均衡は、血を見てなお迷う
異変は、即座に「被害」として観測された。
「……死者、出ました」
世界機関の報告官が、
声を抑えきれずに告げる。
数ではない。
規模でもない。
“出た”という事実が、
全てを変えた。
⸻
現地は、蒼衡《そうこう/アズール・バランス》が
最優先で投入された。
英雄は、後方待機。
それが、
世界の選択だった。
「……越えたな」
セイン=ヴァルクスは、
街の中心を見据えて言う。
建物は半壊。
地形は歪み。
そして――
覆いきれない血の痕。
今までのヴァルグリム=ゼインは、
“殺さない”ことで
盤面を組んできた。
だが、今回は違う。
「……明確だ」
ガラン=ディオルが、
剣を抜く。
「これは、
切断対象だ」
誰も反論しなかった。
⸻
空間が、歪む。
次の瞬間、
街路の中央に
ヴァルグリム=ゼインが立っていた。
「……来たか」
声は、静か。
だが、
今までと決定的に違う点がある。
躊躇がない。
「蒼衡《そうこう/アズール・バランス》」
名を呼ぶ。
「今回は、
ちゃんと前に出てきたな」
「黙れ」
ガランが、即座に踏み込む。
《断定斬(だんていざん/デシジョン・スラッシュ)》。
危険と断定した存在を、
未来ごと切り捨てる一撃。
――だが。
当たらない。
否。
当たっているのに、
“切れていない”。
「……っ!?」
ガランが、
目を見開く。
剣は、
確かにヴァルグリムを捉えている。
それでも、
未来が分断されない。
⸻
「……なるほど」
ヴァルグリムは、
わずかに息を吐いた。
「均衡が、
自分を否定できない」
それは、
蒼衡にとって
最悪の言葉だった。
⸻
セインが、
《均衡再裁定(きんこうさいさいてい/バランス・ジャッジ)》を展開する。
未来が、
次々と崩れる。
切る未来――
被害、拡大。
切らない未来――
被害、連鎖。
全力で当たる未来――
都市機能、壊死。
「……っ」
歯を噛みしめる。
「どれも、
最適解にならない」
⸻
ヴァルグリムは、
一歩だけ後ろに下がった。
「……見えるぞ」
低い声。
「英雄は疲れ、
世界は怯え、
蒼衡は――迷っている」
その視線が、
さらに外側を見る。
英雄でもない。
裁定者でもない。
「……だが」
声に、
初めて焦りが混じる。
「一つだけ、
まだ揃っていない」
蒼衡の誰もが、
本能的に理解した。
この男が見ているのは――
《非裁定》。
⸻
「……惜しいな」
ヴァルグリムは、
はっきりと言った。
「盤面は、
ほぼ揃った」
一拍。
「だが、
“選ばない者”が
まだ動いていない」
それは、
独り言ではなかった。
苛立ちだった。
⸻
《終幕指定》。
空間が、
強引に畳まれる。
ヴァルグリム=ゼインは、
蒼衡の剣を真正面から受け止めたまま、
後退する。
「……次は」
消え際、
確かに言った。
「待たない」
⸻
残された街で、
蒼衡は立ち尽くした。
切れなかった。
だが、
切らなかったわけでもない。
「……セイン」
ガランが、
低く言う。
「今の、
俺たち……」
セインは、
答えなかった。
答えが、
存在しないからだ。
⸻
遠く。
ノーリトリートは、
この戦闘を“見ていない”。
だが――
確実に、
次の盤面に含まれている。
それだけは、
誰の目にも明らかだった。
――均衡は、結果を否定できない。
⸻
戦域が消えたあと、
街は“現実”に戻った。
建物は壊れている。
血は乾ききっていない。
そして――
死者が、確かに存在した。
「……これ以上、
記録を曖昧にできないな」
セイン=ヴァルクスは、
低く言った。
蒼衡《そうこう/アズール・バランス》は、
“切ることで被害を止める存在”だ。
だが今回は、
切ろうとして、切れず、
それでも被害は出た。
最悪の組み合わせだった。
⸻
「……俺の斬撃は、
届いてた」
ガラン=ディオルが、
剣を見つめる。
「だが、
未来が切れなかった」
《断定斬(だんていざん/デシジョン・スラッシュ)》は、
“危険”と断定された存在を
不可逆に排除する技だ。
それが、
成立しなかった。
「……断定が、
成立してない」
リィネ=フォルテが、
静かに言う。
「彼は“危険”だけど、
“不要”じゃない」
その言葉は、
蒼衡にとって致命的だった。
⸻
「……そんな分類、
今までなかった」
ユール=セティアが、
息を吐く。
「危険=切断対象。
それが、
俺たちの前提だ」
「前提が、
壊れ始めている」
セインは、
淡々と認めた。
《均衡再裁定(きんこうさいさいてい/バランス・ジャッジ)》を
再起動する。
未来が、
いくつも並ぶ。
だが、
どれも同じ結末に近い。
「……被害は、
必ず出る」
切っても、
切らなくても。
英雄を呼んでも、
世界機関が前に出ても。
“盤面そのもの”が、
被害を前提に組まれている。
⸻
「……あいつ」
ガランが、
歯を噛みしめる。
「完全に、
俺たちを織り込んでる」
「そうだ」
セインは、
頷く。
「蒼衡が“切る”と決める瞬間を、
計算に入れている」
それは、
蒼衡が存在する限り、
必ず起きる行為だ。
つまり――
蒼衡そのものが、
盤面の一部になっている。
⸻
沈黙。
誰も、
すぐには口を開かなかった。
やがて、
リィネが言う。
「……ノーリトリート」
その名が出ても、
今回は誰も止めなかった。
「彼らは、
切らない」
「選ばない」
「それでも、
盤面を歪ませている」
蒼衡には、
できない在り方。
⸻
「……頼る?」
ユールが、
冗談ではなく聞く。
セインは、
ゆっくり首を振った。
「頼った瞬間、
我々は“均衡”を失う」
それは、
ノーリトリートが
拒否している役割と同じだ。
選ばせる側が、
選ばない存在に
判断を預ける。
それは、
逃避だ。
⸻
「……じゃあ」
ガランが、
低く言う。
「俺たちは、
どうすりゃいい?」
セインは、
すぐには答えなかった。
そして、
初めてこう言った。
「……分からない」
蒼衡のリーダーが、
明確に“不明”を口にする。
それ自体が、
異常だった。
⸻
外では、
街の復旧が始まっている。
だが、
以前とは違う。
誰も、
「守られた」と言わない。
誰も、
「切ってくれてありがとう」と言わない。
ただ、
黙々と片付けている。
「……これが」
セインは、
低く呟く。
「切ったあとに、
残るものか」
⸻
遠くで。
ヴァルグリム=ゼインは、
この様子を“見ていない”。
だが、
完全に理解している。
蒼衡は、
もう以前のように剣を振れない。
振れば、
自分が盤面を完成させてしまう。
⸻
そして、
彼は焦り始めていた。
英雄は、揃った。
世界は、揃った。
蒼衡も、揃った。
だが――
「……あと一つだ」
低い声。
「選ばない者が、
まだ動かない」
それが、
初めての誤算。
ヴァルグリム=ゼインは、
街の外れに立っていた。
戦域は、もうない。
蒼衡《そうこう/アズール・バランス》の気配も、
英雄の剣圧も、消えている。
それでも――
盤面は、まだ動いている。
「……死者を出した」
事実を、
淡々と口にする。
これは、
今までの自分の流儀ではない。
恐怖でも、
覚悟でもなく、
明確な“越線”。
正義を、
無理やり前に出すための一手だった。
「英雄は、前に出た」
「蒼衡は、
剣を振るった」
そこまでは、
想定通りだ。
むしろ、
完璧に近い。
⸻
だが。
「……揃わないな」
低い声。
ヴァルグリムは、
遠くの街を見下ろす。
英雄は、
守れなかった後悔を抱えた。
蒼衡は、
切れなかった事実を抱えた。
世界は、
判断した責任を抱えた。
全員が、
盤面の上に立っている。
それなのに。
「……一人だけ、
まだ外だ」
⸻
脳裏に浮かぶのは、
《非裁定》。
選ばない。
引き受けない。
だが、見続ける。
自分が盤面を狭め、
選択肢を削り、
正義を前に出すほど――
彼らは、
より“動かなくなる”。
「……おかしい」
ヴァルグリムは、
初めてそう呟いた。
敵は、
追い詰めれば前に出る。
正義も、
追い詰めれば刃になる。
だが――
選ばない者は、
追い詰めるほど
“立たない理由”を強める。
⸻
「……だからか」
小さく、息を吐く。
「だから、
計画が遅れる」
自分は、
正義が壊れないための
悪役だ。
倒されるために存在する。
だが、
倒される条件が、
揃わない。
これは――
役割の停滞。
⸻
彼は、
はっきりと自覚する。
「……焦っているな、俺は」
今まで、
一度もなかった感情。
盤面は、
ほぼ完成している。
英雄。
蒼衡。
世界。
全て、
自分が想定した通りに
摩耗し、追い詰められている。
「……なのに」
一拍。
「最後の一手だけが、
置かれない」
⸻
その理由も、
分かっている。
ノーリトリートは、
盤面の“外”に立っているからだ。
彼らは、
勝ちにも負けにも
参加しない。
だから、
完成条件にならない。
だが。
「……それでは、
終われない」
ヴァルグリムは、
初めて結論を変えた。
これまでは、
正義を前に出すために
被害を出してきた。
次は違う。
⸻
「……盤面を、
完成させに行く」
低い声。
それは、
宣戦布告ではない。
工程の変更だ。
「選ばない者を、
“選ばせる状況”に
追い込む」
英雄でもない。
蒼衡でもない。
世界そのものを、
彼らの前に差し出す。
⸻
遠くで、
復旧作業の灯りが揺れている。
人は、まだ生きている。
それを見て、
ヴァルグリムは
ほんの一瞬だけ目を細めた。
「……すまない、とは言わない」
自分は、
そういう役だ。
「だが――」
一拍。
「次は、
立たない理由を
壊す」
⸻
その瞬間。
風向きが、変わった。
まだ何も起きていない。
だが、
次の被害は、
今までとは質が違う。
英雄が止められず、
蒼衡が切れず、
世界が判断を放棄できない。
そして――
ノーリトリートだけが、
逃げ場を失う。
⸻
ヴァルグリム=ゼインは、
闇の中へと歩き出す。
焦りを、
はっきり抱えたまま。
「……ようやくだ」
低い声。
「これで、
盤面が“揃いに行く”」
⸻
その頃。
まだ何も知らない
《非裁定》は、
静かな夜を迎えていた。
だが――
次は、
彼らの番だ。




