選択肢は、音もなく削られていく
――まだ崩壊しない。だが、戻れない。
⸻
その街では、誰も死んでいなかった。
建物は立っている。人は歩いている。市場は開き、酒場は夜になれば灯りを点ける。
表面だけを見れば、いつもと変わらない日常だった。
ただ一つだけ、確実に違っていたのは――
**「選べなくなっている」**という事実だった。
最初に気づいたのは、避難経路だった。
本来、複数あったはずの街外れへの道が、いつの間にか封鎖されている。崩落でも戦闘でもない。行政判断による安全措置、という名目で、静かに柵が置かれていた。
「……一つ、消えたな」
レインは地図を見下ろしたまま、淡々と呟いた。
その隣で、ミリアが眉を寄せる。
「でも、危険ってわけじゃないんでしょ? ただ“通れなくなった”だけで」
「そう。まだ“正しい判断”の範囲だ」
だからこそ、誰も文句を言えない。
その数日後、次は雇用だった。
街の警備を請け負っていた複数の小規模ギルドが、契約を更新されなかった。理由は「戦力の分散は非効率」。代わりに、より統制された一団が入る。
街は安全になった。数字上は。
だが、仕事を失った者たちは、別の選択肢を与えられなかった。
そして三つ目。
夜間外出の制限。
医療物資の配給先の整理。
戦闘可能者の登録義務。
一つ一つは、すべて正論だった。
「……これ、誰かが直接やってる感じじゃないよね」
リュカが記録端末を操作しながら言う。
「命令系統が分散してる。行政、ギルド、警備……全部“最適解”を選んでるだけ」
エルドは黙ったまま、街の中央広場を見渡していた。
人はいる。声もある。
だが、逃げ道だけが、少しずつ消えている。
「壊れてはいない」
レインはそう言ってから、続けた。
「でも、戻れなくなってる」
誰かが暴れたわけじゃない。
敵が姿を現したわけでもない。
それでも、選択肢は確実に減っている。
“危険だから排除する”
“効率が悪いから切る”
“混乱を避けるために統一する”
その連鎖。
そして、そのすべてが――
誰かにとっては、正義だった。
ミリアが、ふと小さく息を吐いた。
「ねえレイン。これって……まだ、私たちが出る段階じゃないよね」
「……ああ」
ノーリトリートの条件は、まだ越えていない。
英雄は動ける。
世界機関も機能している。
蒼衡(そうこう/アズール・バランス)が介入すれば、秩序は保たれる。
だから、彼らは立たない。
ただ、見続ける。
そのときだった。
広場の中央、誰もいないはずの場所で、空気がわずかに沈んだ。
圧力でも殺気でもない。
“戦場が定義される前兆”のような、静かな歪み。
レインは顔を上げた。
「……来てない。でも――」
始まってはいる。
選択肢が、一つずつ消えていくこの流れが、
誰の意志でもなく続いているとしたら。
それは、
正義が振るわれる前の準備段階に過ぎない。
まだ、崩壊しない。
だがもう、
同じ場所には戻れなかった。
――誰も傷ついていない。だから、誰も止められない。
⸻
最初に消えたのは、冒険者だった。
正確には、**「冒険者という立場で街に関わる理由」**が消えた。
街外れの詰所。
かつては常に人の出入りがあり、臨時依頼や緊急対応で騒がしかった場所は、今では静まり返っている。
「契約更新は、ありません」
事務官の声は丁寧で、事務的で、感情がなかった。
「危険度評価が見直されまして。現在の街の治安維持は、登録警備隊のみで十分と判断されています」
「……俺たちは?」
問い返した冒険者に、事務官は即答した。
「不要、というわけではありません。ただ――今は選択されなかっただけです」
その言葉に、誰も反論できなかった。
誰も傷ついていない。
誰も殴られていない。
ただ、役割が消えただけだった。
⸻
「これ、露骨になってきたな」
リュカが資料を並べながら言う。
数字は美しい。治安指数は上昇し、被害報告は減少。
街の評価はむしろ改善している。
「でも“余白”がない。全部、ぴったり最適化されてる」
「余白がないのは、悪いことか?」
エルドの問いに、誰もすぐ答えられなかった。
レインはしばらく黙ってから、静かに口を開く。
「悪くはない。ただ、逃げ場がない」
役割が固定される。
配置が決まる。
誰が何をするか、何をしないかが明文化されていく。
それは秩序だった。
そして同時に、柔軟性を失っていく。
⸻
その日の夕方、別の街でも似た報告が上がった。
治療院の統合。
私設の避難所の閉鎖。
民兵組織の解散。
理由はすべて同じだ。
「非効率」
英雄の名はまだ出ていない。
世界機関も公式声明を出していない。
だが、判断の流れは一貫していた。
「……これ、誰かが命令してるわけじゃないよね」
ミリアが小さく言った。
「みんな、自分で“正しい方”を選んでる」
「選んでる、というより」
レインは言葉を選ぶ。
「選ばされてる」
選択肢が減れば、人は迷わない。
迷わなければ、判断は速くなる。
速い判断は、たいてい“正しい”と扱われる。
その連鎖。
⸻
夜。
街の中央区で、小さな騒ぎがあった。
暴動ではない。戦闘でもない。
ただ、立ち退きを拒否した職人が、警備に囲まれただけだ。
抵抗はなかった。
職人は武器も持たず、ただ言った。
「ここでしか、仕事ができない」
返ってきたのは、冷静な答えだった。
「代替案は用意されています。あなたが“ここである必要”はありません」
職人は、それ以上何も言えなかった。
代替案は、確かに存在したからだ。
条件は悪くない。安全も保証されている。
ただ――選ばされた選択肢だった。
⸻
ノーリトリートは、遠くからそれを見ていた。
介入条件には、まだ届かない。
命は奪われていない。
世界は機能している。
正義は、まだ正義の顔をしている。
「……嫌な感じだな」
ミリアが呟く。
「誰も悪くないのに、誰も自由じゃない」
レインは答えなかった。
ただ、街の外れ――
誰も立ち入らなくなった空白地帯に、一瞬だけ視線を向ける。
そこには、何もいない。
だが確かに、
**“戦場として定義された痕跡”**だけが、薄く残っていた。
選択肢が削られていくこの流れは、
まだ止められる。
だが、
止めた瞬間に、誰かが「正義を否定した者」になる。
その事実だけが、
静かに積み上がっていった。
それは襲撃と呼ぶには、あまりに静かだった。
夜明け前。
街外れの旧訓練場――すでに用途を失い、立ち入りも推奨されなくなった場所。
そこに、人が集められていた。
正確には、集まるよう“配置されていた”。
警備隊、登録戦闘員、数名の冒険者。
逃走経路は一本に絞られ、視界は遮られ、支援は届かない。
「……これ、訓練じゃない」
ミリアが低く言った瞬間、空気が変わった。
地面に、見えない境界線が引かれる。
音が沈み、距離感が狂い、視界がわずかに歪む。
レインの《模写理解》が、意志とは無関係に反応した。
「……戦場、固定」
理解が、先に来た。
「周囲一帯を“戦場”として定義。連携阻害、判断遅延、回復系干渉遮断……」
言葉にした瞬間、理解が確信に変わる。
「集団戦になるほど、不利になる構造だ」
次の瞬間。
圧が来た。
黒い何かが、空間ごと前進する。
剣でも魔法でもない。
“押し潰す”という現象そのもの。
「前に出る!」
ミリアが踏み込み、エルドが盾を構える。
防御は成立した――一瞬だけ。
「っ……!」
衝撃は、壁ではなく“判断”を削った。
次に何をするか、選択肢が浮かばない。
「連携、切られてる!」
リュカが叫ぶ。
指示が通らない。合図が遅れる。
黒衣の男が、そこに立っていた。
顔の半分は影に覆われ、装備は無駄がない。
狂気はない。殺意も薄い。
ただ、淡々としている。
彼が剣を振るうたび、誰かの役割が消えた。
前衛が前に出られない。
後衛が詠唱に入れない。
支援が意味を持たない。
それでも――
「押せる!」
ミリアの一撃が、確かに届いた。
エルドの防御が突破口を作り、リュカの補助が噛み合う。
勝てる流れだった。
レインは、そこで気づいた。
「……撤退条件がある」
黒衣の男の動きが、わずかに変わる。
視線が空を見た。
街の中心――英雄が動いた気配。
その瞬間。
「――ここまでだ」
低い声。
次の刹那、戦場の定義が解除された。
圧が消え、視界が戻る。
黒衣の男の姿は、すでにない。
追撃は不可能だった。
空間そのものが、彼を“終わらせた”かのように。
⸻
静寂。
誰も死んでいない。
だが、全員が理解していた。
「……勝てたよね」
ミリアの声は、悔しさより困惑に近かった。
「ああ」
レインは即答した。
「勝てた。だから、逃げられた」
あの男は、勝負をしに来たわけじゃない。
世界を壊しに来たわけでもない。
削りに来た。
選択肢を。
役割を。
そして、“正義が振るわれる前段階”を。
ノーリトリートは、まだ動かない。
だが、全員が同じことを思っていた。
――次は、もっと深く削られる。
まだ、世界は壊れていない。
けれどもう、
同じ形では、守れない。




