正義は、選ばない者を許せるか
呼び出しは、簡潔だった。
場所。
時間。
護衛なし。
それだけ。
「……罠じゃないな」
リュカが言う。
「罠なら、
もっと分かりやすくする」
レインは、
そう答えた。
英雄は、
そういう存在だ。
⸻
待ち合わせ場所は、
街の外れだった。
戦域にもならず、
人もいない。
ただ、
何も起きなかった場所。
そこに、
英雄は立っていた。
ヴァルハルト=レオン。
剣は携えているが、
抜く気配はない。
「……来てくれたか」
「用件次第では、
来ない理由もなかった」
レインの返答は、
いつも通り淡々としている。
だが、
英雄は見逃さない。
その声が、
わずかに硬いことを。
⸻
「単刀直入に言う」
ヴァルハルトは、
前置きをしなかった。
「次の事案で、
君たちが動かなければ
被害は止まらない」
脅しではない。
感情でもない。
事実の提示。
「英雄でも、
蒼衡《そうこう/アズール・バランス》でも
届かない局面が、
もう想定されている」
レインは、
否定しなかった。
「……理解している」
「なら聞く」
一歩、近づく。
「なぜ、それでも
選ばない?」
その問いは、
世界を代表していた。
⸻
沈黙。
風が、
二人の間を通り抜ける。
「……正義は」
レインが、
静かに口を開く。
「選ぶことで、
世界を前に進める」
「そうだ」
「でも」
一拍。
「選ばれなかった側の後悔は、
どこへ行く?」
ヴァルハルトは、
すぐに答えなかった。
それは、
彼自身が
何度も背負ってきたものだからだ。
⸻
「……英雄は」
ヴァルハルトが言う。
「後悔を、
背負う存在だ」
「分かっている」
レインは、
頷く。
「だからこそ、
僕は英雄にならない」
「逃げているように見える」
「そう見えるなら、
それでいい」
即答。
「逃げた結果、
誰が後悔を引き受けるか」
「それを、
世界に押し返しているだけだ」
⸻
ヴァルハルトは、
しばらく黙っていた。
やがて、
低く言う。
「……ミリアの件」
一瞬、
空気が張り詰める。
「……すまない」
英雄としてではなく、
一人の人間としての言葉だった。
レインは、
目を伏せない。
「彼女は、
自分で立った」
「止めなかったのは、
僕だ」
そこに、
責任転嫁はない。
⸻
「……なら」
ヴァルハルトは、
はっきりと言った。
「次は、
君が狙われる」
「理解している」
「それでも?」
「それでも、
選ばない」
即答だった。
揺らぎはない。
⸻
英雄は、
ゆっくり息を吐く。
「……厄介だな」
それは、
最大級の評価だった。
「正義を否定せず」
「世界を壊さず」
「それでも、
前に立たない」
一拍。
「それは、
英雄より重い立場だ」
レインは、
否定しなかった。
⸻
「一つだけ、
約束しろ」
ヴァルハルトが言う。
「世界が、
本当に壊れそうになった時」
「その時も、
選ばないでいられるか?」
レインは、
少しだけ考えた。
そして、答える。
「……分からない」
正直な言葉。
「だから、
考え続ける」
「後悔しないために?」
「違う」
一拍。
「後悔を、
引き受け続けるために」
⸻
英雄は、
それ以上何も言わなかった。
剣も、抜かない。
ただ、
背を向ける前に一言。
「……分かった」
「なら、
俺は俺の役割をやる」
それは、
敵対でも協力でもない。
並び立つ覚悟だった。
⸻
その場に、
レインだけが残る。
風が、
再び吹く。
「……来るな」
小さく、呟く。
ヴァルグリム=ゼインが。
そして、
世界が。
自分を、
逃がさない形で。
ヴァルグリム=ゼインは、
円環状に刻まれた地図を見下ろしていた。
都市。
街道。
避難経路。
どれも、
間違っていない配置だ。
「……英雄は来る」
独り言のように呟く。
「蒼衡は、
切断基準を再定義する」
「世界機関は、
“最終段階”を宣言する」
全て、
これまで何度も見てきた流れ。
正義は、
必ず動く。
⸻
「……だが」
指先で、
地図の中心をなぞる。
「今回は、
動かせない」
英雄が守れば、
被害は拡散する。
蒼衡が切れば、
連鎖が加速する。
世界機関が選べば、
責任の所在が崩壊する。
「……完璧だ」
低く、吐息。
正解が、
一つも存在しない。
⸻
彼が用意したのは、
“災厄”ではない。
天変地異でも、
絶対悪でもない。
選択を要求する状況。
「避難させるか」
「防衛するか」
「切るか」
「守るか」
どれを選んでも、
別の何かが失われる。
それが、
この盤面の核心だった。
⸻
「……ここで」
ヴァルグリムは、
はっきりと理解している。
「英雄は、
自分の後悔を選ぶ」
「蒼衡は、
世界の後悔を選ぶ」
「世界機関は、
“仕方なかった”を選ぶ」
それは、
いつも通りだ。
だが――
「……ノーリトリートだけが、
選ばない」
そこが、
最大の異物。
⸻
彼は、
目を閉じる。
思い出すのは、
奇襲の後の感触。
ミリアは、
生きている。
それでいい。
だが、
レインは――
まだ壊れていない。
「……やはり」
低く、呟く。
「人質は、
個人では足りない」
次は、
世界だ。
⸻
ヴァルグリムが狙うのは、
都市の崩壊ではない。
壊滅でもない。
「今、選ばなければ
次はもっと酷くなる」
という段階的設計。
「逃げられないが、
まだ戻れる」
その曖昧さが、
人を最も苦しめる。
「……完璧だな」
自嘲気味に、
そう言った。
⸻
彼は、
分かっている。
これを実行すれば、
自分は確実に“倒される”。
英雄にか。
蒼衡にか。
あるいは――
ノーリトリートにか。
それでも、
構わない。
「……役割だからな」
だが、
一つだけ誤算がある。
「……お前は」
レインの顔が、
脳裏をよぎる。
「まだ、
正義を憎んでいない」
それは、
この盤面にとって
危険な兆候だった。
⸻
ヴァルグリムは、
静かに決める。
「次は、
同時多発だ」
英雄が一箇所に縛られ、
蒼衡が全体を見失い、
世界が判断を先送りする。
その中央に――
ノーリトリートを立たせる。
逃げ場を消す。
だが、
強制はしない。
「……選べとは、言わない」
一拍。
「選ばないことの
結果だけを、
見せる」
⸻
遠くで、
警鐘が鳴り始めた。
まだ、
誰も死んでいない。
まだ、
世界は壊れていない。
だが――
戻れない歯車が、
回り始めた。
ヴァルグリム=ゼインは、
その音を聞きながら、
静かに立ち上がる。
「……来い、レイン」
低く、しかし確かに。
「お前が
最後に残した空白を」
「俺は、
埋めに行く」
最初の警報は、
一つではなかった。
都市部。
郊外。
街道沿い。
同時刻、
複数地点で魔力異常。
「……同時多発」
リュカの声が、
一段低くなる。
「英雄は、
全部は回れない」
それは、
誰にでも分かる事実だった。
⸻
次に入った情報は、
さらに悪い。
「蒼衡《そうこう/アズール・バランス》が
二分された」
切断対象が、
同時に発生。
どちらも、
“切るべき理由”がある。
「……世界機関は?」
「判断保留」
リュカは、
一瞬だけ目を伏せる。
「責任の所在が
確定できない」
つまり――
誰も、選ばない。
⸻
レインは、
地図を見つめていた。
点と点が、
線になり始めている。
英雄が向かう先。
蒼衡が割れた先。
世界が止まった場所。
そして――
空いている中央。
「……なるほど」
小さく、呟く。
「これが、
ヴァルグリムの“完成形”か」
誰もが動いている。
誰もが正しい。
それでも、
全体は壊れる。
⸻
「……レイン」
ミリアが、
隣に立つ。
まだ万全ではない。
だが、
目は迷っていない。
「……行く?」
問いは短い。
レインは、
すぐには答えなかった。
《模写理解》が、
自動的に走る。
因果。
連鎖。
回避不能点。
どこか一つを選べば、
別のどこかが確実に崩れる。
それが、
今の盤面だった。
⸻
「……行く」
ただし、
一言だけ付け加える。
「決めには行かない」
ミリアは、
小さく笑った。
「うん」
それで、
十分だった。
⸻
ノーリトリートは、
中央へ向かう。
英雄がいない場所。
蒼衡が割れた隙間。
世界機関が
判断を置けなかった地点。
そこには、
まだ何も起きていない。
だが――
起きる予定の場所だった。
⸻
到着した瞬間、
レインは理解する。
「……来る」
次の一撃が。
災厄ではない。
爆発でもない。
“選ばなかった結果”そのもの。
複数の街で、
同時に避難が滞る。
英雄は守っている。
蒼衡は切っている。
それでも、
“こぼれる”。
⸻
「……見えてるな」
低い声。
ヴァルグリム=ゼインが、
空間の向こうに立っていた。
今回は、
奇襲ではない。
正面だ。
「英雄も」
「蒼衡も」
「世界も」
指を折る。
「全員、
役割通りに動いている」
一拍。
「それでも、
全体は救えない」
視線が、
レインに向く。
「……だから」
「お前だけが、
ここに立っている」
⸻
レインは、
否定しない。
「……そうだね」
落ち着いた声。
「全体が、
見えている」
「だが」
一歩も踏み出さない。
「それでも、
僕は選ばない」
ヴァルグリムは、
初めて眉をひそめた。
「……理解しているはずだ」
「このままでは、
被害は止まらない」
「分かっている」
即答。
「だから、
止めに来た」
「……?」
その言葉は、
盤面に存在しなかった。
⸻
レインは、
静かに手を広げる。
「英雄の代わりに
決めない」
「蒼衡の代わりに
切らない」
「世界の代わりに
正義を置かない」
一拍。
「ただ、
ここに立つ」
それだけで、
連鎖が一つ、止まる。
理由は、
単純だった。
誰も“判断を投げられなくなった”。
⸻
ヴァルグリムは、
はっきりと焦りを見せた。
「……お前」
「それは、
俺の想定にない」
「知ってる」
レインは、
初めて微かに笑った。
「だから、
ここに来た」
⸻
盤面は、
完全には揃わない。
だが――
崩壊も、起きない。
中途半端。
曖昧。
それが、
ノーリトリートの立ち位置だった。
「……まだだ」
ヴァルグリムは、
後退する。
「まだ、
足りない」
だが、
その声には確実に
焦りが混じっていた。
⸻
彼が消えたあと、
レインは息を吐く。
「……疲れた」
正直な一言。
「でも」
ミリアを見る。
「これで、
逃げ場はなくなった」
「うん」
ミリアは、
静かに頷く。
「向こうも、
私たちも」
⸻
夜は、
まだ終わらない。
だが、
一つだけ確かなことがある。
選ばない者は、
もう“外”ではない。
それでも、
まだ選ばない。
それが、
この物語の核心だった。




