元英雄
監査塔の中層。
そこは、最深部ほど閉じていない。
だが市民が立ち入ることは、決してない。
白い廊下。
壁には何もない。
装飾も、紋章も、掲示もない。
――“判断を必要としない場所”。
•
一人の男が、椅子に座っていた。
拘束具はない。
鎖も、檻もない。
だが、立ち上がろうとしない。
いや――
立ち上がる必要がない。
端末が、静かに浮かんでいる。
【待機】
【要請時出動】
それだけ。
男の名は、かつて街中に知られていた。
英雄。
災害の最前線に立ち、
魔獣を討ち、
市民の代わりに選び続けた存在。
今は、名を呼ぶ者はいない。
「……」
男は、視線を落としたまま、微動だにしない。
扉が開く。
外套の女が入ってくる。
均衡安定化支援要員。
「……状況報告です」
男は、顔を上げない。
「街で、
理由に関する
不具合が発生しています」
「……あなたの
過去判断ログと
照合中です」
男の指が、
わずかに動いた。
「……まだ、
使う気か」
声は低く、乾いている。
外套の女は、淡々と答える。
「あなたは、
“理由を持って
成功した事例”です」
「均衡にとって、
貴重な
サンプルです」
男は、短く笑った。
「……サンプルか」
「……俺は、
人だったんだがな」
外套の女は、反応しない。
「あなたの判断は、
結果として
高い成功率を
示しています」
「……ただし」
一拍。
「理由が、
安定していません」
男は、
はっきり顔を上げた。
「……まだ、
それを言うか」
「理由は、
揺れるもんだ」
「状況で、
人で、
変わる」
「……それを
固定しろって?」
外套の女は、
端末を操作する。
【理由変動率:高】
【再現性:低】
「……だから」
「あなたは、
前線から
外されました」
男は、目を閉じた。
「……ああ」
「……分かってる」
「……俺は」
一拍。
「選びすぎた」
外套の女が、
わずかに首を傾げる。
「……過剰選択は
均衡を
不安定化させます」
「……だから」
「あなたは
待機です」
「要請が
あれば」
「理由を
切り取った状態で
出動します」
男の口元が、
歪む。
「……切り取った、
俺か」
「……それで、
英雄か?」
外套の女は、
答えない。
答える必要がないからだ。
•
廊下の外。
その様子を、
レインは見ていた。
《模写理解》が、
男の周囲の“前提”を捉える。
(……なるほど)
(……英雄は、
成功した理由の
墓場だ)
理由を持って成功した。
だから再現できない。
だから、管理できない。
だから――
保存される。
使える部分だけを、
切り取るために。
ミリアが、低く言った。
「……あの人」
「……戦えますよね」
「今でも」
「ええ」
レインは、即答する。
「……ですが」
「もう、
前線には
立てません」
「理由を
持ちすぎた」
リュカが、
震える声で言う。
「……あれが」
「……選んだ人の
行き着く先?」
レインは、
視線を逸らさず答える。
「……均衡側に
回収された場合の
未来です」
男が、
こちらに気づく。
一瞬、
視線が合った。
英雄は、
何も言わない。
ただ――
分かっている目だった。
(……次は、
お前か)
そう言われた気がした。
レインは、
静かに呟く。
「……違います」
「俺は、
理解したまま
立ち続けます」
均衡は、
英雄を保存した。
だが――
英雄の“失敗”も、
同時に保存した。
それを見た以上、
もう戻れない。
監査塔・中層。
白い廊下の奥、男はまだ椅子に座っていた。
姿勢は崩れていない。
だが、それは鍛錬の名残ではなく、崩れる必要がないというだけの静止だった。
ミリアは、数歩手前で立ち止まる。
剣には触れない。
構えもしない。
ただ、まっすぐに男を見る。
「……英雄、だった人ですよね」
男は、ゆっくりと顔を上げた。
「……そう呼ばれてた」
声には、誇りも自嘲もない。
事実を確認するだけの音だった。
「今は?」
ミリアの問いは、短い。
男は、少し考えてから答えた。
「……管理対象」
「使える部分だけ、
残されてる」
ミリアは、息を吸う。
「……それで、
納得してるんですか」
男は、目を伏せた。
「納得?」
小さく、笑う。
「……納得なんて、
とっくに
切り捨てられた」
「俺が切ったんじゃない」
「……均衡が、
切った」
沈黙が落ちる。
レインは、壁際に立ったまま、口を挟まない。
《模写理解》は、男の言葉の裏にある構造を捉えている。
(……違う)
(……切られたのは、
感情じゃない)
(……“理由”だ)
ミリアが、続ける。
「……どうして」
「……英雄を、
やめたんですか」
男は、首を横に振る。
「やめたんじゃない」
「……選んだ」
その言葉は、重かった。
「市民の代わりに、
選び続けた」
「正しいかどうか、
分からなくても」
「……誰かが
決めなきゃ
いけなかった」
ミリアは、頷く。
「……それは」
「今の私たちと、
同じです」
男は、ゆっくりと顔を上げた。
「……違う」
静かな否定。
「お前たちは、
自分で立ってる」
「俺は……」
一拍。
「立たされてた」
空気が、張り詰める。
「俺は、
均衡の前線だった」
「判断は俺がした」
「だが、
前提は
均衡が決めてた」
「……それに、
気づいたとき」
男は、拳を握る。
「もう、
戻れなかった」
ミリアの声が、震える。
「……じゃあ」
「……どうすれば、
壊れなかったんですか」
男は、答えない。
答えられないのではない。
答えが、存在しないからだ。
その沈黙を、レインが引き取る。
「……壊れたのでは、
ありません」
男が、レインを見る。
「……保存された」
「成功した理由を、
再現できないから」
「だから、
動かさず、
切り分けられた」
男は、短く息を吐く。
「……さすがだな」
「……全部、
見えてる顔だ」
ミリアが、レインを見る。
「……それなら」
「レインは、
どうするんですか」
「同じ道を、
歩いたら」
男の視線も、
レインに向く。
レインは、即答しなかった。
一歩、前に出る。
「……俺は」
「前線に、
立ちません」
ミリアが、目を見開く。
「……え?」
レインは、静かに続ける。
「前線そのものを、
分解します」
男が、わずかに目を細める。
「……前線を?」
「ええ」
「均衡が作った
“代理”としての前線ではない」
「……人が、
自分で立つ場所を」
「可視化する」
男は、
長い沈黙のあと、
ぽつりと言った。
「……それが、
できたら」
「……俺は」
言葉が、途切れる。
ミリアが、代わりに言う。
「……英雄は、
必要なくなります」
男は、
苦しそうに、
それでも確かに笑った。
「……それで、
いい」
「……俺は」
一拍。
「役目を、
終えた」
外套の足音が、
遠くで響く。
時間切れだった。
男は、最後にレインを見る。
「……気をつけろ」
「均衡は、
お前を
保存しようとする」
レインは、
はっきり答えた。
「……させません」
男は、
それ以上、何も言わなかった。
扉が閉じる。
ミリアは、
しばらく立ち尽くし、
小さく呟く。
「……壊れたんじゃ
なかったんですね」
レインは、
静かに答える。
「ええ」
「閉じ込められただけです」
そして、
その牢を見た以上、
次に進むしかない。
監査塔・中層。
扉が閉じたあとも、男はしばらく動かなかった。
椅子に深く腰を下ろし、視線を落としたまま、呼吸だけが規則正しく続いている。
外套の女が、少し離れた位置で立っていた。
「……接触は、完了しました」
男は、答えない。
「均衡への影響は?」
外套の女の問いに、男はゆっくりと顔を上げた。
「……分からない」
短い答えだった。
「……だが」
一拍置いて、続ける。
「保存じゃ、足りない」
外套の女の指が、わずかに止まる。
「……理由が、
消えない」
「切り取っても、
薄めても」
「……見たやつが、
必ず出る」
外套の女は、端末を確認する。
【均衡安定度:低下】
【想定外変数:増加】
「……あなたの
推奨は?」
男は、少しだけ目を閉じた。
「……次は」
「対話を、
やめる」
その言葉は、淡々としていた。
怒りも、憎しみもない。
「……保存対象を、
増やしすぎた」
「理由を
持ったまま
立ち続ける者が
現れた」
「……あれは」
男の声が、低くなる。
「保存できない」
外套の女は、黙って頷いた。
•
別の階層。
円卓の前に、三人が集まっていた。
“均衡の顔”。
「……英雄の
評価は?」
「成功率は、
依然として高い」
「……だが」
「理由が、
伝播している」
「市民の間に」
円卓の中央に、
街の立体図が浮かぶ。
数値は、まだ保たれている。
犯罪率も、死亡率も、許容範囲内。
だが――
理由に関する揺らぎだけが、
増え続けている。
「……保存戦略は、
限界だな」
一人が言う。
「ええ」
「保存は、
個体を止めるだけ」
「……環境を、
止められない」
沈黙。
「……では」
別の声が、
結論を出す。
「強制権限を
解放する」
円卓に、新たな項目が浮かぶ。
【対処段階:強制介入】
【権限レベル:限定解除】
「……理由は?」
「不要」
「……対象は?」
一拍。
「世界変数
および
周辺前線」
名は、出さない。
だが全員が、
誰を指しているか分かっている。
•
宿。
夜。
ミリアは、窓辺で剣を磨いていた。
刃は、静かに光る。
「……あの人」
「……後悔して
ましたかね」
レインは、首を横に振る。
「いいえ」
「……役目を
終えただけです」
ミリアは、少し考えてから言った。
「……じゃあ」
「私たちは、
まだ途中ですね」
「ええ」
レインは、静かに答える。
「……だから」
「均衡は、
次の段階に
進みます」
「……もう」
一拍。
「保存は
してくれない」
リュカが、息を呑む。
「……追い出す?」
「ええ」
「……それでも」
レインは、窓の外を見る。
街は、まだ平和だ。
だがその平和は、
“選ばせない”ことで
保たれようとしている。
「……立ちますか」
ミリアが、剣を持ち上げる。
レインは、はっきり頷いた。
「ええ」
「……今度は」
「躓かせるだけじゃ、
足りない」
「……理解した上で、
止めます」
外で、鐘が鳴る。
その音は、
次の段階を告げていた。
均衡は、
対話を終えた。




