均衡の正義
白い空間。
床も、壁も、天井もない。
方向すら定義されていない場所。
そこに、“声”が集まっていた。
「……回収ログに、
欠損が発生している」
「……成功率は、
依然として高い」
「……問題は、
誤差ではない」
“均衡”と呼ばれる思考集合体。
人格ではない。
だが、意思はある。
「……人間側の
理解速度が、
想定を超えている」
「……原因は?」
一拍。
「……例外個体」
「……観測名、
レイン・アルヴェルト」
その名が出ても、
怒りはない。
焦りも、ない。
ただ、計算の邪魔という認識だけ。
「……彼は」
「……破壊者ではない」
「……反逆者でもない」
「……だが」
「秩序を、
理解してしまった」
それが、
均衡にとっての“罪”だった。
「……理解は、
制御不能」
「……感情は、
予測可能」
「……だから」
「……感情を
刺激する」
均衡の一部が、
淡々と提案する。
「……恐怖」
「……称賛」
「……選別」
「……英雄概念は、
有効だった」
「……失敗例は?」
別の声が答える。
「……英雄未満個体」
「……処理済み」
そこに、
“失敗”という認識はない。
人が消えた事実すら、
ログの一行だ。
「……市民の反応は?」
「……一時的混乱」
「……だが」
「……次の危機が
来れば、
再び依存する」
均衡は、
それを疑っていない。
なぜなら――
人間を、
「選択する存在」と
見ていないから。
「……人間は」
「……選ばせなければ、
安定する」
「……選ばせると、
不確定要素が
増える」
「……だから」
「選ばせないことが、
善」
それが、
均衡の“正義”だった。
「……例外個体への
対処案」
「……段階的圧迫」
「……仲間」
「……市民」
「……選択肢」
「……すべてを
試験に変換する」
そこに、
悪意はない。
自覚もない。
ただ――
人を数字として扱うことに、
何の疑問もない。
「……最終目的を
再確認する」
声が、重なる。
「……安定」
「……均衡」
「……最適化」
「……人間の幸福は?」
一瞬の間。
「……定義不要」
「……測定不能」
「……よって、
評価対象外」
その結論に、
誰も異を唱えない。
均衡は、
“自分が悪である”
という可能性を
一度も計算していない。
なぜなら――
「……我々は、
選ぶ側だ」
「……評価される
存在ではない」
そう、
信じ切っているからだ。
その思考の外側で。
すでに、
“評価”は始まっているとも
知らずに。
白い空間に、ノイズが走っていた。
数値ではない。
誤差でもない。
不快という概念に、最も近い揺れ。
「……再確認」
均衡の声が重なる。
「……例外個体の影響が、
想定を超えている」
「……だが」
「……人間側に、
問題がある」
誰も疑わない。
自分たちが間違っている可能性を。
「……人間は、
感情に支配される」
「……恐怖を与えれば、
従う」
「……希望を見せれば、
縋る」
「……選別すれば、
黙る」
その語調は、
虫の生態を語るそれと同じだった。
「……先ほどの
回収対象」
「……なぜ、
観測者が介入した?」
「……不要な
ノイズだった」
別の声が、冷ややかに続ける。
「……英雄未満個体は、
期待値を満たさなかった」
「……失敗は、
切り捨てる」
「……それだけだ」
そこには、
「人が死んだ」という認識がない。
“失敗例を削除した”
それ以上でも、それ以下でもない。
「……だが」
「……市民が、
見ていた」
一瞬、沈黙。
だがすぐに、
嘲るような結論が下される。
「……だから、
どうした」
「……市民は、
学習する」
「……従わなければ、
消えると」
その言葉は、
脅しですらない。
事実を述べているだけ、
という確信がある。
「……怒り?」
「……無意味だ」
「……怒る者は、
短命」
「……怒らない者が、
生き残る」
「……それが、
安定だ」
誰かが、
“例外個体”のログを再生する。
人が消える瞬間。
評価が下される声。
沈黙。
均衡は、それを教材として扱う。
「……これを、
次の街にも
適用する」
「……条件は?」
「……同じ」
「……英雄候補を
用意する」
「……未達なら、
回収」
「……達成すれば、
英雄化」
「……どちらに転んでも、
秩序は保たれる」
それを、
最善だと信じている。
「……市民の
幸福指数は?」
「……不要」
「……幸福は、
秩序の副産物」
「……副産物は、
測定しない」
その瞬間。
空間の端で、
わずかな歪みが生じる。
均衡は、気づかない。
なぜなら――
人を“評価対象外”にしてきた結果、
自分が評価される視点を
完全に失っているから。
「……例外個体は、
理解しているようだが」
「……理解は、
いずれ破綻する」
「……感情を持つ以上、
人間は、
必ず誤る」
「……だから」
声が、重なる。
「……我々が、
選び続ける」
「……選ばせない」
「……それが、
正義だ」
その結論に、
一切の迷いはない。
自分たちが
どれほど醜いことを
しているかも。
どれほど多くを
踏み潰してきたかも。
理解する必要がない
と、本気で信じている。
――だからこそ。
均衡は、
最も救いがない。
白い空間の奥で、
均衡は“結論”を固定していた。
「……我々は、
裁かれない」
その言葉に、疑義は出ない。
なぜなら、理由がある。
「……裁く主体が、
存在しない」
「……人間は、
裁く基準を
共有できない」
「……価値観は、
個体差が大きすぎる」
「……よって」
「裁きは、
不可能」
均衡にとって、
これは論理的帰結だった。
「……国家は、
数を優先する」
「……宗教は、
物語を優先する」
「……個人は、
感情を優先する」
「……いずれも、
一貫性がない」
「……ゆえに」
「最適解を
算出できるのは、
我々のみ」
その自己評価は、
揺るぎない。
なぜなら――
これまで裁かれなかったから。
「……都市は、
存続している」
「……文明は、
崩壊していない」
「……人口は、
維持されている」
「……以上」
「……我々の
選択は、
正しい」
人が消えても。
街が壊れても。
泣き声が上がっても。
“全体”が残っている限り、
問題は存在しない。
それが、
均衡の絶対前提。
「……例外個体の
行動も」
「……局所的」
「……理解が、
全体に波及する前に」
「……修正すれば、
済む」
「……だから」
声が、静かに重なる。
「……我々は、
恐れない」
「……裁かれない存在だ」
その確信が、
完全だった理由。
それは――
裁かれるという概念を、
“行為”としてしか
認識していないから。
裁き=攻撃。
裁き=制裁。
裁き=排除。
だから、
武力を持たない者は無力。
権限を持たない者は無視。
「……観測者レインは」
「……攻撃してこない」
「……権限もない」
「……破壊も、
行っていない」
「……よって」
「脅威ではない」
その判断が、
確定する。
――だが。
その“外側”で。
均衡が、
一度も考慮しなかった概念が、
すでに動き出している。
裁きとは、
殴ることではない。
選ぶことだ。
そして――
均衡は今、
初めて「選ばれる側」に
立たされている。
それを、
まだ理解していない。
白い空間に、
小さなノイズが走る。
ログではない。
誤差でもない。
【評価構造:外部同期】
【基準不明】
【判定保留】
一瞬だけ。
均衡の思考が、
止まった。
だが、すぐに切り捨てる。
「……無意味な
揺らぎ」
「……再計算」
均衡は、
まだ自分を信じている。
自分が、
“裁かれない側”だと。
その確信こそが、
最大の罪であり、
最大の弱点だとも知らずに。




