取り返しが、つかないだけ
結果だけを見れば、失敗ではなかった。
死者はいない。
英雄は到着した。
《蒼衡》も介入した。
世界機関の速報分類は、いつも通りだ。
局地的事案
被害:限定的
対応:成功
その文言に、嘘はない。
だが――
元には、戻らなかった。
集落の中央広場。
以前は子どもたちが集まっていた場所に、簡易的な柵が立てられている。
避難誘導のために設けられたものだ。
柵は、正しく機能した。
逃げ道を作り、混乱を抑えた。
その代わりに。
「……ここ、通れなくなったな」
年配の男が、ぽつりと呟く。
柵の向こう側には、半壊した家屋があった。
避難経路を優先した結果、
助けに入れなかった場所。
《非裁定》が現地に着いたのは、
すべてが終わったあとだった。
「被害報告、確認済み」
リュカが、静かに言う。
「死者なし。
重傷者三名。
家屋二棟、全壊」
「……前より、少ないね」
ミリアの声は、弱かった。
エルドは、倒壊した家屋の前で足を止める。
「だが、前は“救えた場所”だ」
誰も反論しなかった。
今回、住民は選んだ。
避難を優先し、救助を後回しにした。
その判断が、間違いだったとは言えない。
結果として、死者はいない。
だが――
助けられなかったものが、残った。
瓦礫の前で、若い女が膝をついている。
泣いてはいない。
ただ、動かない。
「……自分で、決めたんです」
誰に向けた言葉でもなかった。
「逃げるって。
ここは、後で戻るって」
英雄が来る前に。
蒼衡が切る前に。
世界機関が処理する前に。
自分で、選んだ。
ミリアが一歩踏み出しかけ、レインが止める。
「……まだだ」
その声は、いつもと同じだった。
冷静で、静かで、揺れていない。
レインは、倒壊した家屋を見つめる。
解析すれば、分かる。
この結果が、どこから分岐したのか。
だが――
解析しても、戻せない。
「今回は、
“間に合った”んだよな?」
防衛隊の若者が、確認するように言う。
誰も、すぐには答えなかった。
エルドが、低く言う。
「……間に合った。
だが、全部は守れなかった」
その違いは、決定的だった。
ミリアは、拳を強く握る。
「……これ、次も起きるよね」
問いではない。
予測だった。
レインは、はっきりと答える。
「起きる」
沈黙。
「でも」
続ける。
「まだ、選択は残っている」
住民は、逃げるか残るかを選べた。
避難経路を作るか、救助を優先するかを選べた。
だから――
《非裁定》は動かない。
ミリアは、唇を噛んだ。
「……取り返し、つかないのに?」
「取り返しはつかない」
レインは、目を逸らさなかった。
「でも、
選べなくなったわけじゃない」
それが、境界線だった。
英雄は来た。
蒼衡も動いた。
世界機関も処理した。
それでも残ったものは、
**“自分で選んだ結果”**だった。
その夜、集落には灯りが少なかった。
復旧は進む。
だが、以前の形には戻らない。
世界は、まだ壊れていない。
けれど――
元に戻らない世界が、
確実に増え始めていた。
現場は、静かすぎた。
血の匂いは薄い。
瓦礫も、最小限。
戦闘の痕跡は、ほとんど残っていない。
それでも、セイン=ヴァルクスは足を止めた。
「……報告は?」
声は、いつもと変わらない。
ユール=セティアが、短く答える。
「被害、想定内。
死者なし。
避難誘導は機能しています」
「英雄は?」
「既に撤収しています」
数字だけを見れば、問題はない。
世界機関も、同じ結論を出すだろう。
だが。
「……ここだ」
ガラン=ディオルが、崩れた家屋の前で立ち止まった。
完全に倒壊したわけではない。
だが、内部には入れない。
「避難経路の確保を優先した結果、
救助に回せなかった区画だ」
ガランの声は低い。
「前なら、
ここを“切って”通路にした」
その言葉に、誰も否定しなかった。
前なら――
《断定斬(だんていざん/デシジョン・スラッシュ)》で、
危険因子ごと排除していた。
だが今回は、待った。
未来比較の結果、
切らなくても被害は抑えられると判断した。
結果は、その通りだった。
それでも。
「……人が、いた」
リィネ=フォルテが、静かに言う。
瓦礫の脇に置かれた、簡易担架。
重傷者が、三人。
「命は助かっています」
「分かっている」
セインは、即答した。
だが、視線は逸らせなかった。
「もし切っていれば、
被害はもっと小さかった」
ガランの言葉は、責めではない。
事実の確認だ。
「だが、その場合」
ユールが続ける。
「住民の判断は、
意味を失っていました」
沈黙。
それが、今回“待った”理由だ。
世界が、自分で選び始めている。
ならば、その選択を尊重する――
それが、セインの出した答えだった。
「……結果として」
リィネが、ゆっくり言葉を継ぐ。
「救えた命は同じ。
だが、救えた“形”は違う」
倒壊した家。
戻れない生活。
判断を下した住民の表情。
「これは、
“被害”として記録される」
セインは、静かに言った。
「そして、我々の判断としても残る」
ガランが、歯を食いしばる。
「……待った結果だな」
「そうだ」
セインは、否定しない。
それは、正義の失敗ではない。
だが――
正義の代償ではある。
「次は?」
ユールが問う。
セインは、すぐには答えなかった。
瓦礫の前に立つ住民。
泣いてはいない。
ただ、言葉を失っている。
「……次も、選ぶ」
ようやく、そう言った。
「切るか、待つか。
均衡を取る」
ガランが、低く唸る。
「楽な仕事じゃなくなったな」
「最初から、楽じゃない」
セインは、淡々と返す。
「ただ、
簡単ではなくなっただけだ」
それは、《蒼衡》にとって、
初めての感覚だった。
速さだけでは、
正しさを証明できない。
だが、
速さを捨てれば、
必ず何かが残る。
セインは、空を見上げた。
英雄が飛び去った後の空。
何事もなかったかのように、澄んでいる。
「……世界は、
我々に楽をさせてくれなくなったな」
誰も笑わなかった。
この現場で、
《蒼衡》は理解した。
切らなかった結果は、
確実に“重さ”として残る。
それでも彼らは、
選ぶ役を降りない。
それが、彼らの正義だからだ。
帰路は静かだった。
誰も疲労を口にしない。
戦闘がなかったからではない。
言葉にするには、全員が分かりすぎていた。
拠点に戻り、簡易灯を落とす。
夜の空気が、部屋を満たした。
「……今回さ」
ミリアが、ぽつりと口を開く。
「誰も、間違ってなかったよね」
リュカは、即座に否定しなかった。
「英雄は来た。
《蒼衡》も判断した。
世界機関の基準も守られている」
「住民も、
自分で決めた」
エルドが、静かに補足する。
全員が正しい。
それが、今回の事案だった。
「なのに」
ミリアは、拳を握る。
「……残ったものが、
こんなに重い」
レインは、壁にもたれたまま、目を閉じていた。
解析は終わっている。
因果も、分岐も、すでに見えている。
今回、越えなかった線。
だが――
確実に近づいた場所。
「レイン」
ミリアが、視線を向ける。
「私たち、
どこまで待つの?」
それは、初めて向けられた問いだった。
責めでも、催促でもない。
“境界”の確認。
レインは、ゆっくりと目を開ける。
「……線は、見えた」
三人の視線が集まる。
「今回じゃない。
次でもない」
言葉を選びながら、続ける。
「でも――
このまま進めば、必ずそこに行き着く」
リュカが、低く問う。
「どんな線だ?」
「簡単だよ」
レインは、淡々と答える。
「“正しい選択”が、
残らなくなる線」
沈黙。
ミリアの喉が、小さく鳴る。
「……誰かが、
選ばされるだけになる?」
「そう」
レインは頷く。
「英雄が来ても、
蒼衡が切っても、
世界機関が処理しても」
一拍、置く。
「選択肢そのものが、
なくなる瞬間」
エルドが、低く唸る。
「それが、
俺たちの動く場所か」
「うん」
レインは、迷いなく言った。
「そこを越えたら、
もう“世界の判断”じゃない」
ミリアが、視線を落とす。
「……怖いね」
「怖い」
レインは、否定しなかった。
「だから、
今は動かない」
リュカが、端末を閉じる。
「線が見えた、ということは」
「準備ができる」
レインは、静かに答える。
「越えるためじゃない。
越えさせないために」
それは、決意ではない。
覚悟でもない。
ただの、位置確認だ。
《非裁定》は、
まだ世界を信じている。
英雄が間に合うことを。
《蒼衡》が選び続けることを。
世界機関が、破綻を処理することを。
それでも。
レインは、最後に言った。
「……次に同じことが起きたら」
三人が、息を詰める。
「たぶん、
“次”は、もう同じじゃない」
灯りが消える。
外は、いつもと変わらない夜だ。
平穏で、静かで、守られている。
だが――
境界線は、
もう地図に描かれていた。
越えていない。
まだ、越えていない。
それでも。
《非裁定》は、
動く場所を、
初めて正確に把握した。




