選択肢は、減っていく
朝の鐘は、いつも通りに鳴った。
市場は賑わい、露店の声は張りがある。
復旧した街路には新しい舗装の匂いが残り、子どもたちはそれを踏み鳴らして走っていた。
「……平和だね」
ミリアが、欠伸混じりに言う。
「少なくとも、表面上はな」
リュカは板張りの掲示板を眺めながら答えた。
掲示板には、避難計画の更新が貼られている。
前回まで三通りあった経路は、一本にまとめられていた。
《最も安全性が高く、混乱の少ない経路に統一》
理由は明確で、反論の余地もない。
「一本にした方が、誘導は楽だ」
エルドが頷く。
「守る側も、守られる側もな」
誰も異を唱えなかった。
それが、正解だからだ。
レインは、その紙面をじっと見ていた。
文字の裏に、別の可能性が透けて見える。
かつて存在していた二本の道。
危険度は高いが、逃げ遅れた者を拾える経路。
遠回りだが、混雑を避けられる裏道。
――消えている。
解析は静かに答えを出していた。
(……選ばれなかった、だけだ)
誰かが消したわけじゃない。
議論の結果でもない。
「効率」で、自然に消えただけ。
「レイン?」
ミリアが振り返る。
「何か、気になる?」
「いや」
レインは首を振った。
「問題はない」
事実だった。
問題は、ない。
別の通りでは、物資配給所が整理されている。
列は短く、混乱もない。
担当官が胸を張る。
「配給方法を一種類に統一しました。
判断ミスが減りますから」
「良い改善だな」
蒼衡の名を出す必要もない。
英雄の介入も、世界機関の指示もない。
皆が、自分で決めた。
夕刻、拠点に戻る途中。
ミリアが、ぽつりと呟いた。
「ねえ……」
「どうした」
「選ぶのって、
こんなに楽だったっけ?」
リュカが歩調を緩める。
「楽だろ。
正解が一つなら」
「……うん」
ミリアは頷いたが、言葉を続けなかった。
レインは、空を見上げる。
雲の流れは整いすぎている。
まるで、最初からこの形を目指していたみたいに。
(まだだ)
介入条件には、達していない。
命は救われている。
秩序は保たれている。
誰も切り捨てられてはいない。
ただ――
(戻る道が、
一本ずつ、消えていく)
レインは、それを胸の内に留めた。
《非裁定》は、まだ動かない。
だが世界は、静かに「正しい一本」へと寄せられていた。
気づかぬまま、
選択肢を、手放しながら。
午後、鐘が一度だけ鳴った。
警鐘ではない。
訓練用の短い合図――つまり、想定内の事態だ。
「南区画で倒壊事故」
リュカが端末を確認する。
「負傷者あり。死者なし。
英雄が向かってる」
「じゃあ、私たちは待機だね」
ミリアの声は軽い。
実際、そういう規模の事故だった。
崩れたのは、古い倉庫の壁。
修繕予定には入っていたが、優先度は低かった場所だ。
現場に着いた頃には、すでに片付いていた。
瓦礫は整理され、負傷者は担架で運ばれていく。
光の残滓が、空気に薄く漂っていた。
「イリス=アークライトか」
エルドが、光魔導の痕跡を見て言う。
「早いな」
「英雄だもの」
ミリアが言う。
「間に合うよ。
いつも」
英雄は、救った。
完璧に。
その後の対応も、完璧だった。
「この区域は危険です。
今後は立ち入りを制限します」
世界機関の職員が、淡々と告げる。
「代替倉庫はこちら。
動線も一本にまとめます」
人々は頷いた。
文句は出ない。
事故は起きた。
だが、被害は最小。
むしろ「よく抑えた」と評価される案件だ。
「……おかしくない?」
帰り道、ミリアが言った。
「何がだ」
レインが聞き返す。
「事故が起きたのに、
選択肢が減っただけ」
リュカが静かに補足する。
「倉庫は閉鎖。
物資の流れは一本化。
緊急時の判断も、事前に固定」
「安全性は上がった」
エルドが言う。
「守りやすくなった」
誰も否定できない。
だが、レインの解析は、別の結果を示していた。
(……次に同じ規模の事故が起きた場合)
想定される未来は、一つだけ。
別案が存在しない。
試す余地が、ない。
「英雄が悪いわけじゃない」
ミリアが、先回りするように言う。
「助けなきゃ、
もっと酷いことになってた」
「そうだ」
レインは即答した。
「正しい」
だからこそ、厄介だった。
蒼衡が動いた場合も同じだろう。
被害最小の未来を選び、他を切る。
世界機関も、同じ結論を出す。
全員が、正しい。
そして――
全員が、同じ一本を指している。
拠点に戻り、リュカが記録を整理する。
「判断速度が上がってる。
議論の時間が短い」
「良いことじゃない?」
ミリアは言うが、語尾が弱い。
「……うん。
でもさ」
ミリアは、レインを見る。
「考える前に、
答えが置いてある感じ、しない?」
レインは、少しだけ視線を落とした。
「する」
介入条件は、まだ越えていない。
死者は出ていない。
強制もない。
誰かが切られたわけでもない。
ただ、世界が――
(“迷わない形”に、
慣れ始めている)
その夜。
レインは一人、地図を広げた。
線が多すぎる地図は、扱いづらい。
だから人は、線を減らす。
分かりやすくするために。
正しく進むために。
気づいた時には、
戻るための線が消えている。
レインは、地図を閉じた。
《非裁定》は、まだ動かない。
だが、
世界の方が、先に配置を終えつつあった。
夜は、静かだった。
遠くで警備灯が巡回し、街は規則正しい呼吸を続けている。
騒音も、怒号もない。
むしろ――よく整っていた。
「……ねえ、レイン」
ミリアが、窓辺で足を止める。
「もしさ。
“正しい答え”が一つしかない世界になったら」
問いは、軽い。
だが声は、軽くなかった。
「それって、
間違ってるのかな」
レインは、すぐに答えなかった。
代わりに、机の上の地図を指でなぞる。
修正された避難路。
一本化された補給線。
統合された防衛配置。
どれも、合理的。
どれも、善意の結果。
「間違ってはいない」
レインは、ようやく言った。
「少なくとも、
今は」
リュカが端末を閉じる。
「被害予測、更新した。
次の三件も、死者ゼロ」
「英雄が動く前提だろ」
エルドが言う。
「当然だ」
リュカは頷く。
「蒼衡《そうこう/アズール・バランス》も、
同じ未来を選ぶ」
名前が出た瞬間、空気がわずかに張る。
“選ばせる正義”。
被害最小を、切り捨てで守る者たち。
「……ねえ」
ミリアが、唇を噛んだ。
「私さ。
助けられてるのに、
なんか……嫌なんだ」
誰も、笑わなかった。
「楽なんだよ」
ミリアは続ける。
「考えなくていい。
迷わなくていい。
正しい道が、最初からある」
視線を落とす。
「でも、
それって……」
言葉が、止まる。
レインは、その沈黙を遮らなかった。
代わりに、ゆっくりと口を開く。
「条件を、整理しよう」
三人が、顔を上げる。
「《非裁定》が動く条件」
リュカが、即座に反応する。
「数値化できるのか?」
「できる」
レインは頷いた。
「だから、
今は動いていない」
地図の一点を、指で叩く。
「一つ。
選択が残っていること」
「残ってるな」
エルドが即答する。
「一本しかなくても、
自分で選んでる」
「二つ」
レインは続ける。
「拒否できること」
リュカが確認する。
「命令じゃない。
強制もない」
「三つ」
レインの声は、低くなる。
「やり直せる余地があること」
沈黙。
ミリアが、そっと言う。
「……それ、
今は?」
「ある」
レインは、断言した。
「失敗しても、
次がある。
別案を考えられる」
だから――
「条件は、
まだ満たされていない」
部屋に、重い静けさが落ちる。
安心と、不安が同時に来る。
「でもさ」
ミリアが、顔を上げる。
「それ、
いつまで残るの?」
レインは、答えなかった。
答えは、解析結果にある。
だが、それを口にした瞬間、
“予測”が“予定”に変わる。
それだけは、しない。
「……線は、見えてる」
それだけを言う。
「越えてない。
でも、近づいてる」
エルドが、拳を握る。
「もし、
越えたら」
「受け止める」
レインは、即答した。
「選ばせないために」
ミリアは、深く息を吐いた。
「そっか」
不安は消えない。
だが、迷いは減った。
窓の外。
街は静かに眠っている。
正しく。
効率的に。
迷いなく。
――だからこそ。
レインは、確信していた。
(これは、
“戦闘”の前段階だ)
まだ、誰も殴られていない。
まだ、誰も切られていない。
だが世界は、
戦場の配置を終えつつある。
《非裁定》は、
動かない。
条件が、
満たされていないからだ。
その条件が――
消える、その瞬間までは。




