立つことを、許された夜
目を覚ましたとき、
ミリアはまず――
自分の身体が重いことを自覚した。
痛みはある。
だが、昨日までとは質が違う。
「……生きてる、か」
声に出して確認する。
天井は白い。
治療用の魔導灯。
世界機関の治療室。
思い出すのは、
路地裏の暗さと、
空気が沈んだあの瞬間。
「……奇襲、だったな」
自分でも驚くほど、
冷静に振り返れていた。
怖くなかったと言えば嘘になる。
だが、それ以上に――
「やられた理由」が分かってしまった。
自分が、一人だったから。
ノーリトリートだったから。
そして――
レインの傍にいる存在だったから。
「……狙われた、か」
その事実が、
胸の奥で静かに沈む。
⸻
身体を動かそうとして、
一瞬だけ躊躇する。
怖いのではない。
動かないかもしれないという不安。
ゆっくり、指を動かす。
――動く。
次に、腕。
少し痛むが、応える。
「……あれ?」
呼吸が、
思ったより深い。
さっきまであった
胸の内側の“詰まり”が、
どこかへ消えている。
代わりに、
違和感だけが残っている。
治ったわけじゃない。
でも――
立てる気がした。
⸻
「……?」
気配。
ミリアは、
反射的に視線を向ける。
そこにいたのは、
見慣れたようで、
見慣れていない老人だった。
「……え」
声が、間抜けに漏れる。
「……ジル、爺?」
「おう」
いつも通りの、
軽い返事。
杖も持たず、
護衛もいない。
まるで、
散歩の途中みたいな顔。
「……どうして、ここに?」
「通り道じゃ」
「世界機関の、
治療区画が?」
「じゃな」
まったく悪びれない。
⸻
ジル爺は、
ミリアを一目見て、
小さく息を吐いた。
「……なるほど」
「やられとるな」
「……見て分かるの?」
「分かる分だけな」
それ以上、
説明はしない。
ジル爺は、
静かに近づき、
ミリアの額に指を置いた。
光はない。
魔力の奔流もない。
ただ――
世界が、
一枚だけずれた感覚。
「……っ」
息が、自然に深くなる。
痛みが、
完全に消えるわけじゃない。
でも、
“止まっていた何か”が
動き出す。
⸻
「……なに、したの?」
「治しとらん」
即答。
「……え?」
「治したら、
あやつが選ぶ」
その“あやつ”が
誰かは、聞かなくても分かった。
「……じゃあ」
「行ける状態にしただけじゃ」
ジル爺は、
ミリアを見る。
試すような目ではない。
評価でもない。
ただ、
確認。
「……怖いか?」
ミリアは、
少し考えてから答えた。
「……怖い」
「そうか」
「でも」
一拍。
「行きたい」
それは、
使命感じゃない。
正義でもない。
ただ――
置いていかれたくなかった。
⸻
ジル爺は、
それを聞いて、
少しだけ笑った。
「なら、ええ」
ミリアの背中に、
手を置く。
強くない。
押すでもない。
それでも――
確かに、背中だった。
「選ぶな」
一拍。
「だが、
立つことは選べ」
⸻
「……レインに、
言わなくていいの?」
「言わん」
即答。
「言えば、
あやつは“世界”を見始める」
それは、
ミリアにも分かる。
レインは、
そういう人だ。
「……ずるいね」
「爺は、
大体ずるい」
ジル爺は、
もう扉の方を向いている。
「……ありがとう」
「礼はいらん」
振り返らずに、
一言だけ。
「後悔は、
自分で持て」
⸻
扉が閉まる。
最初から、
誰もいなかったみたいに。
ミリアは、
しばらく天井を見ていた。
痛みはある。
不安もある。
でも。
「……行くか」
小さく、呟く。
それは、
誰かの代わりに選ぶためじゃない。
選ばないまま、
隣に立つため。
ミリアは、
ゆっくりと立ち上がった。
扉が開いた音で、
レインは顔を上げた。
次の瞬間、
言葉を失う。
「……ミリア?」
立っていた。
完璧ではない。
歩き方も、まだ慎重だ。
それでも――
立っている。
「……あ」
ミリアは、
少し気まずそうに笑う。
「怒ってる?」
その一言で、
レインの中に溜まっていたものが
一気に崩れた。
「……怒ってない」
声が、
思ったより低い。
「驚いてるだけだ」
それは、
嘘ではない。
だが、
全部でもない。
⸻
《模写理解》が、
自動的に走る。
損傷痕。
修復の“ずれ”。
魔力循環の不自然な補正。
治ってはいない。
だが――
意図的に“立てる状態”にされた。
「……誰が、やった?」
レインは、
すぐに悟っていた。
ミリアは、
一瞬だけ視線を逸らす。
「……内緒」
その答えで、
十分だった。
「……そうか」
それ以上、
聞かない。
聞いた瞬間、
自分が“選ぶ側”になる。
それを、
レインは嫌った。
⸻
「……行くんだな」
確認。
命令ではない。
ミリアは、
小さく頷く。
「うん」
「怖いか?」
「怖い」
即答。
「でも」
一拍。
「レインの隣に、
立てない方が怖い」
その言葉で、
レインの胸が少しだけ軋む。
守りたい。
失いたくない。
だが――
それを理由に
彼女を縛ることは、できない。
⸻
レインは、
ゆっくり息を吐いた。
「……止めない」
それは、
覚悟の言葉だった。
「許可でも、
命令でもない」
一拍。
「君が立つことを、
否定しない」
ミリアは、
少しだけ目を見開いてから、
笑った。
「……ありがとう」
「礼はいらない」
それは、
どこかで聞いた言葉。
だが、
レインの口から出ると
意味が違った。
⸻
「ただし」
声を落とす。
「無茶はするな」
「それ、
今言う?」
「今だから言う」
ミリアは、
肩をすくめる。
「努力はする」
「信用はする」
その交換で、
十分だった。
⸻
エルドとリュカが、
黙って見ている。
「……変わったな」
リュカが、
小さく言う。
「何が?」
「立たないまま、
前を向いてる」
それは、
ノーリトリートの
新しい形だった。
⸻
レインは、
地図を広げる。
盤面は、
さらに狭まっている。
ヴァルグリム=ゼインは、
次を用意している。
間違いなく――
**もっと直接的な“越線”**を。
「……来る」
低く、断言する。
「次は、
僕たちを
“逃がさない”形で」
⸻
ミリアは、
その横に立った。
まだ完全ではない身体で。
それでも、
一歩も引かずに。
「……じゃあさ」
軽く言う。
「今度は、
一人で行かない」
レインは、
小さく頷いた。
「ああ」
それでいい。
⸻
遠くで。
ヴァルグリム=ゼインは、
報告を受け取っていた。
「……戻った、か」
眉が、わずかに動く。
「治ったわけではない」
すぐに理解する。
「……なるほど」
低い声。
「誰かが、
“立つこと”を許したな」
それは、
盤面に存在しなかった要素。
老いた観測点。
役割を持たない干渉。
そして。
「……だが」
一拍。
「それでも、
レインは
選んでいない」
焦りが、
はっきりした。
⸻
夜は、
まだ終わらない。
だが、
ノーリトリートは
もう“守られるだけの存在”ではなかった。
次は――
世界が、
彼らに答えを求める番だ。
動きは、ほぼ同時だった。
英雄は、出動準備を整えた。
蒼衡《そうこう/アズール・バランス》は、次の切断基準を再定義し始めた。
世界機関は、連鎖事案を**「最終段階」**として再分類した。
そして――
ノーリトリートにも、正式な通達が届く。
現在進行中の事案は
局地対応では収束不能と判断
当該パーティ《非裁定》は
想定上、唯一の“未使用要素”として
観測対象に指定される
「……とうとう、
そう来たか」
リュカが、
乾いた声で言う。
「“守ってほしい”とも
“戦ってほしい”とも
言わない」
「ただ、
外にいられることを
許さなくなった」
それが、
一番重い圧だった。
⸻
レインは、
通達を静かに閉じる。
怒りはない。
拒絶もない。
ただ、
予測通りだという理解があった。
「……盤面が、
完成に近づいてる」
ミリアは、
その言葉を噛みしめる。
「……でも」
「うん」
視線が、合う。
「まだ、
最後の一手は
置かれていない」
それが、
自分たちだ。
⸻
同じ頃。
高所から街を見下ろし、
ヴァルグリム=ゼインは
はっきりと焦りを自覚していた。
「……英雄は立った」
「蒼衡は、
剣を抜く準備を終えた」
「世界は、
責任を外に出した」
完璧な流れ。
だが――
肝心なところだけが、
噛み合わない。
「……レイン」
名を呼ぶ。
その名が、
今までより重い。
「お前は、
まだ選ばない」
それが、
計算を狂わせる。
正義は、
追い詰めれば前に出る。
覚悟も、
追い詰めれば固まる。
だが、
選ばない覚悟は――
追い詰めるほど、
形を変える。
⸻
「……だから」
ヴァルグリムは、
次を決めた。
もう、
誰かを傷つけて
引きずり出す段階ではない。
次は――
世界そのものを、
目の前に置く。
「英雄が止められず」
「蒼衡が切れず」
「世界が
『選べ』と
叫ぶ状況」
そこに、
ノーリトリートを立たせる。
「……それでも
選ばないなら」
一拍。
「それはもう、
罪になる」
そうなる前に、
終わらせたい。
それが、
彼の本音だった。
⸻
夜明け前。
ノーリトリートは、
簡単な準備を整える。
武器。
防具。
最低限の物資。
誰も、
気合を入れない。
「……変な感じだな」
ミリアが、
ぽつりと言う。
「戦いに行くのに、
勝つ気がしない」
「負ける気もない」
エルドが、
静かに補足する。
「ただ、
引き受ける気があるだけ」
それが、
ノーリトリートだ。
⸻
レインは、
最後に言う。
「……僕たちは」
一拍。
「正義にならない」
「世界の代わりに
選ばない」
「でも」
視線を上げる。
「後悔から
逃げない」
誰も、
否定しなかった。
それで十分だ。
⸻
遠くで、
盤面が、
静かに音を立てて揃っていく。
英雄。
蒼衡。
世界。
ヴァルグリム。
そして――
最後の空白。
そこに、
《非裁定》が
立つ。
選ばないまま。
⸻
次に起きるのは、
誰かが勝つ話ではない。
誰が、
後悔を引き受け続けられるか。
それだけが、
問われる。




