選ばれなかった者が、狙われる
――それは、正義でも盤面でもない。
⸻
夜だった。
街は、まだ完全には眠っていない。
復旧の灯りが、ところどころに残っている。
「……一人で出るの、久しぶりだな」
ミリアは、外套のフードを深く被った。
任務ではない。
警戒でもない。
ただ、
様子を見に行くだけ。
ノーリトリートとして、
介入する理由はない。
だからこそ、
誰も止めなかった。
⸻
通りは静かだった。
人はいる。
だが、
会話が少ない。
英雄が守った街。
蒼衡《そうこう/アズール・バランス》が
前に出た場所。
それでも、
空気は戻っていない。
「……怖い、って感じじゃない」
小さく呟く。
「どうしていいか、
分からない感じ」
それが、
今の世界だった。
⸻
足音が、一つ。
ミリアは、
反射的に振り向く。
誰もいない。
「……気のせい、か」
そう思った瞬間――
空気が、沈んだ。
戦域ではない。
結界でもない。
ただ、
“逃げるという選択肢”が
消えた感覚。
「……っ」
ミリアは、
即座に武器に手をかける。
遅い。
背後から、
音がしなかった。
⸻
「……ああ」
低い声が、
すぐ耳元で響く。
「やはり、
一人だったか」
次の瞬間、
世界が裏返る。
地面が、
“上”になる。
「――っ!!」
身体が、
路地の壁に叩きつけられる。
防御が、
間に合わない。
魔力が、
組み上がらない。
奇襲だった。
⸻
ミリアは、
歯を食いしばる。
痛みは、ある。
だが、
それよりも――
「……あなた」
視界の端に、
黒衣。
「ヴァルグリム=ゼイン……!」
彼は、
剣を持っていない。
構えもない。
ただ、
“そこにいる”。
「安心しろ」
淡々とした声。
「殺しはしない」
その言葉が、
逆に恐ろしかった。
⸻
次の一撃は、
見えた。
だが、
避けられない。
空間そのものが、
ミリアの動線を否定する。
骨が、
悲鳴を上げる。
「――ぐっ……!」
地面に、
叩き伏せられる。
息が、
できない。
視界が、
滲む。
⸻
「……君は」
ヴァルグリムは、
しゃがみ込む。
「正義ではない」
「英雄でもない」
「盤面を、
動かす役でもない」
一拍。
「だからこそ、
一番厄介だ」
ミリアは、
震える指で地面を掴む。
「……レインは」
声が、
かすれる。
その名を出した瞬間、
ヴァルグリムの目が、
わずかに細くなった。
「……やはり、そうか」
⸻
彼は、
ゆっくりと立ち上がる。
「安心しろ」
二度目。
「これは、
彼への合図だ」
ミリアの胸元に、
重い衝撃。
何かが、
“折れた”感覚。
音は、
遅れて来た。
⸻
遠くで。
何かが、
確実に壊れた。
それが、
世界なのか。
それとも――
レインの中なのか。
ミリアは、
意識が落ちる直前、
思った。
「……ああ」
「……やっと、
引っ張り出された」
⸻
闇が、
降りる。
到着は、早かった。
だが――
間に合わなかった。
「……ミリア!」
レインの声は、
自分でも分かるほど荒れていた。
路地の奥。
倒れ伏す身体。
血の匂い。
歪んだ空気。
解析が、遅れる。
「……っ」
《模写理解》が、
反射的に走る。
骨格損傷。
内臓への衝撃。
魔力循環の断裂。
情報が多すぎて、
整理が追いつかない。
「……くそ」
言葉が、
漏れた。
それ自体が、
異常だった。
⸻
ミリアは、生きている。
それは、
一瞬で分かった。
だが――
“無事”ではない。
「……レイン」
かすれた声。
それだけで、
胸の奥が軋んだ。
「喋るな」
強すぎる語気。
すぐに気づく。
命令口調だ。
ノーリトリートのレインが、
誰かに命令している。
⸻
手が、震えていた。
治癒魔法を組み上げる。
防御結界を重ねる。
だが、
完璧じゃない。
「……解析、
追いつけ……!」
《模写理解》が、
一瞬だけ“途切れる”。
理解者が、
理解に失敗する。
それが、
何より恐ろしかった。
⸻
エルドとリュカが、
遅れて駆けつける。
「……重症だ」
エルドの声が、
低く沈む。
「命は、
保っている」
「……後遺症は?」
一瞬の沈黙。
「……否定できない」
その言葉で、
世界が少し遠くなった。
⸻
レインは、
唇を噛みしめる。
怒りではない。
悲しみでもない。
混乱だ。
世界を理解してきた。
構造を見てきた。
盤面を読んできた。
それでも――
目の前の一人を、
守れなかった。
⸻
「……ヴァルグリム」
名を呼ぶ。
声が、低く落ち着く。
だが、
その落ち着きは
無理やり作ったものだ。
「……彼は」
リュカが、
慎重に言葉を選ぶ。
「最初から、
ミリアだけを狙っていた」
奇襲。
単独。
非戦闘時。
すべて、
ノーリトリートの“外”を
突いた手口。
「……盤面、か」
レインは、
そう呟いた。
ヴァルグリム=ゼインは、
英雄も、蒼衡《そうこう/アズール・バランス》も
正面から相手にした。
それでも、
撤退した。
だが――
ミリアには、
迷いなく踏み込んだ。
⸻
理解が、
一つに収束する。
「……僕を、
引きずり出すためだ」
ミリアを傷つけた理由。
殺さなかった理由。
全てが、
そこに繋がる。
「……レイン」
エルドが、
静かに言う。
「今は、
感情で動くな」
「分かってる」
即答。
だが、
拳は握られている。
⸻
ミリアが、
かすかに目を開ける。
「……ごめん」
その一言で、
何かが切れた。
「謝るな」
レインは、
即座に言った。
声が、震える。
「……君は、
何も間違ってない」
それは、
世界に向けた言葉でもあった。
⸻
遠くで。
ヴァルグリム=ゼインは、
その反応を“感じ取って”いた。
「……いい」
低い声。
「ようやく、
触れた」
盤面は、
確かに揃い始めている。
だが――
まだ、完全ではない。
「……だが」
一拍。
「決意には、
なっていない」
それが、
彼の焦りだった。
⸻
レインは、
ミリアの傍で立ち上がる。
まだ、
世界を壊さない。
まだ、
正義にならない。
だが――
立たない理由は、
確実に削れた。
「……次は」
低い声。
「逃がさない」
それは、
宣戦ではない。
決意の芽だった。
治療室は、静かだった。
魔導灯の光が、
ミリアの顔を淡く照らしている。
呼吸は、安定している。
脈も、落ち着いている。
だが――
完治とは言えない。
「……峠は、越えました」
治療師の言葉は、
慎重だった。
「ただし……」
その先を、
レインは黙って待つ。
「神経系への損傷が、
完全には回復しない
可能性があります」
言葉は、柔らかい。
内容は、鋭い。
“後遺症”。
それは、
治ったあとも残る現実だ。
⸻
ミリアは、
まだ眠っている。
何も知らない。
それが、
救いなのかどうかは分からない。
「……ありがとう」
レインは、
頭を下げた。
その動作が、
少し遅れていた。
⸻
知らせは、
すぐに広がった。
英雄は、
最初に反応した。
「……ノーリトリートが、
狙われた?」
ヴァルハルト=レオンは、
言葉を失う。
戦場で斬り合う相手ではない。
だが、
盤面を動かしてきた存在。
そこに、
明確な攻撃が向いた。
「……それは」
イリスが、
静かに言う。
「もう、
“巻き込まれた”じゃない」
⸻
蒼衡《そうこう/アズール・バランス》も、
すぐに事態を理解した。
「……一線を越えたな」
セイン=ヴァルクスは、
短くそう言った。
「民衆への被害。
英雄との衝突。
そして――」
一拍。
「ノーリトリートへの直接攻撃」
それは、
盤面の完成を急いでいる証拠。
ヴァルグリム=ゼインが、
焦っている。
⸻
世界機関は、
初めて“名指し”をした。
現在発生している連鎖事案について
《非裁定》は
明確な攻撃対象となっている
当該パーティの安全確保を
優先事項とする
それは、
保護の名目だった。
だが――
同時に、期待でもある。
「……守られる側に
なったか」
レインは、
文書を見つめる。
ノーリトリートは、
前線に立たない。
だが、
前線そのものになりつつある。
⸻
ミリアが、
小さく身じろぎした。
「……レイン?」
目が、開く。
意識が戻った。
「……ここ、どこ?」
「治療室だ」
声は、
落ち着いている。
無理をしている。
「……やっぱり、
やられた?」
「……ああ」
短い肯定。
ミリアは、
少しだけ笑った。
「……ごめん」
また、その言葉。
「言うな」
今度は、
少しだけ柔らかく。
「……生きてる」
それだけで、
十分だった。
⸻
ミリアは、
天井を見つめる。
「……ねえ」
「?」
「私、
もう一人で
出ない方がいい?」
その問いは、
痛かった。
レインは、
一瞬だけ黙る。
「……状況次第だ」
逃げではない。
正直な答えだ。
ミリアは、
それで納得した。
「……そっか」
⸻
夜。
レインは、
一人で地図を広げる。
盤面は、
確かに揃い始めている。
英雄。
蒼衡。
世界。
そして――
ノーリトリート。
「……それでも」
静かに、言う。
「世界の代わりには、
選ばない」
それは、
思想ではなく、
覚悟になり始めていた。
ただし。
「……次は」
一拍。
「守る準備は、
する」
それは、
これまでなかった一歩。
立たない。
だが、
無防備ではいない。
⸻
遠くで。
ヴァルグリム=ゼインは、
報告を聞いていた。
「……生きているか」
一瞬だけ、
目を閉じる。
「……良かった」
その感情を、
自分でも理解できずにいた。
だが、
次の言葉は冷たい。
「……だが」
一拍。
「まだ、
揃っていない」
ノーリトリートは、
前に出ていない。
レインは、
選んでいない。
「……もう一段、
必要だな」
焦りは、
はっきりしている。
次は、
さらに踏み込む。
⸻
夜は、
静かに更けていく。
だが――
前夜は、終わっていない。
選ばないという選択が、
いつまで許されるのか。
それを決めるのは、
もうレインだけではなかった。




