犠牲の価値
それは、事件ですらなかった。
管理庁に届いた最初の報告は、
あまりにも簡素だった。
・市街地外縁
・小規模集落
・死者一名
・争いの痕跡なし
「……事故か?」
記録官が、そう呟いた瞬間。
ログが、揺れた。
「違う」
上席の声。
「これは――
“使われた”」
⸻
同時刻。
レインは、
胸の奥に走る違和感で目を覚ました。
《模写理解》が、
何も拾っていない。
それが、
一番おかしかった。
「……静かすぎる」
夜明け前。
森はある。
風もある。
だが――
判断の匂いが、完全に消えている。
ミリアも、
すでに起きていた。
「……来たね」
「うん」
リュカが、
地面に手を置く。
《戦域把握》
「……人が一人、
欠けてる」
エルドが、
息を呑む。
「……欠けてる?」
「“いなかった”みたいに」
レインは、
静かに歩き出した。
⸻
集落は、
壊れていなかった。
家もある。
畑もある。
人々も、
普通に動いている。
ただ一つ――
一軒だけ、空いている。
「……ここ」
ミリアが、
低く呟く。
中は、
整っていた。
争った跡もない。
盗まれた形跡もない。
「……住人は?」
老婆が、
ぽつりと答えた。
「……いなくなったよ」
「昨夜」
「寝てて、
朝起きたら――」
言葉が、
そこで途切れる。
「……泣いてない」
ミリアが、
唇を噛む。
「取り乱してない」
「うん」
レインは、
床を見つめる。
《戦場演算》は、
何も計算できない。
暴力がない。
判断もない。
ただ――
一人分、世界が軽くなっている。
その時。
影が、
家の奥から現れた。
今回は、
はっきりと“人の形”をしている。
「こんにちは」
穏やかな声。
「ちゃんと、
気づいてくれたね」
ミリアが、
即座に剣を抜いた。
「……どこにやった」
影は、
肩をすくめる。
「どこにも」
「ただ」
一歩、近づく。
「選ばれただけ」
空気が、
凍る。
セインの声が、
背後から飛んだ。
「……貴様」
蒼衡も、
すでに展開している。
「今回は、
切らなかったんだろ?」
影は、楽しそうだ。
「君たちが言ったんだ」
「切らない」
「奪わない」
「判断を残す」
「だから」
視線を、
レインに向ける。
「“残された側”が、
選んだ」
レインの喉が、
一瞬だけ詰まる。
「……何を」
「犠牲を」
影は、
静かに言った。
「一人いなくなれば、
残りは安心する」
「誰も悪くない」
「誰も切ってない」
「完璧だろ?」
ミリアが、
震える声で叫ぶ。
「ふざけるな!」
「ふざけてない」
影は、
真顔だった。
「これは、
君たちのやり方を
最適化した結果だ」
その言葉が、
一番の凶器だった。
レインは、
初めて――
答えを失った。
《模写理解》は、
沈黙したまま。
拾えるものが、
何もない。
影は、
踵を返す。
「次は」
「もっと、
分かりやすくしよう」
「誰かが
“選んだ”って」
「ちゃんと、
分かる形で」
闇に溶ける直前、
振り返る。
「楽しみだね」
「君たちが、
どこで折れるか」
影は、
消えた。
集落に残ったのは、
静かな日常と――
一人分の欠落。
エルドが、
盾を握りしめる。
「……俺は」
「受けられなかった」
リュカは、
歯を噛みしめる。
「配置が、
成立してなかった」
ミリアは、
剣を下ろせない。
レインは、
ただ立っていた。
《戦場演算》も、
《模写理解》も、
役に立たない。
それでも――
世界は、
彼らに問い続けている。
「それでも、切らないか?」
ここが、
分岐点だった。
沈黙を破ったのは、ガランだった。
「……もう十分だろ」
低い声。
怒鳴ってはいない。
だが、抑えている分だけ重い。
「これ以上、
放置すれば被害は増える」
「一人だ」
レインが、静かに言う。
「今のところは、ね」
ガランは一歩前に出る。
「だが次は?
二人か?
三人か?」
大剣の柄を握る手に、
力が籠もる。
「“選ばれた”などという
ふざけた理屈で死ぬ人間を、
これ以上見過ごす気はない」
ミリアが噛みついた。
「だからって、
切れば解決みたいな言い方すんな!」
「切らなければ、
止まらん敵だ!」
「それは――」
ミリアの言葉を遮ったのは、
セインだった。
「……正しい」
短く、冷たい声。
「今回の件は、
我々の想定を超えている」
「だが」
視線を、レインに向ける。
「“切らない”という選択が、
犠牲を生んだのも事実だ」
空気が、
ぴしりと張りつめる。
エルドが、
一歩下がりかけて止まった。
「……レイン」
低い声。
「俺は、
守る側だ」
「でも」
盾を握りしめる。
「守れなかった結果が、
これなら……」
言葉が続かない。
リュカが、
拳を握ったまま俯く。
「……配置が、
成立していなかった」
「“場”を作れなかった」
「だから、
彼は入れた」
レインは、
誰の顔も見なかった。
床を見つめたまま、
静かに言う。
「……分かってる」
一拍。
「今回の犠牲は、
僕らのやり方の“隙”だ」
ガランが、即座に言う。
「なら結論は一つだ」
「次は、
切る」
「待って」
ミリアが、
即座に前に出る。
「それは――」
「感情論だ!」
ガランが怒鳴った。
「感情論でもいい!」
ミリアも叫び返す。
「一人殺して、
“正解だった”なんて顔で立つくらいなら――」
「黙れ」
セインの声が、
鋭く割り込む。
全員が、言葉を失う。
「……感情で切るな」
「だが」
セインは、
レインを見る。
「判断を保留し続けるのも、
また感情だ」
沈黙。
その言葉は、
刃だった。
レインは、
ゆっくりと顔を上げる。
目に宿っているのは、
怒りではない。
覚悟だった。
「……なら」
一歩、前に出る。
「次は、
僕が前に出る」
ガランが眉をひそめる。
「何をする気だ」
「“選ばせない”でも、
“切らない”でもない」
「第三のやり方を、
使う」
ミリアが、
息を呑む。
「……レイン?」
《模写理解》が、
微かに――揺れた。
だが、
完全には起動しない。
「まだ、
完成してない」
レインは続ける。
「だから」
視線を、
セインへ。
「蒼衡には、
保険になってもらう」
「……保険?」
「僕が失敗したら」
静かな声。
「その時は、
君たちが切れ」
ガランが、
思わず叫ぶ。
「正気か!?」
「正気だよ」
レインは即答する。
「今回みたいに、
“誰が悪いか分からない犠牲”を
もう出さないために」
セインは、
長い沈黙の末、
低く息を吐いた。
「……命令だ」
蒼衡全体に向けた声。
「次の接触まで、
切断判断は保留」
ガランが、
信じられない顔をする。
「セイン!?」
「代わりに」
セインは、
レインを見る。
「失敗すれば、
私は躊躇しない」
「それでいい」
レインは、
頷いた。
影が、
どこかで笑っている気配がした。
だが、
今回は違う。
世界は今、
初めて――
“切る前提で、
切らない賭け”に出た。
そしてその賭けの中央に、
レインが立っている。
影は、今回は隠れなかった。
集落の外れ。
簡素な見張り塔の前。
人が集まっている。
――いや、集められている。
「……最悪だな」
ミリアが吐き捨てる。
中央に立たされているのは、
まだ若い男だった。
手は縛られていない。
口も塞がれていない。
だが、
逃げない。
「自分から、
立ってる……?」
エルドの声が震える。
「うん」
リュカが低く答える。
「立たされてるんじゃない」
《戦域把握》が、
はっきりと示していた。
周囲の人間の配置。
視線の流れ。
心理的圧力。
(……逃げ道はある)
(でも、
“逃げる選択”が成立してない)
影が、塔の上に立っていた。
今日は、
はっきりとした姿。
人間と見分けがつかない。
「いい集まりだ」
穏やかな声。
「誰も、
武器を持っていない」
「誰も、
怒鳴っていない」
両手を広げる。
「完璧だろ?」
「……何をする」
セインが低く問う。
影は、
若い男を見下ろした。
「彼はね」
「自分から名乗り出た」
「“俺がいなくなれば、
この村は助かる”って」
ミリアが、
一歩踏み出しかける。
「やめ――」
「やめないよ」
影は即答した。
「だって」
「誰も止めてない」
沈黙。
それが、
一番残酷だった。
レインは、
何も言わず前に出る。
《戦場演算》が、
猛烈な速度で回る。
(……遮断)
(……無効化)
(……説得)
どれも、
間に合わない。
影は、
にこやかに続ける。
「ほら」
「君たちが好きな形だ」
「切ってない」
「奪ってない」
「選ばせただけ」
「これ以上、
美しい犠牲がある?」
その瞬間。
《模写理解》が、
悲鳴のように反応した。
だが――
拾えない。
(……理解が追いつかない)
(……条件が、足りない)
レインの足が、
止まる。
影は、
それを見逃さなかった。
「……ああ」
「やっぱり」
「まだ、
完成してないね」
そして、
若い男の肩に手を置く。
「じゃあ」
「行こうか」
ミリアが、
叫んだ。
「やめろぉぉっ!!」
だが、
剣は抜けない。
前に出れば、
彼女が“選ばせた側”になる。
その時。
「……どけ」
低い声。
エルドだった。
盾を持ったまま、
前に出る。
「……エルド!」
ミリアが叫ぶ。
「分かってる」
エルドは、
影を見据えた。
「俺が前に出たら」
「こいつは、
“選ばされた”になる」
「でも」
盾を、
若い男の前に立てる。
「それでも」
「俺は、
立つ」
影が、
初めて表情を歪めた。
「……それは」
「ルール違反だ」
「違う」
エルドの声は、
震えていない。
「俺が選んだ」
「引き受ける側として」
《受理領域》が、
静かに広がる。
恐怖。
視線。
罪悪感。
それらが、
エルドに集まる。
若い男が、
呆然と呟く。
「……なんで」
「俺が――」
「違う」
エルドは、
振り返らずに言った。
「もう、
君は選ばれてない」
影が、
後ずさる。
「……面白い」
「でも」
「それで、
救えると思う?」
レインが、
その背後に立った。
息は荒い。
だが、目ははっきりしている。
「……救えないかもしれない」
「でも」
《戦場演算》が、
初めて“別解”を出す。
(……奪うのではない)
(……否定するのでもない)
(……引き受けた結果を、
拡散する)
「君は」
影を見る。
「“選択の重さ”を、
一点に集めてる」
「だから」
一歩、踏み出す。
「僕は、
分ける」
《因果再配置》
――未完成。
だが、
確かに発動した。
場に漂う罪悪感と恐怖が、
均等に“薄まる”。
誰か一人が、
背負う構造が崩れる。
影が、
舌打ちした。
「……なるほど」
「完成したら、
本当に厄介だ」
後退しながら、
笑う。
「でも、
今日はここまでだ」
影は、
霧のように消えた。
その場に残ったのは、
膝をついた若い男と、
立ち尽くす村人たち。
エルドは、
その場に座り込んだ。
「……重いな」
レインが、
肩に手を置く。
「引き受けすぎだ」
「でも」
エルドは、
小さく笑った。
「……逃げなかった」
ミリアは、
歯を噛みしめながらも、
そっと剣を収めた。
リュカは、
静かに息を吐く。
「……成立した」
「未完成だけど」
セインは、
その光景を黙って見ていた。
やがて、
低く言う。
「……今回は」
「切らなくて、
正解だった」
誰も、
答えなかった。
ただ一つだけ、
はっきりしている。
影は、
次はもっと残酷になる。
だが同時に――
彼は初めて、
“崩された”。
物語は、
完全に次の段階へ進んだ。




