正しい判断だけが残る街
――それは救済だった。少なくとも、記録上は。
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その街は、前よりも静かだった。
騒ぎはない。争いもない。
巡回は規則正しく、灯りは決まった時間に落ち、夜更けに人影は出ない。
治安評価は、過去最高を更新していた。
「……平和、だな」
ミリアの言葉に、誰もすぐには頷かなかった。
通りに人はいる。だが、足取りは揃いすぎている。
話し声は低く、視線は自然と前を向く。
レインは、胸の奥に引っかかる感覚を整理していた。
「“自由がある街”じゃない」
「でも、“安全な街”ではある」
リュカが補足する。
「少なくとも、数字上は完璧だ。犯罪率、事故率、未解決案件――全部、下がってる」
それが、問題だった。
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この街では、選択肢が最初から提示されない。
夜間外出は推奨されない。
危険区域への立ち入りは申請制。
仕事は斡旋機関を通すのが“望ましい”。
拒否はできる。
だが、拒否した先に何があるかは、誰も教えてくれない。
「選べるけど……選びたくない感じ」
ミリアが肩をすくめる。
「失敗した人、見当たらないもんね」
失敗者がいない。
それはつまり――失敗する余地がないということだ。
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異変は、治療院で起きた。
小規模ながら、独自の判断で患者を受け入れていた私設治療院が、突然閉鎖された。
理由は、公式医療網との重複。
院長は抵抗しなかった。
むしろ、納得していた。
「代替は用意されています。設備も、人員も、こちらより上です」
「じゃあ、なぜ――」
「“ここである必要”がないからでしょう」
その言葉に、違和感を覚えたのはノーリトリートだけだった。
より良い選択肢がある。
だから、古い選択肢は不要。
理屈は正しい。
正しすぎる。
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夜。
街の外縁部。
かつて複数の避難経路があったはずの区域は、一本の道だけを残して整理されていた。
柵、監視灯、案内標識。
「……一本道」
エルドが低く言う。
「迷わない。逃げない。戻れない」
そのとき、空気が沈んだ。
前回と同じ感覚。
戦場が“完全に”定義されるほどではない、薄い圧。
だが確かに、選別が始まっている。
レインの中で、理解が組み上がる。
「この街は――」
言葉にする前に、理解が先行した。
「“正しい判断だけが残るように設計されてる”」
誰かが命令しているわけじゃない。
誰かが悪意を持っているわけでもない。
ただ、選択の基準が一つに寄せられている。
安全。効率。秩序。
それ以外は、静かに排除される。
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遠くで、警鐘が一つ鳴った。
事件ではない。
異常でもない。
ただ、予定外の行動が一つ、記録から消された。
ノーリトリートは、まだ動かない。
だが全員が理解していた。
これはもう、偶然じゃない。
誰かが街を壊しているわけではない。
街が、自分で“壊れない形”を選んでいる。
そしてその選択は、
もう戻せない段階に、確実に近づいていた。
蒼衡《そうこう/アズール・バランス》は、その街を「安定」と評価していた。
犯罪発生率は低下。
暴動、反乱、違法結社の兆候なし。
住民満足度も、数値上は高い。
「……切る理由がないな」
ガラン=ディオルが、腕を組んだまま言った。
「危険因子は?」
セイン=ヴァルクスの問いに、リィネ=フォルテが首を横に振る。
「検出されません。
魔力異常、精神汚染、外部干渉――いずれも基準値以下です」
ユール=セティアが、街の地図を投影する。
「人の流れも綺麗だ。
逃走経路、補給線、防衛配置……全部、理想的」
理想的すぎる。
それが、誰の口にも出なかった違和感だった。
「……住民への聞き取りは?」
セインが言う。
「済ませた」
ユールが答える。
「不満は出ていない。
むしろ――安心している」
それは、蒼衡にとって最も扱いづらい報告だった。
恐怖がない。
混乱がない。
敵意もない。
だから、切れない。
「だが」
セインは、言葉を選んだ。
「この街は、
“均衡”というより……」
ガランが、続きを受け取る。
「“固定”されている」
沈黙。
蒼衡が切るのは、
暴走、逸脱、破綻だ。
だがこの街は、
どれにも当てはまらない。
むしろ、
正しさの平均値が異様に高い。
「……もし、これが続けば」
リィネが静かに言う。
「他の街も、
同じ形を“正解”として模倣するでしょう」
「それは、悪いことか?」
ユールの問いは、純粋だった。
セインは、すぐに答えられなかった。
悪ではない。
だが、良いとも言い切れない。
「蒼衡は、
世界を“良くする”ための存在ではない」
セインは、ようやく言った。
「壊れないように、
切るための存在だ」
「なら」
ガランが低く言う。
「これは、
壊れていない」
「……ああ」
セインは、頷いた。
「だから、
今回は介入しない」
結論は、合理的だった。
切る理由がない。
均衡は保たれている。
それでも。
会議が終わったあと、
セインは一人、記録を見返していた。
街の評価。
住民の反応。
未来予測。
すべてが、
“選びやすい未来”に収束している。
「……」
彼は、端末を閉じた。
疑念は、まだ形にならない。
だが、確かに芽を出している。
正しすぎるものは、
切れない。
それが、
この街が持つ、
最も危険な性質だった。
英雄が到着した時、
すでに「処理」は終わっていた。
炎も、瓦礫もない。
悲鳴すら、残っていない。
「……遅かった、か」
ヴァルハルト=レオンは、静かに呟いた。
ここは、街の南区画。
再編成の最終段階に入っていた地域だ。
事件ではない。
暴動でもない。
制度の切り替えだった。
「対象者は?」
イリス=アークライトが、職員に問いかける。
「すでに移送済みです」
「どこへ?」
「指定居住区へ。
旧住居への立ち入りは、恒久的に制限されました」
声は丁寧だった。
書類も揃っている。
英雄が斬るべき“敵”は、どこにもいない。
「……何人だ」
ライザ=クロウデルが、短く聞く。
「三十二名」
「怪我人は?」
「ゼロです」
「死者は?」
「……ありません」
完璧な結果だった。
それでも。
「戻れない、んだな」
ノイン=フェルツが、端末を閉じながら言った。
「彼らは、
元の生活に戻れない」
制度上、問題はない。
代替は用意されている。
生活水準も、むしろ向上している。
だが――
“選び直す”ことは、許されていない。
「……俺たちは」
ヴァルハルトは、拳を握った。
「何を、守った?」
答えは出なかった。
⸻
一方、その様子を
少し離れた高所から見ていたのが、
《非裁定》だった。
「……英雄、遅れたね」
ミリアの声は、静かだった。
「責められない」
レインは、淡々と答える。
「呼ばれていない。
事件として定義されていない」
だから、間に合わない。
「でもさ」
ミリアは、視線を逸らさない。
「助けられなかった人は、いる」
死んでいない。
泣き叫んでもいない。
それでも、
選び直す権利を失った人間は、確かに存在した。
「……条件は?」
エルドが、低く問う。
レインは、しばらく黙った。
条件①:選択肢があること
条件②:拒否できること
条件③:やり直せること
「……①は、まだ残ってる」
ゆっくりと、言う。
「形式上は」
ミリアが、強く息を吐く。
「でも、実質は?」
「……ほぼ、ない」
沈黙。
ここが、境界線だった。
《非裁定》が
動くべきか、動かざるきでないか。
レインは、視線を下げる。
「……まだだ」
言葉は、重かった。
「ここで動けば、
“正義の否定”になる」
「でも、動かなければ」
ミリアが、声を震わせる。
「これが、普通になる」
どちらも、正しい。
だから、決めない。
それが、ノーリトリートだ。
「……次だ」
レインは、静かに言った。
「次に同じことが起きたら」
三人が、息を呑む。
「その時は、
“まだ”じゃない」
英雄は、遅れた。
蒼衡《そうこう/アズール・バランス》は、切れなかった。
世界機関は、正しい処理として記録した。
そして。
世界は、壊れていない。
だが確実に、
“守れない形”に近づいている。
《非裁定》は、
まだ立っている。
立ったまま、
次に来るものを、待っている。




