍りついた。
エルドが、
はっと顔を上げる。
(……俺じゃない)
(……次は)
レインは、
拳を握りしめる。
影は、
まだ本気じゃない。
だが――
確実に、
追い詰めてきている。
三つの現場は、
かろうじて崩れなかった。
だが、
誰も勝ったとは思っていない。
これは、
消耗戦の始まりだった。
影は、姿を現さなかった。
声だけが、
空気の裏側から滲むように響く。
「じゃあ次は――」
間。
「立てない人を、選ぼう」
その瞬間、
人々のざわめきが止まった。
誰もが、
自分の足元を見た。
剣を持たない手。
震える膝。
理解できない状況。
「……なにを」
ミリアが声を荒げかける。
だが、言葉は続かなかった。
影が、
“指した”からだ。
人混みの端。
小さな背中。
年端もいかない子供。
母親の服の裾を掴み、
怯えた目で周囲を見ている。
「……っ!」
エルドが、
反射的に立ち上がろうとした。
だが――
足が、動かない。
(……だめだ)
(俺が立てば)
(また、同じだ)
「ほら」
影の声は、
やけに優しかった。
「彼女は、
選べない」
「状況も、
正義も、
均衡も分からない」
「だから――」
「誰かが、代わりに選ぶ」
母親が、
子供を抱き寄せる。
「や、やめてください……!」
「うちの子は、
何も――」
「分かってるよ」
影は即答する。
「だからこそだ」
「判断できない存在は、
いつだって“処理対象”になる」
「それが、
世界のやり方だろ?」
ミリアが、
一歩前に出ようとする。
《踏越位》
――成立しない。
前線が、
“子供”を含んでしまう。
「……くそっ」
歯を食いしばる。
「前に出られない……!」
リュカの《戦域把握》も、
激しく揺れていた。
(……理解が前提の配置)
(この子は、
“選択”を共有できない)
(なら……)
「……守れない」
初めて、
リュカの声が震えた。
レインは、
一歩も動いていない。
《戦場演算》は、
冷酷な答えを出している。
(……このままなら)
(犠牲、一)
(回避手段、なし)
拳が、
音を立てて握り締められる。
「……ほら」
影が、囁く。
「誰か、選べ」
「切るか」
「見捨てるか」
「それとも――」
「立つか」
視線が、
エルドに集まる。
期待。
祈り。
無言の圧。
(……また、これだ)
胸の奥が、
裂けそうになる。
「……エルド」
ミリアが、
必死に声をかける。
「立たなくていい!」
「今は……」
「分かってる」
エルドは、
かすれた声で答えた。
「分かってる……」
だが。
盾を持つ手が、
震えながら前に出る。
(……それでも)
(誰かが、受けなきゃ)
その瞬間。
「――やめろ」
低い声が、
空気を断ち切った。
レインだ。
子供と影の“間”に、
静かに立つ。
《因果再配置》
未完成。
だが――
強制的に展開。
世界が、
わずかに軋む。
「レイン!」
ミリアが叫ぶ。
「無理だ!
まだ――」
「分かってる」
レインは、
視線を影に向けたまま言う。
「これは、
最適解じゃない」
「でも」
一拍。
「最悪は、避ける」
因果が、
強引に組み替えられる。
子供の足元にあった
“選択される位置”が、
数歩だけ後ろにずれる。
完全な回避ではない。
時間稼ぎだ。
影が、
初めて楽しそうに笑った。
「……いいね」
「それだよ」
「壊れる覚悟で、
他人を守る」
「それを、
ずっと続けられる?」
レインの額に、
汗が滲む。
(……長くは、もたない)
(これ以上やれば、
俺が――)
「もう、十分だ」
影は、満足したように言った。
「今日は、
答えが見えた」
「立つ者は、
必ず壊れる」
「立てない者は、
必ず選ばれる」
「そして――」
声が、
遠ざかる。
「君たちは、
まだ選びきれていない」
影は、
完全に消えた。
残ったのは、
崩れ落ちるような沈黙。
子供は、
母親に抱かれたまま泣いている。
誰も、
すぐには動けなかった。
エルドが、
盾を地面に落とす。
「……俺」
声が、震える。
「また、
何もできなかった」
「違う」
ミリアが、
即座に否定する。
「立たなかった」
「それが、
今日の答えだ」
リュカも、
深く息を吐く。
「……守れなかったけど」
「壊さなかった」
レインは、
その場に座り込んだ。
《因果再配置》は解除され、
頭が、重くなる。
「……次は」
静かに言う。
「もっと、はっきりした犠牲を
出しに来る」
「影は、
引き返さない」
空を見上げる。
(……次は)
(俺たち全員が、
本当に選ばされる)
この戦いは、
もう“方法”の問題じゃない。
覚悟の話に、
踏み込んでしまった。
――そして。
遅れて来る者たちがいる。
判断を持つ者。
切る覚悟を持つ者。
蒼衡が、
間に合わなかったという事実を背負って。
それは、
次の物語で語られる。




