間に合った、と言い切れない
通報が入ったのは、夜明け前だった。
街から少し離れた集落。
規模は小さい。人口も多くない。
だが、生活に必要な施設は一通り揃っている場所だ。
「……反応、出てるな」
移動中、リュカが端末を確認しながら言う。
「前回より、さらに近い。
発生地点が、完全に居住区内だ」
「英雄は?」
ミリアの問いに、リュカは首を振った。
「まだ。蒼衡も距離がある」
エルドが、窓の外を見ながら低く言う。
「……間に合うかどうか、五分五分だ」
その言葉に、誰も返さなかった。
《非裁定》は、急がない。
だが、遅れているわけでもない。
世界が機能している限り、彼らは前線に出ない。
それでも、今回は空気が違った。
集落に近づくにつれ、焦げた匂いが強くなる。
空はまだ暗く、遠くで警鐘が鳴っていた。
「……もう始まってる」
ミリアが、歯を食いしばる。
到着したとき、戦闘は終盤だった。
数棟の家屋が崩れ、地面には深い亀裂が走っている。
逃げ遅れた住民が、防衛隊に守られながら必死に後退していた。
「退避完了、八割!」
「残りは――」
言葉が途切れる。
そこに、衝撃が走った。
建物の一角が、音を立てて崩れ落ちる。
防衛隊が咄嗟に庇い、直撃は免れた。
死者は出ない。
だが、
**“出なかっただけ”**だった。
「……くそっ」
ミリアが前に出かけ、レインの手が静かに制する。
「まだだ」
声は低く、揺れていない。
その直後、強い光が集落を包んだ。
英雄部隊の到着。
ほぼ同時に、蒼衡も現れる。
正義は、間に合った。
敵性存在は姿を消し、戦場は沈静化する。
後に残るのは、崩れた家と、震える人々だけだ。
現地責任者が、震えた声で報告する。
「……被害、局所。
死者なし。重傷者二名」
誰も、安堵の声を上げなかった。
“死者なし”という言葉が、
今回は救いにならなかった。
レインは、崩れた家の前に立つ。
瓦礫の位置。
倒壊の順序。
逃げた方向。
――壊す位置を、選んでいる。
だが、それを口にする理由は、まだない。
「……間に合った、よな?」
防衛隊の若者が、誰にともなく呟いた。
返事はなかった。
エルドが、静かに言う。
「今回は……かなり、線に触れている」
ミリアは拳を握りしめる。
「次は、もっと近い」
断言ではない。
予感だ。
レインは、集落を見渡した。
世界は、まだ壊れていない。
正義も、まだ機能している。
それでも――
「……“間に合った”って言葉、
そろそろ重くなってきたな」
誰も否定しなかった。
《非裁定》は、まだ動かない。
だが、
次に同じことが起きたとき、
同じ場所には立っていられないかもしれない。
その可能性だけが、
静かに、確実に積み上がっていた。
世界機関・中央判断局。
夜明け前にもかかわらず、執務区画の灯りは消えていなかった。
壁面に浮かぶ案件一覧の中で、一つだけが赤く点滅している。
「……第四件目、報告確認」
記録官が、淡々と読み上げる。
「局地的戦闘事案。
居住区内での発生。
英雄部隊および蒼衡の介入により沈静化。
死者なし。重傷者二名」
言葉が終わると、室内は一瞬だけ静かになった。
「“死者なし”か」
「だが、被害規模は前回より拡大している」
「判断が遅れたわけではない。
対応速度はむしろ向上している」
誰かが端末を操作し、時系列データを表示する。
数字は正確だった。
通報から初動。
防衛隊の展開。
英雄と蒼衡の到着。
すべて、基準内。
「……問題は?」
議長が問いかける。
一人の分析官が、慎重に言葉を選んだ。
「被害が、居住区の中心に近づいています。
このまま同様の傾向が続いた場合――」
「仮定だな」
即座に遮られる。
「“続いた場合”の話は、今は扱わない」
分析官は、口を閉じた。
世界機関は、確定した事実のみを扱う。
仮定は、判断を歪めるからだ。
「現時点で、基準を逸脱した事象はない」
「英雄と蒼衡は機能している」
「世界は維持されている」
それぞれが、正しい。
だからこそ、結論は変わらない。
「――現行の判断基準を維持する」
議長の言葉が、正式決定として記録される。
判断基準:変更なし
脅威評価:現状維持
対応方針:従来通り
記録官が、その文言を確定させた。
誰も反対しなかった。
会議が終わりかけた、そのとき。
「一点だけ、補足を」
先ほどの分析官が、再び口を開いた。
「被害が“間に合った結果”として処理され続ける場合、
住民側の避難行動に変化が出る可能性があります」
「……どういう意味だ?」
「“次も間に合う”という前提が、
判断を遅らせる恐れがある」
短い沈黙。
議長は、ゆっくりと首を振った。
「それは、市民教育の問題だ」
「世界機関の管轄外とする」
その一言で、話は終わった。
誰もが理解している。
世界機関は、世界を守るための組織であって、
人の感情や期待まで管理する場所ではない。
会議室の灯りが、一つずつ落とされていく。
最後に残った記録画面には、簡潔な一文だけが残っていた。
現状、世界は安定している。
それは事実だった。
だが同時に――
**“安定している限り、何も変えない”**という宣言でもあった。
その判断が正しいかどうかは、
まだ問われていない。
ただ、
問われる日は、確実に近づいていた。
拠点に戻ったのは、日が完全に沈んでからだった。
簡易灯の下、ノーリトリートの四人は同じテーブルを囲んでいる。
誰も疲労を口にしない。
だが、空気は重かった。
ミリアが最初に沈黙を破る。
「……さっきの、さ」
言葉を選ぶように、一度視線を落とす。
「“間に合った”って、
もう言っていい感じじゃなかったよね」
誰も、すぐには答えなかった。
リュカが、記録端末を操作しながら静かに言う。
「数字上は、間に合ってる。
死者なし。対応成功。
世界機関も、蒼衡も、英雄も――全部そう判断する」
「でも、現場は?」
ミリアが食い下がる。
「逃げ切れなかった人がいた。
守らなきゃ、死んでた人がいた」
エルドが、低く頷いた。
「……今回は、受け止めたというより、
“押し返した”に近い」
その言葉が、場の空気をさらに重くする。
レインは、黙って聞いていた。
否定もしない。肯定もしない。
「なあ、レイン」
ミリアが、真正面から視線を向ける。
「もしさ」
一瞬、言葉が詰まる。
「もし、次も同じことが起きたら」
部屋の空気が、張り詰めた。
「同じ街で。
同じ規模で。
同じように、英雄と蒼衡が間に合って」
ミリアは、続ける。
「……それでも、私たちは動かない?」
それは責める問いではなかった。
確認だった。
リュカが視線を上げる。
「仮定の話だな」
「うん。でも――」
「世界機関は、基準を変えない」
リュカは淡々と事実を並べる。
「今日の会議内容も、もう共有されてる。
“基準は維持”。
それが公式見解だ」
エルドが、ゆっくりと息を吐く。
「英雄も蒼衡も、機能している。
世界は、まだ壊れていない」
それぞれが、正しい。
だからこそ、
この問いが生まれている。
レインは、ようやく口を開いた。
「……仮定としてなら、答えられる」
三人の視線が集まる。
「次も同じなら――
それでも、僕たちは動かない」
ミリアの表情が、少しだけ強張る。
だが、反論はしなかった。
「理由は?」
短く、エルドが問う。
「“同じ”だから」
レインは、言葉を選びながら続ける。
「同じ被害。
同じ対応。
同じ結果。
それは、まだ“世界が選択できている”状態だ」
リュカが、ゆっくりと理解を噛みしめる。
「……選択肢が、残っている限り」
「うん」
レインは頷く。
「選択肢が残っている間に、
僕たちが答えを出すと――」
言葉を切る。
「世界の代わりに、選ぶことになる」
沈黙が落ちた。
ミリアは、しばらく俯いてから、小さく笑った。
「ほんと、嫌な立場だよね」
「嫌じゃなかったら、
この場所にいない」
レインの声は、静かだった。
エルドが、窓の外を見やる。
「……なら、動くのはいつだ?」
レインは即答しなかった。
少しだけ、間を置く。
「“同じ”じゃなくなったとき」
「どうなったら?」
「――選べなくなったとき」
ミリアが、息を吸う。
「誰かが、
選ばされるだけになったら?」
「そう」
レインは、目を伏せる。
「そのときが、
《非裁定》の出番だ」
誰も、軽く受け取らなかった。
それが何を意味するか、全員が分かっている。
その夜、誰も長くは話さなかった。
だが、全員が同じことを胸に置いていた。
――次が、同じとは限らない。
世界は、まだ壊れていない。
正義も、まだ間に合っている。
それでも、
“もし次が同じなら”という仮定が、
初めて共有された。
それだけで、
この夜は、十分に重かった。




