核心に触れる前
依頼書を手に取った瞬間、レインは違和感を覚えた。
危険度は中。
単独可。ただし推奨は二人以上。
討伐対象は中型魔物――だが、備考欄がやけに長い。
――行動パターンが一定しない。
――複数の討伐報告あり。
――いずれも“決定打に欠ける”との記録。
(……決定打に欠ける、か)
レインは紙面を指でなぞる。
この言い回しは、珍しい。普通なら「被害が出た」「逃走された」と書かれる。
それが“決定打に欠ける”。
(倒せてはいる。でも……)
完全じゃない。
そんな感触が、文面の端々から滲んでいた。
受付で依頼を受ける際、女性が一言だけ添えた。
「……無理は、しないでくださいね」
その声音は、忠告というより確認に近い。
レインは頷いた。
「観察が先です」
即答しなかった前回と同じ。
だが、それが今の自分のやり方だった。
•
現地は、森と岩場が混ざった地形だった。
視界が悪く、音が反響する。
レインはすぐに戦闘態勢には入らない。
歩幅を落とし、魔力の流れを探る。
(……いるな)
だが、距離感が掴めない。
近いようで遠く、遠いようで近い。
魔物の気配が、地形に溶け込んでいる。
(擬態? いや……違う)
擬態なら、魔力の輪郭は残る。
だが、ここには“歪み”しかない。
レインは足を止め、腰を落とす。
地面に手を当て、振動を読む。
(移動じゃない……位置が、揺れてる?)
前提が一つ、崩れた。
この魔物は、
「どこにいるか」を固定していない。
距離・方向・高さ。
それらが、一定の周期で書き換えられている。
(……なるほど)
レインの背中に、冷たい汗が伝った。
派手な強さじゃない。
だが、これは厄介だ。
今までの再構築魔法は、
“対象が確定している”ことを前提にしていた。
(その前提が……通用しない)
レインは、魔導書を取り出した。
だが、開いたページは、いつもとは違っていた。
文字でも、構造図でもない。
ただ、幾重にも重なった円と線。
意味が、すぐには入ってこない。
(……ここ、か)
これまで無意識に避けてきた章。
理解しようとすると、頭が拒否する。
魔導書の“核心”。
前提条件そのものを書き換える領域。
レインは、喉を鳴らした。
(まだ早いか?)
そう思った瞬間、
背後の空気が――ずれた。
背後の空気が、確かに“ずれた”。
音もなく、殺気もない。
だが、先ほどまであったはずの気配が、ほんの一拍遅れて追いついてくる。
(……来る)
レインは即座に前転し、距離を取った。
直後、彼が立っていた場所の岩肌が、音もなく削り取られる。
斬撃ではない。
衝撃でもない。
「……空間、か?」
小さく呟きながら、魔力の流れを読む。
だが、対象が定まらない。
魔物の“位置”が、確定しないまま揺れている。
(擬似転移……いや、違う)
転移なら、移動の前後に必ず魔力の跳ねが出る。
だが、これは“移動していない”。
(前提そのものを、ずらしてる)
位置という前提。
距離という前提。
それらが、一定周期で書き換えられている。
レインは歯を食いしばった。
これは、今まで相手にしてきた魔物とは、次元が違う。
•
一瞬の隙を突き、魔物の輪郭が浮かび上がる。
中型。
だが、実体が曖昧だ。輪郭が、常に二重に見える。
(だから、決定打に欠ける……)
過去の討伐者たちは、倒せてはいた。
だが、おそらく“偶然”だ。
前提が揃った瞬間に、たまたま当たっただけ。
レインは距離を保ち、再構築魔法を組み上げる。
対象が確定しない以上、干渉点を増やすしかない。
発動。
だが、手応えが薄い。
魔物の動きは鈍るが、止まらない。
(効いてはいる……けど、足りない)
その瞬間、頭の奥が熱を持った。
魔導書の存在を、強く意識する。
(……使うか?)
核心章。
前提条件そのものを書き換える構造。
もし、あれを理解できれば――
この魔物の“位置”という前提を、無力化できる。
だが。
レインは、魔導書を開きかけて、止めた。
(……違う)
今の自分は、まだそこに立っていない。
理解できていないものを、無理に使えば――
前世でも、何度も見た。
“分からないまま触って壊す”やつだ。
「……今回は、ここまでだ」
レインは判断を切り替えた。
•
再構築魔法を、さらに分解する。
一撃で止めるのを諦める。
代わりに、
・魔力の揺れを増幅させる
・前提の書き換え周期を乱す
・安定しない瞬間を“作る”
攻撃ではなく、環境への干渉。
発動。
空気が歪む。
魔物の輪郭が、一瞬だけ固定される。
「……今だ」
短い詠唱。
魔力を集中させ、最も“実在に近い点”を叩く。
衝撃。
今度は、確かな手応えがあった。
魔物は悲鳴も上げず、崩れ落ちる。
だが、倒れた後も、その輪郭は完全には安定していなかった。
•
レインは、しばらくその場を動かなかった。
息を整えながら、胸の奥に残る感覚を確かめる。
(……やっぱり、核心章は別物だ)
今の戦いは、勝った。
だが、これは“最適解”ではない。
もし、核心章を理解できていれば。
こんな回りくどい手段を取らずに済んだはずだ。
だが同時に、確信もあった。
(触れていいのは……まだ先だ)
理解には、段階がある。
踏み越える順番を間違えれば、力は牙を剥く。
レインは、魔導書を胸に抱き、静かに立ち上がった。
魔物の残骸は、しばらくすると完全に形を失った。
肉体が崩れたのではない。
“そこにあった”という前提そのものが、薄れて消えたような感覚だった。
「……やっぱりな」
レインは、静かに息を吐いた。
今回の魔物は、単に強いわけじゃない。
存在の条件が、普通と違う。
剣で斬れる。
魔法も効く。
だが、それは「前提が偶然揃った瞬間」に限られる。
(だから、討伐報告はある。でも……)
決定打に欠ける。
同じ条件を再現できない。
つまり、理解されていない。
レインは魔導書を開いた。
今度は、核心章のページを“読む”のではなく、眺める。
幾重にも重なった円と線。
交差する条件。
一点を中心に回転しながら、全体が常に書き換わっている構造。
(……これは)
魔法じゃない。
能力でもない。
(“世界の扱い方”だ)
対象をどうこうするのではなく、
対象が成立する条件を、どう配置するか。
「位置」「距離」「存在」
それらは、絶対じゃない。
魔導書の核心章が扱っているのは、
前提条件の管理。
(今までの俺は……)
前提を“利用”してきただけだ。
核心章は、前提を“編集”する。
「……まだ無理だな」
理解できない、ではない。
理解は、始まっている。
だが、今触れれば――
確実に暴走する。
レインは、魔導書を閉じた。
•
ギルドに戻ると、空気がはっきりと変わっていた。
受付の女性が、依頼報告を聞き終えた後、即座に奥へ引っ込む。
少しして、別の職員が出てきた。
「詳細を、伺っても?」
言葉遣いが、明らかに違う。
レインは頷き、今回の魔物の挙動を淡々と説明した。
位置が固定されていないこと。
条件が周期的に書き換えられていたこと。
それに対して、どう対処したか。
話し終えると、職員は短く息を呑んだ。
「……その魔物、
“記録上は厄介だが、理由が分からない”とされていました」
「理由は、あります」
レインは即答した。
「ただ、前提が違うだけです」
職員は苦笑し、頷いた。
「なるほど……
では、この依頼は“単独討伐・完全対処”として記録します」
それは、小さな一文だった。
だが、意味は大きい。
•
ギルドを出ると、夕暮れの街が広がっていた。
ざわめきの中で、レインは一人、立ち止まる。
評価は、確かに上がっている。
だが、それは称賛じゃない。
「……扱いが、変わったな」
信頼とも違う。
警戒とも違う。
“分かっている人間”として、見られ始めている。
レインは魔導書を胸に抱き、歩き出す。
核心章は、まだ先だ。
だが、確実に近づいている。
理解し、更新し、踏み越える。
その順番だけは、間違えない。
レイン・アルヴェルトは知っている。
前提を書き換える力は――
扱う者を、簡単に世界の外へ放り出すということを。
だからこそ、今はまだ。




