偽の戦闘?
英雄は、守るために剣を抜く
――その剣は、まだ届かない。
⸻
最初に崩れたのは、防壁だった。
魔力障壁でも、結界でもない。
街を囲む「安全であるという前提」が、音もなく破られた。
「――避難を急げ!!」
ヴァルハルト=レオンの怒号が、街に響く。
遅い。
判断が、半拍遅れている。
空が、沈んだ。
雲ではない。
影だ。
圧縮された空間そのものが、街の上に覆いかぶさる。
「……っ!」
英雄でなければ、膝をついていた。
民衆は、即座に倒れ伏す。
息ができない。
音が歪む。
距離感が壊れる。
――《戦域掌握》。
だが、これまでと違う。
「……街ごと、だと?」
イリス=アークライトが、歯を噛みしめる。
範囲が、異常だった。
建物、通り、広場、避難路。
すべてが“戦場として最適化”されている。
逃げ場がない。
隠れ場もない。
戦う者だけでなく、
戦わない者すら“戦場の一部”に組み込まれている。
「……最悪だ」
ノイン=フェルツが、低く呟く。
「これは……
“守りながら戦えない”」
それが、この戦域の本質だった。
⸻
現れたのは、一人。
黒衣の男。
ヴァルグリム=ゼイン。
ゆっくりと、空間を踏みしめるように歩く。
殺気は、薄い。
だが、存在そのものが重い。
「……来たか」
ヴァルハルトは、剣を構える。
迷いはない。
今この瞬間、この男を止めなければ――
「やめろ!」
英雄の叫びは、民衆に向けられた。
「伏せろ! 動くな!!」
だが、動けない。
戦域は、
“動かない者”ほど圧迫する。
選択肢を、奪っている。
⸻
ヴァルグリムは、手を上げた。
それだけ。
次の瞬間、広場が沈んだ。
爆発ではない。
崩壊でもない。
空間が、押し下げられた。
「……っ!!」
地面が、凹む。
建物が、軋む。
民衆が、悲鳴を上げる。
死者は出ない。
だが、全員が“壊れた感覚”を覚える。
体ではない。
判断だ。
どこへ逃げればいいか、分からない。
「――ヴァルグリム!!」
ヴァルハルトが、踏み込む。
英雄の一撃。
全力。
剣が、届いた。
確かな手応え。
空間が、裂ける。
英雄の力は、本物だった。
だが。
ヴァルグリムは、後退しない。
剣を受け止めながら、
静かに言った。
「……守るな」
「……何?」
「守ろうとするから、
間に合わない」
次の瞬間。
英雄の背後、
避難路だったはずの通りが、沈む。
「っ!!」
イリスが叫ぶ。
「避難経路が……!」
崩れたわけではない。
**“選ばれなくなった”**だけだ。
誰も、そこを通れない。
頭が、拒否する。
⸻
ヴァルグリムは、視線を上げた。
街全体を、見渡す。
「……これでいい」
低い声。
「恐怖でも、絶望でもない」
一拍。
「正義が、
動かざるを得ない盤面だ」
英雄は、歯を噛みしめる。
この男は、
民衆を“盾”にしているわけじゃない。
民衆そのものを、
盤面に組み込んでいる。
だから、
英雄は全力を出せない。
蒼衡《そうこう/アズール・バランス》が
切れない理由も、明確だった。
切れば、
被害が跳ね上がる。
⸻
ヴァルグリムは、一歩下がる。
戦域は、まだ維持されている。
「……覚えておけ」
英雄に向けて、ではない。
この世界に向けて。
「盤面は、
揃い始めている」
英雄が、叫ぶ。
「待て!
次は――」
ヴァルグリムは、
わずかに口角を上げた。
「……次は、
まだ先だ」
《終幕指定》。
戦域が、ほどける。
圧が消え、
民衆が膝をつく。
生きている。
だが、
街は“元に戻らない”。
⸻
ヴァルハルトは、
剣を下ろしたまま、動けなかった。
勝てたかもしれない。
だが、
勝ってはいけなかった。
それが、
最も残酷な結果だった。
遠くで、
ノーリトリートが、この光景を見ていた。
まだ、立たない。
だが――
立たされる未来が、
はっきり見え始めていた。
切ることが、最悪になる瞬間
――均衡は、判断を拒否する。
⸻
蒼衡《そうこう/アズール・バランス》は、
戦域解除から数分遅れて現地に入った。
「……酷いな」
ガラン=ディオルが、
崩れた地面を見下ろす。
建物は倒れていない。
死者も、報告上は最小限だ。
だが、
街は“機能”を失っていた。
「避難路が、概念ごと潰されている」
リィネ=フォルテが、
空間残滓を解析する。
「破壊じゃない。
未来分岐が……削られてる」
《未来収束(みらいしゅうそく/フューチャー・ロック)》を
専門とする彼女だからこそ、分かる。
ここでは、
“行けたはずの未来”が
存在しなかったことにされている。
⸻
「……対象は?」
ユール=セティアが、
警戒を解かずに問う。
「ヴァルグリム=ゼイン」
セイン=ヴァルクスは、
即答した。
名を出した瞬間、
全員の空気が変わる。
「英雄が、
正面から当たった相手だ」
「……それで、この程度?」
ガランが、眉をひそめる。
“この程度”。
それが、
蒼衡の恐怖だった。
全力の英雄が出て、
なお街がこの状態。
つまり――
全力でも、止められていない。
⸻
セインは、
《均衡再裁定(きんこうさいさいてい/バランス・ジャッジ)》を起動する。
未来予測が、展開される。
一つ。
英雄と蒼衡が同時に全力で当たる未来。
――被害:甚大。
二つ。
蒼衡が即座に“切る”未来。
――被害:壊滅的。
三つ。
英雄を下げ、蒼衡が単独で処理。
――失敗。突破される。
四つ。
何もしない。
――被害:拡大、だが不可逆点は遅れる。
「……」
セインは、
無言で未来を閉じた。
⸻
「切れるか?」
ガランが、
静かに聞く。
《断定斬(だんていざん/デシジョン・スラッシュ)》。
危険因子を
“不要”と断定した瞬間に切り捨てる、
不可逆の一撃。
セインは、
首を振った。
「切れない」
はっきりとした否定だった。
「理由は?」
「切った瞬間、
世界が“勝った”と誤認する」
リィネが、息を呑む。
「それは……」
「そうだ」
セインは続ける。
「正義が、
自分で完結したと
思い込む」
それが起きれば、
次はもっと早く、
もっと大きな“盤面”が来る。
ヴァルグリム=ゼインは、
倒される役だ。
だが――
今、倒してはいけない。
⸻
「……最悪だな」
ガランが、
吐き捨てる。
「敵だって分かってるのに、
切れないなんて」
「敵だからだ」
セインは、
静かに言った。
「役割を持った敵だ」
殺意ではなく、
設計思想で動いている。
暴走でも、
支配でもない。
正義を前に出させるための、
装置。
⸻
ユールが、
遠くを見つめる。
「……あれ」
指差す先。
遠方の丘に、
黒い影が立っていた。
ヴァルグリム=ゼイン。
こちらを見ている。
距離はある。
だが、確実に意識している。
「……行くか?」
ガランが、
剣に手をかける。
セインは、
ゆっくりと首を振った。
「行くな」
「理由は?」
「追えば、
“正義としての蒼衡”が
前に出る」
それは、
彼が最も避けたい未来だった。
⸻
ヴァルグリムは、
小さく手を振った。
嘲笑でも、
挑発でもない。
ただの、確認。
次の瞬間、
影は消えた。
「……逃げたな」
ガランが言う。
「違う」
セインは、
即座に否定した。
「退いた」
役割を果たした者の、
正しい撤退だ。
⸻
蒼衡は、
その場に立ち尽くす。
切れない敵。
切れば、悪化する相手。
それは、
蒼衡の存在意義を
根本から揺さぶる。
「……なあ」
ガランが、
低く言う。
「俺たち、
何のために
剣を振るってる?」
セインは、
すぐに答えなかった。
答えが、
揺らいでいる。
⸻
遠くで。
ノーリトリートは、
この光景を見ていた。
英雄が迷い、
蒼衡が止まり、
世界が判断を失う。
まだ、
彼らは立たない。
だが――
立たされる“条件”が、
また一つ揃った。
街は、生きていた。
瓦礫に埋もれてはいない。
炎にも包まれていない。
だが――
人が、立ち止まっている。
「……動かないな」
世界機関の視察官が、
低く呟いた。
民衆は、指示を待っている。
英雄の言葉を。
世界機関の判断を。
だが、
どちらも来ない。
⸻
「復旧指示は?」
「……未定です」
「避難再開は?」
「……判断待ちです」
誰も怠けていない。
誰も責任を放棄していない。
だが、
誰も“決められない”。
英雄は、守った。
蒼衡《そうこう/アズール・バランス》は、切らなかった。
それでも――
街は元に戻らない。
⸻
会議は、重かった。
「英雄は、全力だった」
「蒼衡も、判断を誤っていない」
「被害は、想定範囲内だ」
正しい言葉が、
積み重なる。
だが、
最後に誰かが言った。
「……では、
なぜ“終わっていない”?」
沈黙。
その問いに、
答えられる者はいなかった。
⸻
その頃。
高所の崩れた塔の上に、
ヴァルグリム=ゼインは立っていた。
街を見下ろす。
破壊は、足りていない。
だが、十分だ。
「……いい反応だ」
低い声。
「英雄は迷い、
蒼衡は止まり、
世界は考え込んだ」
これは、失敗ではない。
段階の完了だ。
⸻
彼は、ゆっくりと手を掲げた。
魔力が集まる。
だが、解放されない。
ただ、
“見せる”だけ。
街の中心に、
もう一度《戦域掌握》の輪郭が浮かぶ。
前より、薄い。
だが――
範囲は、広い。
「……これ以上は」
誰かが、呟く。
ヴァルグリムは、
その声を聞いたわけでもないのに、口を開いた。
「安心しろ」
淡々とした声。
「今日は、ここまでだ」
そして、
はっきりと言う。
「だが次は、
“守れた”では済まない」
その言葉に、
視察官の一人が震えた。
これは、脅しではない。
予告だ。
⸻
「……なぜだ」
誰にともなく、問いが漏れる。
ヴァルグリムは、
初めて“街ではない方向”を見る。
遠く。
さらに遠く。
英雄でもない。
蒼衡でもない。
そのさらに外側。
「理由か?」
一拍。
「盤面が、
揃い始めている」
それだけ。
《終幕指定》が発動する。
空間が、静かに畳まれる。
ヴァルグリム=ゼインは、
何事もなかったかのように消えた。
⸻
その後。
世界機関は、
正式文書を出すことができなかった。
英雄は、
次の出動命令を受け取れなかった。
蒼衡《そうこう/アズール・バランス》は、
「切るべき対象」の欄を空白のままにした。
すべてが、
宙に浮いた。
⸻
その視線は、
自然と一箇所に集まる。
英雄でもない。
裁定者でもない。
だが、
選ばないと宣言した存在。
《非裁定》。
「……あそこは」
誰かが、言いかけて止めた。
頼ってはいけない。
だが、
他に名前が出ない。
⸻
遠くから、
レインはその空気を感じ取っていた。
「……来るな」
小さく呟く。
「まだ、
僕たちは立たない」
ミリアが、
隣で拳を握る。
「……でもさ」
「うん」
「次は、
“見てるだけ”じゃ
済まない気がする」
レインは、否定しなかった。
否定できなかった。
⸻
ヴァルグリム=ゼインは、
最後に一度だけ、空を仰いだ。
「……強いな」
英雄でも、
蒼衡でもない。
「選ばないまま、
ここまで盤面を動かす存在は」
そして、
低く続ける。
「……だからこそ」
一拍。
「次は、
本気で壊しに行く」
それは、
宣戦布告ではない。
役割を、
次の段階に進める合図だった。




