選ばれたい者
その噂は、静かに広がっていた。
「……聞いたか」
「……英雄候補が出たって」
酒場の隅。
声は潜められているが、熱を帯びている。
「……街を守った二人とは、
違うらしい」
「……均衡が、
“選ぶかもしれない”って」
その言葉に、周囲がざわついた。
英雄。
その二文字は、まだ重い。
•
路地裏。
レインとミリアは、修理中の建物を手伝っていた。
瓦礫を運び、崩れた壁を支える。
「……こうしてると」
ミリアが、息を吐きながら言う。
「……本当に、
普通ですね」
レインは、小さく笑った。
「……それで、
いいと思います」
そのとき。
通りの向こうで、叫び声が上がった。
「――下がれ!!」
反射的に、二人が顔を上げる。
人だかりの中心。
若い男が、一歩前に出ていた。
年は、二十前後。
装備は、ありふれた剣と軽装。
だが――
立ち方だけが、異様だった。
「……俺が行く」
「……英雄候補は、
俺だ」
その瞬間。
空気が、歪む。
魔力が、溢れたのではない。
“期待”が、集中した。
周囲の視線。
恐怖と、願い。
「……あいつ」
ミリアが、低く呟く。
「……立ち方、
危ないですね」
レインは、すでに理解を始めていた。
《模写理解》が、
男の内側をなぞる。
(……能力は、
未完成)
(……だが)
(……均衡の
“誘導痕”がある)
男が、剣を掲げる。
「……俺は」
「……選ばれたい!」
その言葉と同時に、
地面が軋んだ。
魔力が、無理やり流し込まれている。
「……来るぞ!」
誰かが叫ぶ。
次の瞬間――
通りの先から、魔獣が姿を現した。
だが、動きが不自然だ。
逃げ道を塞ぐように、配置されている。
レインの目が、細くなる。
(……試験だ)
(……英雄化条件の、
現地適用)
ミリアが、一歩前に出る。
「……レイン」
「……どうします?」
レインは、即答しなかった。
目の前には、
“選ばれたい”と叫ぶ男。
背後には、
それを見つめる市民。
均衡は、まだ出てこない。
だが、条件だけは置かれている。
「……まず」
レインは、静かに言った。
「……彼が」
「何を選ぶかを、
見ましょう」
男が、魔獣へ走り出す。
剣を振り上げ、
声を張り上げる。
「――俺は、
英雄になるんだ!!」
その背中を、
二人は見つめていた。
この戦いは、
まだ始まっていない。
魔獣が、低く唸った。
通りの中央。
英雄になりたいと叫んだ男が、剣を構えて突進する。
「――うおおおっ!!」
剣が振り下ろされる。
だが、踏み込みが浅い。
恐怖を押し殺しているだけで、
身体が前に出ていない。
魔獣の爪が、弧を描く。
「――危ない!」
その瞬間、空気が揺れた。
男の身体が、わずかに“ずれる”。
「……っ?」
剣が、致命傷を外す。
代わりに、路面が抉れた。
「今の……?」
ミリアが、視線を走らせる。
屋根の縁。
そこに、リュカがいた。
片膝をつき、指先で地面に触れている。
「……位相、ずらしただけ」
息は荒いが、目は冷静だ。
《位相揺動》
直接干渉しない。
“当たるはずの位置”を、ほんの少し動かす。
(……やっぱり)
レインが、即座に理解する。
(……リュカは)
(……前線を作らない)
(……“崩れない位置”を
裏から固定している)
男が、再び叫ぶ。
「……見ただろ!」
「……俺は、
通ったんだ!」
市民の視線が、熱を帯びる。
「……いけるんじゃ……」
「……あいつ、
英雄候補か……?」
その期待が、
さらに男を追い詰める。
魔獣が、体勢を低くする。
次は、本気の突進。
「――来る!」
ミリアが、半歩前に出かけて止まる。
レインが、低く言う。
「……まだです」
その瞬間。
魔獣の咆哮に、
異音が混じった。
リュカが、歯を食いしばる。
「……共鳴、
強すぎる……!」
《共鳴遮断》
魔獣の魔力振動と、
男の無理な魔力流入が干渉している。
その“共鳴”を、断ち切る。
空気が、静まる。
だが――
男の足が、止まった。
「……え?」
期待が、遮断された。
市民の声が、途切れる。
「……なんで……?」
「……今の……」
男の剣先が、震える。
レインが、歩み出る。
「……君は」
「選ばれたいと
言いましたね」
男が、睨み返す。
「……ああ!」
「……それの、
何が悪い!」
レインは、静かに続ける。
「……悪くは、
ありません」
「……でも」
一拍。
「選ばれるために
立っている」
「……それは」
視線を、魔獣へ。
「……前線ではない」
魔獣が、再び動く。
今度は、一直線。
「――っ!」
男が、反射的に後退する。
その瞬間、
市民の期待が完全に剥がれた。
リュカが、叫ぶ。
「……レイン!」
「……今なら、
固定できる!」
レインは、即答する。
「……お願いします」
リュカが、地面に手を叩きつける。
《位相同調》
自分自身を、
“ここに立つ”と定義する。
成長枠――
《自己定位》が、静かに働く。
「……前線は」
リュカが、歯を食いしばる。
「……動かさせない!」
魔獣の動きが、鈍る。
完全に止まらない。
だが、“押し返せる”。
ミリアが、剣を握り直す。
「……レイン」
「……行きます」
レインは、頷いた。
「……はい」
「今度は、
選ぶ側です」
ミリアが、踏み出す。
《踏越位》
今度は、迷いがない。
前線が、定まる。
市民が、理解する。
――英雄じゃない。
――前に立つ人間だ。
その瞬間、
戦場の意味が、変わった。
魔獣が、地面に伏した。
致命傷ではない。
だが、もう立ち上がれない。
前に立っていたのは、ミリア。
剣を下げ、呼吸を整えている。
彼女は前衛だ。
攻撃を受け、押し返し、道を切り拓く役割。
だが、その背後――
わずかに距離を保った位置で、リュカが膝をついていた。
「……はぁ……」
汗が、額を伝う。
「……前線、
やっぱり……
固定するの、
しんどい……」
レインが、すぐ隣に立つ。
「……十分です」
「……前衛が
立てる場所を、
作っていました」
リュカは、苦笑する。
「……俺は、
殴れないし」
「……斬れない」
「……でも」
指先を、地面に触れる。
「……ここに
“戦える場所”が
あるってことなら」
「……分かる」
ミリアが、振り返る。
「……それで、
十分ですよ」
「……前衛が
暴れられる
前線です」
その言葉に、
リュカは少しだけ、胸を張った。
•
一方。
英雄になりたかった男は、
道の端に座り込んでいた。
剣を、地面に落としたまま。
「……俺」
「……下がった……」
誰に言うでもない呟き。
市民の視線が、痛いほど刺さる。
だが、もう期待はない。
責める声も、ない。
ただ、静かだった。
レインが、男の前に立つ。
「……怖かったですね」
男は、顔を上げない。
「……当たり前だろ」
「……死ぬって、
思った……」
レインは、頷く。
「……前線は、
そういう場所です」
「……だから」
一拍。
「前に立つ者は、
選ばれるべきでは
ありません」
男が、歯を噛みしめる。
「……じゃあ」
「……俺は、
間違ってたのか」
ミリアが、静かに口を挟む。
「……間違って
ないです」
「……ただ」
「……前線に
立つ理由が、
“期待”だった」
「……それは」
剣を、軽く地面に突く。
「……前衛には、
向いてない」
男は、拳を握りしめ、
やがて、力を抜いた。
「……俺」
「……英雄に
なりたかったんだ」
「……でも」
小さく笑う。
「……立つの、
怖かった」
その正直さに、
誰も何も言えなかった。
•
市民の中から、
一人が声を出す。
「……でも」
「……あんた、
逃げ切らなかった」
「……途中まででも、
前にいた」
別の声が、続く。
「……英雄じゃ
なくても」
「……前衛じゃ
なくても」
「……立つ場所は、
あるんじゃ
ないか?」
その言葉に、
男は目を見開いた。
リュカが、ぽつりと言う。
「……前線は」
「……一人で
作るもんじゃ
ない」
「……前に立つ人が
いて」
「……支える人が
いて」
「……それで、
初めて
“戦場”になる」
レインは、その言葉を引き取る。
「……英雄は、
役割を一つに
固定します」
「……でも」
視線を、市民へ。
「……前線は」
「選んだ人間の数だけ、
存在できる」
沈黙。
だがそれは、
恐怖の沈黙ではない。
理解が、落ちる音だった。
ミリアが、剣を背に戻す。
「……今日は、
ここまでですね」
レインは、頷く。
「……ええ」
「……前衛は、
立ちました」
「……前線も、
守られました」
リュカが、立ち上がり、
肩を回す。
「……仲間として、
悪くない連携だった」
ミリアが、笑う。
「……ですね」
三人が並んで歩き出す。
英雄はいない。
だが――
前に立つ者と、
支える者と、
選ぶ者がいる。
それだけで、
街は、少しだけ強くなった。




