準備という名の、いつもの時間
旅支度というものは、
いつやっても似たような音がする。
革袋の擦れる音。
金具の触れ合う音。
乾いた布を畳む音。
ノーリトリートの拠点は、
今日も変わらず静かだった。
ミリアは床に座り込み、
刃こぼれした短剣を一本ずつ確認している。
「……帝国、かぁ」
独り言のように漏れた声に、
レインは地図から視線を上げなかった。
「うん」
短い返事。
それだけで、
会話は成立している。
⸻
「さ」
ミリアは、
わざと軽い調子で続ける。
「分かりやすく、
嫌な場所だよね」
「制度が強くて」
「正義が書類になってて」
「命が、
番号で管理されてそうなとこ」
レインは、
少しだけ考えてから言った。
「だいたい合ってると思う」
「否定しないんだ」
「否定できる材料がない」
淡々とした答え。
ミリアは、
くすっと笑う。
「相変わらずだね」
⸻
沈黙。
だが、
気まずさはない。
ミリアは、
短剣を鞘に戻しながら言う。
「……危ないとこ、行くね」
今度は、
軽くない声だった。
レインは、
すぐには答えなかった。
代わりに、
地図を畳む。
その動作が終わってから、
ようやく口を開く。
「危ないって、
分かってる場所だから行く」
ミリアは、
一瞬だけ目を瞬かせる。
「……それ、
安心させるつもり?」
「半分」
「残り半分は?」
「自分に言ってる」
正直すぎる答えだった。
⸻
「そっか」
ミリアは、
それ以上追及しなかった。
追及できないのではない。
しないと決めたのだ。
この人は、
守ると言わない。
約束もしない。
その代わり、
理解した上で同じ場所に立つ。
それが、
レインという人間だ。
⸻
ミリアは立ち上がり、
荷物を背負う。
「じゃあさ」
振り返って、
少しだけ笑う。
「行こっか」
「……うん」
それだけで、
二人は並んだ。
何も決めていない。
何も言っていない。
それでも、
同じ方向を向いている。
ミリアは、
拠点の外に出てからも、
しばらく無言だった。
歩調は揃っている。
距離も、いつも通り。
それなのに――
胸の奥だけが、少しだけ騒がしい。
(……言えばいいのに)
自分で、そう思う。
不安だって。
怖いって。
できれば、無事でいてほしいって。
全部、
言葉にできる。
言ってしまえば、
楽になる。
⸻
でも。
(この人に、
それを言わせたくない)
それが、
ミリアの正直な気持ちだった。
レインは、
「大丈夫」と言わない。
「守る」とも言わない。
その代わり、
危険を理解したまま前に出る。
逃げない。
誤魔化さない。
だからこそ――
感情で縛る言葉を、
投げたくなかった。
⸻
「ねえ、レイン」
不意に、
声をかける。
彼は立ち止まり、
振り返る。
「なに?」
「……帝国さ」
少し間を置いて。
「私たち、
浮くと思う?」
遠回しな問い。
レインは、
即答しなかった。
代わりに、
空を一度見上げる。
「浮くと思う」
正直な答え。
「でも、
沈むよりはいい」
ミリアは、
思わず吹き出した。
「なにそれ」
「沈んだら、
見えなくなる」
それは、
彼なりの価値観だった。
⸻
「……ね」
ミリアは、
歩き出しながら言う。
「私さ」
「帝国で、
あなたが責められたら」
一瞬、
言葉に詰まる。
「……多分、
怒る」
レインは、
小さく目を瞬かせた。
「止めないよ」
「止めなくていい」
ミリアは、
即答する。
「正しいとか、
正しくないとか、
どうでもいい」
「ただ、
嫌だから」
それだけだった。
⸻
レインは、
少しだけ困ったように笑う。
「それ、
理屈じゃないね」
「知ってる」
「でも、
私は理屈の人じゃない」
胸を張って言う。
「だから、
あなたの隣にいる」
それは、
告白に近い。
けれど、
確定させない言い方。
⸻
しばらく、
二人は歩いた。
風が吹き、
草が揺れる。
世界は、
いつも通り動いている。
「……ミリア」
レインが、
ぽつりと言う。
「ありがとう」
それは、
何に対してか分からない言葉。
ミリアは、
分かっていて、分からないふりをした。
「なにそれ、
急に」
「今、
言っておかないと
忘れそうだった」
その答えに、
ミリアは少しだけ目を細める。
(……ずるい)
こういうところが、
ずるい。
⸻
言えば、
何かが変わる。
でも、
変えない選択もある。
ミリアは、
それを選んでいる。
今は、
まだ。
⸻
拠点の灯りが、
見えてきた。
日常は、
終わらない。
ただ、
次の場所へ移るだけだ。
ミリアは、
歩きながら思う。
(……帝国で、
何が起きても)
(私は、
ここに立ったことを
後悔しない)
それだけは、
確かだった。
夜は、
拠点を包み込むように静かだった。
焚き火の音だけが、
一定のリズムで鳴っている。
ミリアは、
火の前に腰を下ろし、
膝を抱えた。
向かい側には、
レインがいる。
会話はない。
だが、
沈黙が重たくならない距離だった。
⸻
「……ね」
ミリアが、
火を見つめたまま言う。
「帝国から、
ちゃんと戻ってこようとか」
「無事でいようとか」
「そういうの、
言わないんだね」
責める声じゃない。
確認だ。
レインは、
少しだけ考えてから答える。
「言うと」
一拍。
「守れなかった時に、
嘘になる」
それは、
彼らしい理由だった。
⸻
「……そっか」
ミリアは、
小さく息を吐く。
「でもさ」
顔を上げて、
彼を見る。
「言わなくても、
行くんでしょ?」
「一緒に」
レインは、
頷いた。
「うん」
それ以上、
言葉はいらなかった。
⸻
焚き火が、
ぱちりと弾ける。
ミリアは、
少しだけ笑う。
「私ね」
「約束されるより、
選ばれる方が好き」
それは、
強がりではない。
彼女なりの、
覚悟だった。
⸻
レインは、
その言葉を否定しない。
「……それなら」
静かに言う。
「僕は、
毎回選ぶ」
大げさな宣言じゃない。
ただの事実確認。
ミリアは、
一瞬だけ驚いてから、
目を伏せる。
「……ずるいって」
「そう?」
「うん」
でも、
嫌じゃない。
⸻
遠くで、
金属音がした。
誰かが、
装備を整えている。
きっと、
リュカかエルドだ。
それぞれ、
自分の準備をしている。
帝国に行くための準備と、
その先で何が起きても
引き受けるための準備。
⸻
「……行こうか」
ミリアが立ち上がる。
「うん」
レインも、
同じタイミングで立つ。
二人は、
並んで歩き出す。
手は、
触れない。
でも、
離れてもいない。
⸻
約束は、
しなかった。
未来も、
縛らなかった。
それでも、
同じ場所に立つことだけは
選び続けている。
それが、
今の二人の距離だった。




