線の外で、世界が歪む
異変は、線の向こうで起きた。
正確には、
《非裁定》が引いた境界から、
意図的に離れた場所。
「……来たか」
レインの声は、低かった。
報告は一つ。
だが、内容は重い。
「都市外縁部にて、
集団的意思停止事案が発生」
世界機関の速報文は、
慎重に言葉を選んでいる。
死者なし。
暴動なし。
破壊なし。
だが。
「……“何もしない”人が、
増えてる」
ミリアが、資料を見つめる。
「拒否もしない。
選ばない。
考えない」
それは、
今までとは逆の形だった。
⸻
現地の映像。
人は立っている。
目も開いている。
呼びかければ、反応もする。
だが――
自分から何も始めない。
「仕事は?」
「行かない」
「理由は?」
「……わからない」
恐怖はない。
絶望もない。
ただ、
“動く理由”が消えている。
「これ、
削減じゃない」
リュカが、はっきり言った。
「圧迫でもない」
「……放棄だ」
レインは、静かに言う。
選ばされ続けた結果、
人が“選ぶこと”そのものを
手放し始めている。
これは、
線の内側では起きない。
なぜなら、
ノーリトリートは
“受け取らない”からだ。
だが――
線の外では、
誰も受け止めていない。
⸻
英雄は、動こうとした。
「行く」
ヴァルハルト=レオンの判断は、
早かった。
「放置すれば、
回復不能になる」
蒼衡《そうこう/アズール・バランス》も、
同様だった。
「切る対象ではないが、
放置は破綻を招く」
世界機関は、
正式に介入準備を始める。
正義が、
三方向から動こうとしている。
だが。
「……それ、
意味あるかな」
ミリアの声は、弱かった。
「切っても、
守っても」
一拍。
「“選ばない状態”は、
戻らない気がする」
誰も、反論できなかった。
⸻
レインは、境界線の地図を見つめる。
自分たちが引いた線。
越えないと決めた線。
「……ここだ」
指が、
歪みの中心を指す。
線の外側。
つまり――
行けば、原則を踏み越える。
「レイン」
ミリアが、名前を呼ぶ。
「行ったら、
私たち……」
「ノーリトリートじゃ、
なくなるかもしれない」
レインは、否定しなかった。
行けば、
受け止めてしまう。
世界の代わりに、
結果を引き受けてしまう。
それは、
最初に拒んだ役割だ。
⸻
沈黙。
そのとき、
リュカが小さく言った。
「……でもさ」
「?」
「行かなかったら、
このまま“壊れる”よ」
壊れる、という言葉が
初めてはっきり出た。
今までは、
戻れないだけだった。
今回は、
終わる。
「……」
レインは、目を閉じた。
古代種の始祖の言葉が、
脳裏をよぎる。
後悔は先に立たない
自分が後悔しない選択をしろ
長く生きた者の言葉。
「……決断、しないんじゃなかった?」
ミリアが、苦笑する。
「しない」
レインは、静かに言った。
「でも」
一拍。
「境界を、
持ち運ぶことはできる」
三人が、息を呑む。
「行く」
だが。
「世界を救いにじゃない」
英雄の代わりでもない。
正義の代行でもない。
「線を、
向こうに置き直す」
それだけ。
⸻
線の外で、
世界が歪んでいる。
行かなければ、壊れる。
行けば、原則が揺らぐ。
それでも。
《非裁定》は、
歩き出した。
壊すためではない。
救うためでもない。
“これ以上は受け取らない”
場所を、
もう一度置くために。
英雄は、現地に到着してから気づいた。
「……何も、ない?」
ヴァルハルト=レオンは、周囲を見回す。
暴動は起きていない。
建物も壊れていない。
敵影もない。
だが、人々は――
まだ、動かない。
「介入対象は?」
イリス=アークライトが確認する。
「……不明」
それが、ありえなかった。
英雄が動く時、
対象は常に明確だ。
敵。
災害。
暴走。
だが、ここには何もない。
「……もう、
切り取られてる?」
ノイン=フェルツが、眉をひそめる。
「いや」
ヴァルハルトは、静かに否定した。
「切る前に、
場が変わっている」
⸻
蒼衡《そうこう/アズール・バランス》も、同様だった。
「……判断不能」
セイン=ヴァルクスは、
解析結果を何度も見返す。
「逸脱はない。
だが、
収束もしていない」
「切る?」
ガラン=ディオルが、
いつもの調子で聞く。
「……切れない」
セインは、首を振る。
「破綻点が、
移動している」
それは、蒼衡にとって
初めての感覚だった。
均衡が崩れたら切る。
だが、均衡そのものが
動いている。
どこを切ればいいのか、
定義できない。
⸻
世界機関は、さらに困惑する。
「再発地点が、
想定と一致しません」
「境界設定が、
不安定です」
「……誰が動かした?」
答えは、
誰も口にしなかった。
だが、
全員が同じ名前を思い浮かべていた。
⸻
一方、
ノーリトリートは
現地の中心に立っていた。
何もしない。
命令しない。
動かさない。
ただ、
“これ以上は受け取らない”
空気を置く。
それだけで、
変化が起きる。
「……あ」
誰かが、小さく声を上げる。
「ここなら……
何もしなくていい?」
否定しない。
肯定もしない。
だが、
**“選ばなくてもいい場所”**が
そこにある。
人は、初めて
肩の力を抜いた。
⸻
ミリアが、
小さく息を吐く。
「……戻ってきてる」
「選択する力、
じゃない」
レインは、訂正する。
「選択しなくていい余裕だ」
それは、
正義では作れない。
命令でも、
救済でもない。
⸻
遠くから、それを見ていた存在がある。
黒衣の男。
今回は、
笑っていなかった。
「……これは」
低い声。
「想定していない」
線は固定されていると思っていた。
境界は、守る側が動かないから
意味を持つ。
だが、
線そのものが移動する。
しかも、
世界を壊さずに。
「……厄介だな」
初めて、
評価が変わった。
ノーリトリートは、
“待つ存在”ではない。
“位置をずらす存在”。
⸻
英雄は、
現地で剣を抜かなかった。
蒼衡は、
切る判断を下せなかった。
世界機関は、
正式処理を保留した。
すべてが、
ノーリトリートの線を
基準に迷っている。
「……これさ」
ミリアが、ぽつりと言う。
「私たち、
世界の邪魔してない?」
「してる」
レインは、即答した。
「でも」
一拍。
「壊す邪魔じゃない」
⸻
正義は、位置を見失った。
敵は、想定を外された。
世界は、
新しい基準を探し始めた。
《非裁定》は、
誰かの上に立っていない。
だが、
誰かが動く前に、
必ず見てしまう存在になった。
壊れたのは、街ではなかった。
建物は立っている。
人も生きている。
火も血もない。
それでも、
一つだけ、元に戻らないものがあった。
⸻
線を持ち運んだ先から、
さらに一つ外側。
そこでは、
ノーリトリートは立っていなかった。
理由は単純だ。
「……届かない」
レインの声は、静かだった。
「これ以上線を動かせば、
世界の側が
完全に判断不能になる」
線を置けば救える。
だが、
線を置き続ければ、
世界は自分で立てなくなる。
それは、
ノーリトリートが
最初に拒否した未来だった。
⸻
そこで起きたのは、
小さな“破断”だった。
人々は、動かなくなった。
拒否もしない。
選ばない。
考えない。
だが、
今回は違う。
“戻ろうともしない”。
「……あ」
ミリアの声が、震える。
「これ……」
言葉が、続かない。
彼らは、苦しんでいない。
助けを求めてもいない。
ただ、
選ぶ力を、完全に手放した。
⸻
英雄は、間に合わなかった。
「……これは」
ヴァルハルト=レオンは、
剣を握ったまま、動けなかった。
敵がいない。
斬る対象がない。
壊れたのは、
“意志”という前提そのもの。
「俺は……
何を守れた?」
答えは、なかった。
⸻
蒼衡《そうこう/アズール・バランス》も、同様だった。
「切れない」
セイン=ヴァルクスは、
苦い表情で言った。
「逸脱でも、
暴走でもない」
だから、
切る理由がない。
だが、
正常とも言えない。
⸻
世界機関は、
最終的にこう記録した。
当該区域において
社会的機能の不可逆的低下を確認
原因:不明
対応:継続観測
“不可逆”という言葉が、
初めて使われた。
⸻
ノーリトリートは、
少し離れた場所から
それを見ていた。
近づかない。
介入しない。
それが、
自分たちで決めた線だった。
「……救えたよね」
ミリアの声は、
はっきりと後悔だった。
「線を置けば、
戻った」
レインは、否定しなかった。
「ああ」
「じゃあ、なんで……」
ミリアは、
最後まで言えなかった。
レインは、
しばらく黙ってから答えた。
「救わなかった」
言い訳はしない。
「受け止めなかった。
選ばなかった」
一拍。
「……それが、
僕たちの在り方だからだ」
それは、
正しさではない。
ただの、
選択の結果だ。
⸻
遠くで、
黒衣の男がそれを見ていた。
今回は、
満足していなかった。
「……なるほど」
低い声。
「これは、
こちらの勝ちでもない」
想定通りに壊れた。
だが、
ノーリトリートは
“代わりに引き受けなかった”。
その結果、
世界に“欠損”が残った。
それは、
彼にとっても想定外だった。
「……重いな」
初めて、
その言葉が漏れた。
⸻
拠点に戻った夜。
誰も、すぐには口を開かなかった。
勝っていない。
負けてもいない。
ただ、
救わなかった事実だけがある。
「……私さ」
ミリアが、静かに言う。
「今日のこと、
一生覚えてると思う」
「僕もだ」
レインは、即答した。
「忘れたら、
同じことを繰り返す」
それが、
《非裁定》の
唯一の誓いだった。
正義にならない。
世界の代わりに選ばない。
だが、
見なかったことにはしない。
⸻
この日を境に、
世界は変わった。
英雄は、
“救えない事象”を知った。
蒼衡は、
“切れない破綻”を知った。
世界機関は、
“記録できない損失”を抱えた。
そして――
《非裁定》は、
救わないことで、
世界を壊さない存在になった。




