越えてはいけない線は、どこにあった
その異変は、数字に現れた。
朝の報告書。
事故件数、犯罪率、混乱指数――すべて正常値。
ただ一つだけ。
「……回復率が、落ちてる」
リュカの声が、低くなる。
「死者は?」
「ゼロ」
「負傷者は?」
「軽傷のみ。
ただし――」
端末を操作する指が、止まる。
「治ってない」
それが、異常だった。
⸻
現場は、例の交易結節点から
少し離れた小区画。
大きな事故は起きていない。
崩落も、戦闘もない。
だが、人々は疲弊していた。
「……なんか、
ずっと体が重い」
「寝ても、
回復しないんだ」
治療院は、混雑している。
だが、治せない。
「原因不明です」
医師は、正直に言った。
「魔力汚染ではない。
精神汚染でもない」
「じゃあ、何だ?」
「……選択疲労です」
その言葉に、
ノーリトリート全員が反応した。
「選択、疲労?」
「はい」
医師は、困惑した表情で続ける。
「常に“最適な行動”を選び続ける状況が、
人の回復力を削いでいる」
誰かに命令されているわけじゃない。
強制もない。
だが――
間違えられない空気が、
人を削っている。
⸻
レインの中で、理解が繋がる。
(……踏み越えたな)
これまでは、
選択肢を消すか、
見えなくするだけだった。
だが今回は違う。
選ばせ続けて、
消耗させている。
これは、
“削減”ではない。
圧迫だ。
⸻
ミリアが、唇を噛む。
「これ、
死なないから
誰も止めないよね」
「そうだ」
レインは、淡々と答える。
「だが――」
一拍、置く。
「世界は、
“危険だ”と認識し始める」
実際、
世界機関の速報が流れ始めていた。
回復効率低下事案
原因不明
継続観測対象
“危険”とは、まだ書かれていない。
だが、
“無視できない”に昇格した。
⸻
蒼衡《そうこう/アズール・バランス》も、反応する。
「これは……」
リィネが、解析結果を見つめる。
「均衡の問題ではありません」
「だが」
セインは、静かに言った。
「放置すれば、
いずれ破綻する」
切る対象ではない。
だが、
見過ごす対象でもない。
初めて、
蒼衡の判断が宙に浮く。
⸻
英雄も、動いた。
「今回は、
待てない」
ヴァルハルト=レオンの声は、
いつもより低かった。
「敵がいなくても、
守るべきものが削られている」
英雄が、
“戦う理由がないのに動く”。
それは、異例だった。
⸻
一方。
少し離れた場所で、
黒衣の男は、立ち止まっていた。
「……やりすぎたな」
独り言。
剣は抜かない。
後悔もない。
ただ、
反応を確かめた。
「ここまで削れば、
世界は騒ぐ」
それが、目的だった。
ノーリトリートを、
引きずり出すため。
正義を、
前に出させるため。
⸻
レインは、空を見上げる。
「……一度だけ、
越えた」
それは、
敵の失敗ではない。
宣言だ。
ここから先は、
避け合いでは済まない。
世界が、
初めて“危険”を言葉にし始めた。
《非裁定》は、
受け止める位置に立つ。
次は――
殴らずに、
止める番だ。
通達は、段階的だった。
最初は注意喚起。
次に観測強化。
そして――
その日の正午、言葉が変わった。
【公式通達】
当該現象を
**広域的危険兆候(クラスB)**として認定する
原因未特定
即時対策を検討中
ついに、
“危険”と書かれた。
「……来たね」
ミリアが、短く息を吐く。
「これで、
世界機関は“動かない”って言えなくなった」
「動く」
レインは、即答した。
「ただし、
最も無難な形で」
⸻
世界機関の会議は、長引かなかった。
「死者なし」
「秩序は維持されている」
「だが、放置すれば悪化する」
結論は、自然に一つに収束する。
「――英雄の派遣を要請します」
誰も反対しなかった。
英雄は、
“危険が顕在化した時”に出る存在だ。
今回は、基準を満たしている。
⸻
同時に、
蒼衡《そうこう/アズール・バランス》にも
連絡が入る。
「切る対象ではない」
セイン=ヴァルクスは、そう前置きした。
「だが、
均衡を保つために介入する余地はある」
「切らない介入?」
ガランが、眉をひそめる。
「配置調整だ」
リィネが、淡々と補足する。
「選択肢を増やすのではなく、
“過剰な選択圧”を緩和する」
それは、
蒼衡にとっても
慣れない仕事だった。
⸻
正義が、前に出る。
英雄は現地へ向かい、
蒼衡は周辺配置を再調整し、
世界機関は統一指針を敷く。
すべて、
“正しい対応”だ。
「……これで、
落ち着くんじゃない?」
ミリアの声には、
希望が少しだけ混じっていた。
レインは、答えなかった。
代わりに、
空気の流れを読む。
(……違う)
正義が動くことで、
敵は“次の形”に移る。
止まらない。
止まらせても、
別の形で続く。
⸻
案の定、
異変は収束しなかった。
数値は改善した。
回復率も、わずかに戻る。
だが――
完全には戻らない。
「……残ってる」
リュカが、端末を見つめる。
「負荷が、
地面に染み込んだみたいに」
英雄がいれば、
即死は防げる。
蒼衡がいれば、
破綻は切れる。
だが、
“選ばされ続ける構造”そのものは、
消えていない。
⸻
その夜。
ノーリトリートの拠点で、
珍しく沈黙が続いた。
「……ねえ」
ミリアが、意を決したように言う。
「もしさ。
ここで私たちが、
もっと強く止めたら」
言葉が、続かない。
レインは、静かに視線を向ける。
「それは、
“正義の否定”になる」
「……うん」
「でも、
今みたいに受け止めるだけだと」
一拍、置く。
「削られ続ける」
それが、
突きつけられた選択だった。
止めるか。
壊すか。
それとも、受け続けるか。
どれも、
ノーリトリートの原則から外れる。
「……選ばされてるね」
ミリアが、苦く笑う。
「そうだ」
レインは、否定しない。
「僕たちも、
選択肢に立たされている」
それが、
敵の狙いだった。
正義を前に出し、
世界を動かし、
それでも止まらない構造を残す。
そして最後に――
ノーリトリートに、
“どう止めるか”を選ばせる。
⸻
レインは、ゆっくりと息を吐いた。
「……次で、
受け止め方を変える」
三人が、顔を上げる。
「壊さない。
殴らない。
正義も否定しない」
一拍。
「でも――
止める位置を、
前にずらす」
それは、
これまで一度もやらなかったこと。
《非裁定》は、
次の一手を決めた。
受け止めるだけの存在から、
“止まる地点を指定する存在”へ。
正義が前に出た今だからこそ、
その役割が、初めて成立する。
その場所は、地図に名前がなかった。
都市でもない。
交易拠点でもない。
ただの中継地――人が通り過ぎるだけの場所。
だが、レインはそこを選んだ。
「……ここ?」
ミリアが、周囲を見渡す。
「何もないよ」
「だから、いい」
レインの声は、静かだった。
「ここで何かが起きたら、
それは“作られた出来事”になる」
偶然ではない。
事故でもない。
意図が、浮き彫りになる。
⸻
ノーリトリートは、そこに立った。
結界は張らない。
警告もしない。
通行を止めることもない。
ただ、
“受け取らない”前提を置く。
それだけで、
空気が変わる。
人は通る。
だが、長居しない。
選択肢はある。
だが、圧がかからない。
世界機関の監視ログが、
微妙な異常を検知する。
「……数値が、
収束しない」
「悪化もしていません」
「……基準が、
ずれている?」
判断が、揺れる。
⸻
蒼衡《そうこう/アズール・バランス》は、
すぐに気づいた。
「……線を引いたな」
セイン=ヴァルクスは、地図を見つめる。
「切っていない。
だが、
ここを越えると破綻する
という位置を、
明示している」
「厄介だな」
ガランが、低く笑う。
「正しくも、
間違ってもいない」
だから、切れない。
⸻
英雄は、少し遅れて到着した。
「……ここが、
“境界”か」
ヴァルハルト=レオンは、
剣を抜かなかった。
敵はいない。
事件もない。
だが、
これ以上前に出れば、
自分が“越える側”になる。
「……やりづらいな」
それが、英雄の本音だった。
⸻
そして。
黒衣の男は、
遠くからそれを見ていた。
初めて、
動かなかった。
「……線、か」
低い声。
ここを越えれば、
ノーリトリートは受け止めない。
受け止めない、ということは――
結果を、
そのまま世界に落とすということ。
「……なるほど」
彼は、静かに息を吐く。
「これは、
殴り返せないな」
越えれば、
正義が前に出る。
英雄が動く。
蒼衡が切る。
避ければ、
削減は進まない。
どちらに転んでも、
“想定”が崩れる。
黒衣の男は、
踵を返した。
今回も、越えない。
だが――
次は、
別の形で来る。
⸻
夜。
ノーリトリートの拠点で、
ミリアが言った。
「……私たち、
裁定してないよね」
「してない」
レインは、即答した。
「選ばせてもいない」
「でもさ」
一拍、置く。
「ここまでって、
決めた」
レインは、少し考えてから答えた。
「決めたのは、
“受け取り方”だけだ」
世界をどうするかは、
決めていない。
正義をどう使うかも、
決めていない。
ただ――
これ以上は、
引き受けないと置いた。
「……それで、
いいのかな」
ミリアの問いは、
不安だった。
「わからない」
レインは、正直に言った。
「でも」
一拍。
「選ばされ続けるよりは、
ずっとマシだ」
⸻
翌日。
世界機関の非公式文書に、
一文が追加された。
当該地点以遠では、
事象の不可逆性が高まる
対応には慎重を要する
誰も、
ノーリトリートの名は出さない。
だが、
線は“基準”として記録された。
英雄は、
その線を越えない。
蒼衡は、
その線を切らない。
敵は、
その線を計算に入れる。
《非裁定》は、
初めて――
世界の前提に組み込まれた。
それは、勝利ではない。
ただ、
もう無視できない存在になった、
というだけだ。




