静かな成功
事件は、本当に小さなものだった。
街道沿いの小さな集落。
市場が立つはずだった広場で、
数人の住民が言い争っている。
原因は単純だ。
「順番が違う」
「こっちが先だ」
「いや、昨日も我慢した」
――判断を急がせる類の衝突。
「……魔物じゃないね」
ミリアが、小さく呟く。
「剣、抜かなくていいやつだ」
「抜いたら負けるやつでもある」
レインは、足を止めたまま答えた。
《戦場演算》は動いている。
だが、即座に結論を出さない。
(被害:なし)
(危険度:低)
(分岐点:感情)
「……リュカ」
「うん、見えてる」
リュカは、すでに配置を読んでいた。
争っている三人。
周囲で見ている五人。
一人が声を荒げれば、
全員が“どちらかを選ばせる側”に回る。
「ここ、前線はいらない」
ミリアが一歩出かけて、止まる。
(……立たない)
代わりに、
広場の端に立つだけ。
《踏越位》は使わない。
だが、自然と視線が集まる位置。
「……?」
争っていた一人が、気づいて声を落とす。
「なんだ、あの人」
それだけで、空気が一段落ちる。
エルドは、さらに遅れて前に出た。
盾を構えるが、
誰の前にも立たない。
ただ、
住民たちと争いの中心の“間”に立つ。
「……」
誰も攻撃していない。
だが、
“越えてはいけない線”が生まれた。
「……あ」
リュカが小さく息を吸う。
(判断が、まだ来てない)
(だから、受け止める必要もない)
レインは、ようやく口を開く。
「……急がなくていい」
声は低く、
だが、よく通る。
「誰も、
今すぐ決めろとは言ってない」
「でも……」
一人が反論しかけて、言葉に詰まる。
“決めなきゃいけない理由”が、
そこにはないことに気づいたからだ。
沈黙。
それは、
選択が奪われた沈黙ではない。
ただの間。
やがて、
別の住民が口を開く。
「……じゃあ、
順番、明日で決め直すか」
「そうだな」
誰かが頷く。
怒号は消え、
市場の準備が再開される。
「……終わった」
ミリアが小声で言う。
「剣、いらなかったね」
「前線も」
「盾も」
レインは、静かに答える。
「判断が、
生まれなかったから」
その時。
少し離れた建物の影で、
一人の男が、その光景を見ていた。
記録用の魔導具。
簡素な服装。
だが、視線は鋭い。
(……切らなかった)
(なのに、
混乱が拡大していない)
男は、眉をひそめる。
(蒼衡なら、
区域指定で終わらせていた)
(英雄なら、
声か力で押さえた)
(だが――)
(あれは、
判断を発生させていない)
記録用の魔導具に、
短く刻む。
――
「対象:例外的介入」
「結果:被害ゼロ」
「要因:不明(強制なし)」
男は、深く息を吐いた。
(……厄介だ)
一方。
レインたちは、
すでにその場を離れている。
「……ねえ」
ミリアが、少し照れくさそうに言う。
「今の、
成功でいいんだよね?」
「うん」
リュカが答える。
「誰も、
選ばされなかった」
エルドは、
盾を背負い直しながら言った。
「……守る前に、
終わったな」
レインは、空を見上げる。
《模写理解》は、
何も拾っていない。
だが――
それでいい。
「……これが、
正解の一つだ」
誰も拍手しない。
誰も感謝しない。
それでも確かに、
街は壊れなかった。
修行の成果は、
静かに、しかし確実に現れ始めていた。
その記録は、異常だった。
被害ゼロ。
拘束ゼロ。
武力行使ゼロ。
にもかかわらず――
混乱が自然消滅している。
「……ありえない」
管理庁外縁区画。
簡素な執務室で、男は呟いた。
机の上には、
魔導記録具から転写された簡易報告。
・介入者:四名
・武装:確認(未使用)
・市民衝突:自然解消
・強制措置:なし
「区域指定もなし。
警告もなし。
威圧もなし……」
指で報告書を叩く。
「それで、
なぜ収束する?」
隣に立つ女が、静かに答える。
「数値が合いません」
彼女は、蒼衡に近い立場の調整官だった。
「通常、
感情衝突は放置すれば拡大します」
「選択肢を与えれば、
必ず“選ばされる側”が生まれる」
「ですが――」
視線を、別の資料へ。
「この事例では、
判断そのものが発生していません」
男は、眉をひそめた。
「……判断が、
発生しない?」
「はい」
女は淡々と続ける。
「争点が、
“今決めなければならない理由”を
失っています」
「結果として、
誰も切られず、
誰も救われていない」
「……なのに、
混乱は終わった」
沈黙。
それは、
管理側にとって最も理解しがたい結果だった。
「蒼衡なら」
男が、低く言う。
「区域を定め、
選択肢を提示し、
切る」
「英雄なら」
女が続ける。
「威圧、もしくは説得で、
場を収める」
「だが、これは――」
男は、報告書を睨みつける。
「どちらでもない」
「……危険ですね」
女の声に、わずかな感情が混じる。
「この方法は、
再現できません」
「数値化できない。
手順化もできない」
「それなのに、
成功している」
男は、深く息を吐いた。
「“管理できない成功”か」
その言葉は、
ほとんど独り言だった。
「放置しますか?」
女が問う。
「いいや」
即答。
「監視は続ける」
「だが――」
一拍置く。
「手出しはするな」
女が、意外そうに目を上げる。
「理由は?」
「理由が分からないからだ」
男は、静かに言った。
「理由が分からない介入に、
力で触れれば――」
「次は、
壊れる」
女は、ゆっくりと頷いた。
「……了解」
報告書は、棚に収められる。
分類名は、
既存のどれにも当てはまらない。
「非管理型介入」
「再現不可」
「要経過観測」
一方、その頃。
当の本人たちは、
すでに次の野営地へ向かっていた。
「……さっきのさ」
ミリアが、歩きながら言う。
「正直、
拍子抜けだった」
「剣も抜いてないし」
「でも」
エルドが、静かに続ける。
「盾も、
振るわなかった」
リュカが、少し笑う。
「それが、
一番の成果かもね」
レインは、
少しだけ歩みを緩めた。
《戦場演算》は、
静かだ。
《模写理解》も、
反応しない。
だが――
それでいい。
「……今のは、
成功でも失敗でもない」
レインは言った。
「“確認”だ」
「確認?」
ミリアが首を傾げる。
「僕らのやり方が」
リュカが、言葉を継ぐ。
「世界にとって、
どれだけ異物か」
エルドは、
盾を背負い直した。
「……異物でもいい」
「誰かを切るよりは」
レインは、小さく頷いた。
「うん」
「だから、
次はもう少し難しい」
その先に、
街道が続いている。
世界はまだ、
選ばせたがっている。
それを壊す者たちは、
静かに歩き続けた。




