正義が揃い、敵だけが立っていた
その日、戦場には迷いが存在しなかった。
英雄が前に出ていた。
蒼衡《そうこう/アズール・バランス》が布陣を敷いていた。
そして――ノーリトリートの四人が、揃って“そこに立っていた”。
それだけで、本来なら終わるはずの局面だった。
英雄・ヴァルハルト=レオンは大剣を地に叩きつけ、衝撃で瓦礫を押しのける。
光魔導を纏うイリス=アークライトが後衛から空間を制圧し、逃走経路を塞ぐ。
蒼衡のセイン=ヴァルクスが一歩踏み出し、《均衡再裁定(きんこうさいさいてい/リバランス・ジャッジ)》の準備に入った瞬間、
戦場は「勝利前提の形」に組み替えられていった。
――倒せる。
誰もが、そう思った。
だが。
黒の戦装束を纏った男、ヴァルグリム=ゼインは、
その中央で、ただ立っていた。
「……静かだな」
呟きは、戦場の喧騒に埋もれなかった。
まるでこの場の音量そのものが、彼を中心に調整されているかのようだった。
最初の衝突は、英雄による一撃だった。
「――退けッ!」
大剣が振り下ろされ、地面が割れ、衝撃波が街路を貫く。
だがヴァルグリムは避けない。
否――避ける必要がなかった。
衝撃は、彼の直前で“押し潰されるように消失”した。
空間が、内側に畳まれた。
「《戦域掌握》……」
リュカが息を呑む。
情報が、速やかに、だが確実に遅れ始めていた。
次の瞬間、蒼衡が動く。
複数人による連携斬撃。
判断、指示、防御、回復――すべてが洗練された“正しい集団戦”。
しかし。
斬撃は当たった。
確かに当たった。
それでも、何も起きない。
「……当たってるのに、繋がらない?」
ミリアの声が震える。
レインは、即座に理解していた。
(因果が……接続されていない)
ヴァルグリムの周囲では、
「攻撃した」という出来事と、「結果が生じる」という出来事が、
同時に存在していない。
英雄が、蒼衡が、
正しさを積み重ねるほどに、戦場は歪んでいく。
ヴァルグリムは、一歩だけ前に出た。
その瞬間、地面が沈み、建造物が軋み、
民衆が逃げ惑う方向が――意図的に限定される。
「殺さない。壊しきらない。だが――選択肢は減らす」
淡々とした声。
「戻れない盤面が、必要なんだ」
英雄の剣が再び振るわれる。
蒼衡の裁定が発動寸前まで進む。
ノーリトリートの四人が、同時に距離を詰める。
――それでも。
ヴァルグリムは、まだ余裕を失っていなかった。
「いい連携だ。想定より、ずっとな」
初めて、彼の声音に“焦りに似たもの”が混じる。
だが、その視線は――
英雄でも、蒼衡でもなく。
レインの背後を、僅かに掠めていた。
「……だが」
ヴァルグリムは、静かに息を吐く。
「盤面は、まだ完成していない」
黒い影が、彼の足元から広がり、
次の瞬間、空間そのものが“閉じる”ように歪んだ。
「次は、もう少し踏み込む」
その言葉を最後に、
ヴァルグリム=ゼインの姿は、戦場から消失した。
残されたのは、
勝てなかったという事実と、
全員が揃っていたのに足りなかった何か。
レインは、拳を握りしめていた。
(……揃ってないのは、俺たちじゃない)
視線の先には、崩れかけた街と、
逃げ場を失った人々の背中。
(――“決断”だ)
それを、まだ口には出さなかった。
戦場の後には、必ず沈黙が残る。
それは勝利の静けさでも、敗北の虚脱でもない。
「終わったはずなのに、何も終わっていない」――
そういう種類の空白だった。
英雄・ヴァルハルト=レオンは、大剣を地に突き立てたまま動かなかった。
「……逃がした、か」
それは自責でも、悔恨でもない。
事実確認に近い呟きだった。
光魔導を解除したイリス=アークライトが、瓦礫の向こうを見渡す。
「民衆の被害は……抑えた。
でも、“選ばせない形”で逃げ道を潰されてる」
それは英雄たちが最も嫌う報告だった。
助けたはずなのに、救えていない。
蒼衡《そうこう/アズール・バランス》の面々も沈黙していた。
セイン=ヴァルクスは、裁定を発動しかけた手を下ろす。
「……切れなかったな」
彼の《均衡再裁定(きんこうさいさいてい/リバランス・ジャッジ)》は、
“結果が見えている場合”にしか意味を持たない。
だが今回、
切った先にある未来が、どこにも固定されていなかった。
「正しいかどうか、分からなかった」
その言葉は、蒼衡にとって致命的だった。
一方で――
ノーリトリートは、少し離れた場所で、静かに立っていた。
誰も責めていない。
誰も称えていない。
それが、逆に重かった。
「……ねえ、レイン」
ミリアが、小さく声をかける。
「私たち、何も間違ってないよね?」
感情は、胸の奥で留められていた。
怒りにも、恐怖にも、まだ変換されていない。
レインは答えなかった。
正確には、答えを選ばなかった。
「間違ってない、とは言える。
でも――足りなかった、とは思う」
それは判断でも、決意でもない。
ただの観測だった。
リュカが、遅れて入ってきた情報を整理する。
「被害の出方が……意図的だ。
殺さない、壊しきらない。
でも、“次に何をすればいいか”が全部分からなくなる配置」
「選択肢を、削ってる」
エルドが低く呟く。
盾を構えたまま、彼は一歩も動いていなかった。
まるで、この場そのものを受け止めるように。
「……あいつは、勝ちに来てない」
その言葉に、全員が反応した。
「勝利条件が、違う」
レインは、ゆっくりと言葉を続ける。
「英雄が勝っても、
蒼衡が裁定しても、
それでも“戻れない状況”が残るように、盤面を組んでる」
英雄たちは沈黙した。
蒼衡も、反論しなかった。
「つまり――」
ミリアが、言葉を探す。
「誰かが“選ばなきゃいけなくなる”ところまで、追い込む気?」
レインは、首を横に振った。
「違う。
誰かが選ぶしかなくなった瞬間を、成立させる気だ」
その場に、重い理解が落ちる。
その時、誰かが呟いた。
「……ノーリトリート」
視線が集まる。
英雄でもなく、蒼衡でもない。
選ばないことを選び続けてきた、最後の存在。
セイン=ヴァルクスは、苦い表情で言った。
「彼は、お前たちを“最後の安全装置”だと思っている」
レインは、否定しなかった。
「……そうだろうね」
だからこそ。
ヴァルグリム=ゼインは、まだ“本気で壊していない”。
だからこそ。
次は、もっと露骨に――
ノーリトリートが立ち続けられない状況を作りに来る。
ミリアは、拳を握った。
感情は、まだ留まっている。
だが、それはいつまでも続かない。
(次は……私たちを、直接狙う)
その予感だけは、
誰も否定できなかった。
夜が、戦場を覆い始めていた。
火の手は収まり、悲鳴も止んだ。
それでも――
誰一人として「終わった」とは思えなかった。
空間が、まだ締め切られていない。
その感覚に、最初に気づいたのはレインだった。
「……来る」
次の瞬間、
空気が“押し潰される”。
それは衝撃ではない。
《戦域掌握》――
空間を“戦場”として固定する圧。
「全員、構えろ!」
英雄たちが前に出る。
蒼衡《そうこう/アズール・バランス》が左右を抑える。
ノーリトリートは、自然と一箇所に集まっていた。
そして――
闇の中心に、彼は立っていた。
「揃ったな」
ヴァルグリム=ゼインは、淡々と告げる。
声に怒りはない。
歓喜も、憎悪もない。
「英雄。
裁定者。
そして――非裁定」
ゆっくりと、視線がノーリトリートへ向く。
「ここまで来るのに、随分と時間がかかった」
ヴァルハルト=レオンが、一歩踏み出す。
「これ以上の被害は出させない」
「それは、もう決まっている」
ヴァルグリムは、否定もしなかった。
「私は“皆殺し”を選ばない。
だが――“戻れる世界”も、選ばない」
イリスが、歯を噛み締める。
「……何が目的なの」
「確認だ」
彼は、即答した。
「世界が、
後悔を引き受け続けられる構造になっているかどうか」
その言葉に、蒼衡のセイン=ヴァルクスが反応する。
「だから撤退していたのか。
勝利条件が成立する直前で」
「そうだ」
ヴァルグリムは、初めて“はっきりと”肯定した。
「勝った瞬間、
正義は自分を正当化する。
だが、迷ったまま終われば――
その後悔は、世界に残る」
ミリアの胸が、締め付けられる。
「……それで、街を壊したの?」
「壊してはいない。
選択肢を消しただけだ」
淡々とした言葉。
「守るか、追うか。
裁くか、見逃すか。
選ばせないことで、“決めた責任”だけを残した」
レインは、静かに一歩前に出た。
「それが……正義だと?」
「いいや」
ヴァルグリムは、首を振る。
「正義ではない。
必要悪ですらない」
そして、初めて感情の色が混じる。
「世界が壊れかけた時、
誰が“最後まで迷い続けられるか”を見る役割だ」
英雄たちは沈黙した。
蒼衡も、反論できなかった。
ノーリトリートだけが、動かなかった。
「だから、お前たちが必要だった」
ヴァルグリムは、ノーリトリートを真っ直ぐに見る。
「裁定しない者。
選ばない者。
それでも、立ち続ける者」
その声に、焦りが混じる。
「だが――まだだ」
彼は、歯を噛み締める。
「まだ、お前たちは揃っていない」
次の瞬間、
空間が大きく歪んだ。
《黒圧進》。
英雄と蒼衡が、同時に踏み込む。
だが――
攻撃は、決定打にならない。
当たっているのに、終わらない。
切っているのに、倒れない。
「……強すぎる」
ヴァルハルトが、低く唸る。
その時、
ノーリトリートの全員が、同じ感覚を共有していた。
(――次だ)
まだ、技は出さない。
出せない。
全員が揃い、
覚悟が一致した瞬間でなければ。
ヴァルグリムは、一歩下がった。
「いい。今日はここまでだ」
焦りを隠しきれない声。
「盤面は、ほぼ揃った。
だが――ノーリトリートだけが、まだ足りない」
闇が、彼を包む。
「次は、
迷わせる余裕すら、与えない」
その言葉を残し、
ヴァルグリム=ゼインは姿を消した。
沈黙が落ちる。
誰も、すぐには動けなかった。
レインが、静かに言う。
「……次で終わらせる」
それは宣言ではない。
決意でもない。
ただの、事実確認だった。
全員が揃った時、
《非裁定領域(ひさいていりょういき/ノー・リトリート)》は、
必ず発生する。
その時――
世界は、初めて「答えを出さない選択」を強いられる。




