選ばない者の、限界点
――まだ立たない。それでも、見えてしまう。
⸻
夜だった。
街の灯りは戻っている。
人も、歩いている。
だが――
音が、少なかった。
「……静かだね」
ミリアが、窓の外を見る。
「復興直後って、
もっと騒がしいはずなのに」
レインは、地図から目を離さない。
「人が動いてないからだ」
「……また?」
「違う」
ペン先が、止まる。
「今回は、
“動かなくていい”と
思っている」
それが、
一番まずい。
⸻
地図には、
幾つもの印が打たれていた。
不可逆事案。
戦域発生地点。
英雄出動記録。
全てが、
一つの円を描き始めている。
「……寄せてる」
リュカが、低く言う。
「ヴァルグリム=ゼインは、
盤面を“狭めてる”」
エルドが、
静かに頷く。
「選択肢を、
減らしている」
それは、
ノーリトリートが
最も嫌うやり方だった。
⸻
「……ねえ、レイン」
ミリアが、
少しだけ躊躇ってから言う。
「もしさ」
言葉を選ぶ。
「次に、
あの人が来た時」
一拍。
「私たちが立たなかったら」
部屋が、
一瞬静まった。
レインは、
すぐには答えなかった。
答えは、
もう見えている。
「……壊れる」
小さな声。
「英雄が、
蒼衡が、
世界が」
誰かが悪いわけじゃない。
それでも、
壊れる。
⸻
「それでも、
立たないって言える?」
ミリアは、
責めていなかった。
ただ、
確認している。
レインは、
ゆっくり息を吐いた。
「……立てば」
一拍。
「僕たちが、
“選ぶ側”になる」
それは、
世界の代わりに決めること。
最適解を置くこと。
後悔を、
世界から奪うこと。
それだけは、
したくなかった。
⸻
その瞬間。
レインの視界が、
一瞬だけ歪んだ。
「……っ」
「レイン?」
「大丈夫」
だが、
見えてしまった。
次の盤面。
英雄が、
守りきれない未来。
蒼衡が、
切れずに崩れる未来。
世界が、
“誰かに選ばせようとする”未来。
そして。
自分たちの名が、
その中央に置かれる光景。
⸻
「……来る」
レインは、
確信を持って言った。
「次は、
“立つ理由”が
用意される」
ミリアが、
拳を握る。
「……拒否できる?」
「分からない」
それが、
初めての答えだった。
⸻
遠くで。
ヴァルグリム=ゼインは、
同じ夜空を見ていた。
「……いい」
低い声。
「ちゃんと、
追い詰められている」
英雄も、
蒼衡も。
そして――
ノーリトリートも。
「次は」
一拍。
「選ばないことが、
罪になる」
それが、
彼の用意した“次の盤面”だった。
⸻
夜は、
まだ終わらない。
だが、
前夜は、
もう始まっている。
均衡が、守れなくなる言葉
――切れない敵は、最初から想定されていなかった。
⸻
蒼衡《そうこう/アズール・バランス》の臨時会合は、
記録を残さない形で行われた。
理由は単純だ。
残せる結論が、
まだ存在しなかった。
「……では」
セイン=ヴァルクスが、
口を開く。
「現状確認から入る」
誰も異論を出さない。
異論を出すほど、
余裕がない。
⸻
「対象:ヴァルグリム=ゼイン」
名を出した瞬間、
場の空気が硬直する。
「英雄が正面衝突し、
致命打は与えられず」
「蒼衡は、
切断判断に至らず」
「被害は、
“想定内”だが――」
リィネ=フォルテが、
言葉を止めた。
「……“収束していない”」
それが、
最も不自然だった。
⸻
「切れなかった理由を、
整理する」
セインの声は、
冷静を装っている。
「第一」
指を一本立てる。
「切った瞬間、
世界が“勝った”と誤認する」
ガラン=ディオルが、
低く唸る。
「……それ、
最悪だな」
「第二」
「被害最小が、
比較不能になる」
未来分岐が、
すでに削られている。
切る=最適解、
という前提が成立しない。
「第三」
一拍。
「切ることで、
次の盤面が
より苛烈になる」
均衡を守るための行為が、
均衡を壊す。
それは、
蒼衡の存在理由そのものを
否定していた。
⸻
「……結論は?」
ユール=セティアが、
静かに問う。
セインは、
少しだけ目を閉じてから言った。
「現時点では、
ヴァルグリム=ゼインは
切断不能対象」
はっきりとした断言。
蒼衡が、
自分たちの剣を
引っ込める宣言だった。
⸻
「じゃあ、
どうする?」
ガランが、
率直に聞く。
「切れないなら、
見てるだけか?」
「……それも違う」
セインは、
首を振る。
「我々は、
均衡を守る存在だ」
「だが」
一拍。
「均衡が、
“選択そのもの”に
負荷をかけ始めている」
それは、
今まで想定されていなかった事態。
切る・切らない、
その二択ではない。
“切る側が存在すること”自体が、
盤面を歪めている。
⸻
沈黙。
リィネが、
小さく口を開いた。
「……ノーリトリート」
その名が出た瞬間、
誰も否定しなかった。
「彼らは、
切らない」
「選ばない」
「……それでも、
盤面を動かしている」
それは、
蒼衡にはできないやり方だった。
⸻
「……頼るか?」
ガランが、
冗談めかして言う。
だが、
笑いは起きない。
セインは、
ゆっくり首を振った。
「頼った瞬間、
我々は均衡を放棄する」
それは、
ノーリトリートが
拒否した役割と同じだ。
選ばせる側が、
選ばない存在に
責任を渡す。
それは、
最悪の逃避だった。
⸻
「……限界、か」
ユールが、
静かに呟く。
「違う」
セインは、
否定する。
「役割の限界だ」
蒼衡は、
間違っていない。
だが、
全てを覆う前提が
変わり始めている。
⸻
会合の終わり。
誰も、
すぐに立ち上がらなかった。
「……なあ」
ガランが、
最後に言う。
「もし、
均衡が壊れるとしたら」
一拍。
「俺たちは、
剣を振るえると思うか?」
セインは、
すぐに答えなかった。
その沈黙が、
答えだった。
⸻
遠くで。
ノーリトリートは、
まだ動かない。
だが、
蒼衡は理解した。
自分たちは、
もう“最後の判断者”ではない。
それが、
何より重い事実だった。
――役割は、永遠ではない。
⸻
高い場所だった。
街も、人も、
英雄も蒼衡《そうこう/アズール・バランス》も、
すべてが遠い。
ヴァルグリム=ゼインは、
風の中に立っていた。
「……静かだな」
破壊の後に訪れる静けさではない。
判断が止まった後の沈黙だ。
彼は、それをよく知っている。
⸻
これまで、
何度も同じ仕事をしてきた。
被害を出す。
正義を前に出させる。
覚悟を強制する。
英雄が剣を振るい、
裁定者が線を引き、
世界が「守った」と思える瞬間。
その時、
彼は退く。
必ず、退いてきた。
⸻
「……だが」
今回は、違った。
英雄は、迷った。
蒼衡は、止まった。
世界は、決めきれなかった。
正義が、
一つに収束していない。
「……これは」
低く、呟く。
「役割不全だ」
悪役は、
正義があってこそ成立する。
だが、
正義が分裂し、
責任が分散し、
“選ばない存在”が現れた。
それは――
想定外だった。
⸻
彼は、手を見つめる。
この手で、
どれだけの盤面を作ってきたか。
民衆を傷つけ、
街を歪め、
恐怖ではなく
「覚悟」を引き出してきた。
それが、
彼の存在理由だった。
「……お前たちは」
脳裏に浮かぶのは、
《非裁定》。
選ばない。
引き受けない。
だが、見続ける。
「……一番、
やりにくい」
怒りはない。
憎しみもない。
ただ、
計算が狂う。
⸻
ヴァルグリムは、
小さく息を吐いた。
「……俺は、
倒される役だ」
それは、
揺るがない。
英雄に倒される。
裁定によって切られる。
それで、
世界は一区切りつく。
だが――
今は違う。
「倒されても、
終わらない」
その未来が、
見え始めていた。
⸻
彼は、理解する。
盤面を揃えすぎた。
英雄を疲弊させ、
蒼衡を縛り、
世界を慎重にさせた。
その結果、
“選ばない者”が
最後まで立ち続けている。
「……皮肉だな」
自分が作ったはずの盤面で、
自分の役割が揺らぐ。
⸻
遠く。
夜の街に、
小さな灯りが点る。
人が、
まだ生きている証。
それを見て、
ヴァルグリムは初めて
ほんのわずかに表情を歪めた。
「……次は」
一拍。
「もっと、
はっきり壊す必要がある」
曖昧な被害では足りない。
迷いを生む破壊では、
役割が果たせない。
正義を、
無理やり前に出す。
英雄が、
退けなくなる。
蒼衡が、
切らざるを得なくなる。
世界が、
“誰かに選ばせようとする”。
⸻
「……そして」
低い声。
「それでも立たないなら」
視線が、
さらに外側へ向く。
英雄でもない。
蒼衡でもない。
最後まで立たない存在。
「……お前たちの番だ」
それは、
宣戦布告ではない。
工程の次だ。
⸻
ヴァルグリム=ゼインは、
その場を離れる。
迷いはある。
だが、後悔はない。
役割は、
まだ終わっていない。
終わらせられない存在が、
まだ残っているからだ。
⸻
夜は、
さらに深くなる。
前夜は、
もう引き返せない。
次に来るのは――
選ばないことが、
罪になる瞬間。




