張られた側
夜の街は、静かすぎた。
昼間の騒ぎが嘘のように、人の足音は減り、灯りは必要最低限に落とされている。見回りの兵は規則正しく歩いているが、その動きには「警戒」よりも「確認」が混じっていた。何かを探している。あるいは――誰かを。
街外れの空き倉庫。
崩れかけの壁を背に、リュカは地図を広げていた。風にめくれないよう、端を小石で押さえる。描かれているのは、この街の簡略図だ。門、広場、倉庫街、細道。昼に見た“折れた線”が、赤い印で残っている。
「……ここまで来たら、もう偶然じゃない」
リュカは低く言った。
ミリアが、腕を組んで覗き込む。
「次は、どこを使うと思う?」
「“人が集まらない場所”だ」
リュカは迷わず答えた。
「広場は警戒される。門も同じ。だから次は、理由なく人が集まる場所――」
地図の一角を指で叩く。
「倉庫街だ。夜番、積み替え、帳簿。揉め事が起きても“内輪”で済む」
レインは、少し離れた位置で周囲を確認していた。視線は建物の影、屋根の縁、通りの奥。誰もいないようで、誰かが見ている気配だけが残る。
「……相手は、今日の失敗で学びます」
レインが言う。
「次は“騒ぎにならない騒ぎ”を選ぶ」
リュカは頷いた。
「だから、こちらも“捕まえない罠”にする」
ミリアが片眉を上げる。
「捕まえない?」
「捕まえると、逃げ道ができる」
リュカは地図に細い線を引く。
「見せる。踏ませる。気づかせる。でも――」
線の先を、ふっと消す。
「出口は用意しない。自分で出ていくしかない形にする」
ミリアは少し考えてから、口元を緩めた。
「性格悪いですね」
「クズ相手だ」
リュカは淡々と返す。
レインが補足する。
「相手は“観測”している。だから、異変が“見えない”と耐えられない」
「見えないまま続く状況は、必ず確認に来る」
倉庫街の方角で、木箱が軋む音がした。夜番の交代だろう。普通の音だ。普通すぎる。
リュカは地図を畳んだ。
「準備は、ここまででいい」
「次に動くのは――」
ミリアが静かに言う。
「向こう、ですね」
レインは影の向こうを見据える。
「……ええ。張られた側が、動きます」
三人は、倉庫を離れた。
何も起きていない。だが、何も起きないこと自体が、すでに“仕掛け”だった。
夜は深まり、街は眠る。
そして、見ている者だけが、眠れなくなる。
罠は、派手である必要はなかった。
むしろ――目立たないことが条件だった。
倉庫街の外れ。
積み上げられた木箱の影で、リュカは一つずつ配置を確認していく。
夜番の動線、荷の置き場所、明かりの届く範囲。
《戦域把握(せんいきはあく/バトルフィールド・リード)》が示すのは、人が「確認したくなる」位置だった。
「……ここ」
リュカは、倉庫の側面に小さな印を残す。
誰も気にしない。だが、気にし始める者にだけ意味を持つ場所。
ミリアが、少し離れた場所で周囲を見張る。
「露見したら?」
「そのときは――」
リュカは、ミリアを見る。
「前に立つ。短く、強く」
ミリアは小さく頷いた。
「了解。盾になります」
レインは、倉庫街全体を俯瞰する位置に立っていた。
《模写理解》が拾うのは、“来なかった場合”の未来だ。
(……来ない選択肢もある)
(だが、その場合)
(相手は“失敗の理由”を得られない)
それは、観測者にとって最悪だ。
理解できない状況は、放置できない。
「……来ます」
レインが静かに言う。
「相手は“確認”に耐えられない」
リュカは、地面に引いた線を足で軽く消す。
「なら、十分だ」
罠は完成していない。
完成させないことが、完成だった。
三人は、それぞれの位置についた。
誰も前に出ない。
誰も動かない。
倉庫街は、静かなままだ。
だが――
静かすぎる夜ほど、人は確かめたくなる。
遠くで、足音が一つだけ増えた。
それが、誰のものかは分からない。
分からないままでいい。
罠は、すでに機能している。
倉庫街の夜は、音が少ない。
だからこそ、
一つの足音がやけに目立った。
――一歩。
――間を置いて、もう一歩。
規則的ではない。
夜番でも、見回りでもない。
“探している者”の歩き方だった。
リュカは、息を殺したまま視線だけを動かす。
《戦域把握(せんいきはあく/バトルフィールド・リード)》が、
その足音の位置を線として描き出す。
(……来た)
(しかも、一人)
単独行動。
確認役。
失敗の原因を探しに来た個体。
ミリアは、柱の影で片膝をついている。
剣には触れていないが、
踏み出す距離と角度は完全に計算済みだ。
レインは、倉庫の屋根に近い位置から、
動かない影を見ていた。
《模写理解》が拾うのは、
足音の主の思考の“癖”。
(……慎重)
(……だが、疑っている)
(……そして、苛立っている)
失敗した誘発。
折られた線。
理由の分からない“起きなかった結果”。
それは、観測者にとって耐えがたい。
足音が止まる。
男――としか分からない影が、
木箱の一つに手を置いた。
そこは、
リュカが“意味を持たせた”位置。
何もない。
だが、何かがあったはずの場所。
影が、僅かに身を屈める。
「……妙だな」
低い声。
独り言だが、
独り言にしては確認の色が濃い。
リュカは、動かない。
ここで動けば、
“答え”を与えることになる。
影は、周囲を見回す。
倉庫街は静かだ。
異常はない。
だが――
異常がないこと自体が異常だった。
「……起きるはずだった」
男の声が、かすかに震える。
それを、
レインははっきりと聞いた。
(……確定)
(この街で“起こす予定”だった)
(そして、失敗した)
影は、一歩下がる。
退路を確認する動き。
ミリアの足が、ほんの少しだけ動く。
だが、止まる。
――まだ。
リュカは、
ここで“捕まえない”と決めている。
影は、最後にもう一度、
倉庫街全体を見渡した。
誰もいない。
何も起きない。
だが、その静けさは、
彼にとって敗北の静けさだった。
「……報告だな」
男は、そう呟き、踵を返す。
逃げたのではない。
撤退でもない。
次の手を打つための後退。
足音が遠ざかる。
完全に消えたのを確認してから、
リュカはようやく息を吐いた。
「……よし」
ミリアが、立ち上がる。
「捕まえなくて、よかったんですか?」
リュカは頷く。
「捕まえたら、“末端”で終わる」
「今日は、線を見せる日だ」
レインが、静かに合流する。
「……相手は、確信しました」
「“こちらは、気づいている”と」
ミリアが、少し笑う。
「じゃあ、次は派手に来ますね」
「来る」
リュカは即答した。
「しかも、今度は“分かりやすく”だ」
地図を取り出し、
新しい線を一本だけ引く。
「……次は、ここ」
ミリアが覗き込む。
「人、集まりますね」
「集めさせる」
リュカは言った。
「向こうが、そうしたくなる形で」
レインは、その線を見つめる。
《模写理解》が、
次の展開を静かに描き出していく。
(……選択肢は、もう少ない)
(……張られた側は、
必ず“動かざるを得ない”)
三人は、言葉を交わさずに頷いた。
罠は、すでに張られている。
次に張られるのは、
表に出る罠だ。
夜は、まだ深い。
だが、
眠れないのは――
もう、こちらではなかった。




