未確定という結論
世界機関・中央監査区画。
円卓形式の会議室に、いくつもの報告端末が浮かんでいた。
壁面には、最近発生した局地戦闘事案の一覧が並んでいる。
「……三件目、確認完了」
記録官が淡々と告げる。
「被害規模は増加傾向。ただし、いずれも英雄または蒼衡の介入により致命的被害は回避されています」
その言葉に、数名が頷いた。
「対応成功。世界の安定性に問題なし」
「従来想定の範囲内だな」
会議は、いつも通りの進行だった。
だが、一人の分析官が指先を止める。
「一点、確認したい」
視線が集まる。
「三件とも、戦闘パターンに類似点があります」
端末操作と同時に、映像と数値が重ねられた。
•出現地点:都市周縁部
•被害範囲:壊滅未満
•撤退タイミング:正義側の主力到着後
•死者数:ゼロ
「偶然、では?」
別の声が即座に返す。
「この程度の一致は、統計上珍しくない」
「英雄や蒼衡の対応速度が向上しているだけとも取れる」
反論はもっともだった。
分析官は頷きつつ、言葉を続ける。
「同一存在である可能性を示すには、情報が不足しています。
現時点では――」
一拍、置く。
「未確定です」
その結論に、会議室の空気が緩む。
「なら、議題にする必要はないな」
「仮説止まりだ」
「記録は保留。引き続き通常監視で」
決定は早かった。
世界機関は、確定したものだけを扱う。
未確定は、存在しないのと同じだ。
会議が次の案件へ移ろうとした、そのとき。
「補足があります」
別の監査官が、控えめに手を挙げた。
「現地報告に共通する一文がありまして」
端末に、短い抜粋が表示される。
『敵性存在は、戦況優勢にもかかわらず撤退した』
誰かが鼻で笑った。
「珍しくもない」
「目的が達成されたからだろう」
「あるいは、ただの気まぐれだ」
その場にいた誰も、それ以上深く追及しなかった。
理由は単純だ。
世界はまだ、壊れていない。
正義は、間に合っている。
未確定な脅威に、
世界機関が先回りして動く理由はなかった。
「――以上をもって、本件は“通常案件”として継続監視とする」
議長の言葉で、議題は閉じられる。
記録には、こう残された。
複数の局地戦闘事案に類似傾向あり。
ただし同一存在と断定する根拠は不足。
現時点では、未確定。
それで十分だった。
世界は、今日も正常だ。
少なくとも、記録上は。
ノーリトリートの仮拠点は、静かだった。
簡易宿舎の一室。窓から入る風が、紙束をわずかに揺らしている。
テーブルの上には、最近の局地戦闘事案の写しが並んでいた。
「……三件」
リュカが指で資料を揃えながら言う。
「どれも“処理済み”。
世界機関的には、問題なし」
「蒼衡も英雄も、ちゃんと仕事してる」
ミリアは椅子に背を預け、腕を組んだ。
「間に合ってる。助かってる。
……だから、何も言えない」
それは不満ではなく、事実の確認だった。
エルドは窓際に立ち、外の街を見ている。
「被害は増えているが、
まだ受け止めきれている」
「“線の内側”ってやつだな」
ミリアが小さく言う。
レインは、資料に視線を落としたまま、しばらく黙っていた。
数値。時刻。場所。
どれも特別な異常はない。
だからこそ、
気になる。
「レイン?」
ミリアが名前を呼ぶ。
「……うん」
顔を上げる。
「何か、分かった?」
「分かった、というほどじゃない」
レインは正直に答えた。
「ただ……」
言葉を探すように、少し間を置く。
「全部、同じ“終わり方”をしている」
リュカが眉をひそめる。
「撤退のタイミング?」
「それもある。でも、それだけじゃない」
レインは資料の端を指で押さえた。
「壊せる場所で、壊していない。
勝てる状況で、終わらせている」
「……だから、何?」
ミリアの問いは、責める調子ではなかった。
「だから、
動く理由が、まだない」
その言葉に、誰も反論しなかった。
ノーリトリートの介入条件は明確だ。
世界が壊れ、選択肢が失われるとき。
今は、そうじゃない。
エルドが静かに頷く。
「まだ、受け止められる」
「英雄も蒼衡も、機能してる」
リュカが付け加える。
ミリアは少しだけ唇を噛んだ。
「……分かってるよ。
分かってるけどさ」
視線を落とし、ぽつりと続ける。
「なんか、嫌なんだよ。
この感じ」
レインは、その感情を否定しなかった。
「嫌だと思えるうちは、
まだ大丈夫だ」
「なにそれ」
「感情が先に壊れてないってこと」
ミリアは苦笑する。
「相変わらず、言い方が遠回し」
「遠回しにしか言えない」
レインはそう答えた。
その夜、レインは一人で外に出た。
街は平穏で、灯りは温かい。
復旧作業も進み、人々は普通に笑っている。
世界は、正常だ。
レインは空を見上げる。
解析すれば、
構造はいくらでも読める。
だが――
読むことと、踏み込むことは違う。
「……まだ、だ」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
今はまだ、
線の内側に立っていられる。
その事実だけを、
胸に置いたまま。
市場は、ほぼ元通りだった。
崩れていた屋根は簡易的に補修され、露店も並び直されている。焼け跡の匂いはまだ残っているが、人の声にかき消されつつあった。
「ほんと、間に合ってよかったよ」
果物を並べながら、商人の男が言う。
「英雄様が来てくれなかったら、どうなってたか」
「蒼衡も早かったって聞いた」
「世界機関の対応も完璧だったな」
誰もが、口々にそう言った。
助かった。
それが、この街の共通認識だった。
広場の一角では、子どもたちが走り回っている。
瓦礫の残る場所を避けながら、いつも通りの遊びだ。
「ねえ、あれ何?」
幼い声が、路地の奥を指差す。
そこには、半壊したまま手が付けられていない建物があった。外壁に深く刻まれた亀裂。復旧の優先順位から外れた場所。
「危ないから近づくな」
母親が、少し強い声で制した。
「もう大丈夫なんでしょ?」
「大丈夫よ。
英雄様が来てくれたんだから」
その言葉に、不安は混じっていなかった。
別の通りでは、負傷者の包帯を交換する簡易診療所が開かれている。
治療は進み、命に関わる者はいない。
「運が良かった」
「本当にね」
医師がそう言って、次の患者に向き直る。
運が良かった。
それもまた、事実だった。
街の外れでは、復旧作業に携わる若者たちが休憩を取っていた。
「また来ると思う?」
「さあな。でも、次も間に合うだろ」
「英雄がいるし」
「蒼衡もいる」
名前を挙げれば、それで安心できる。
誰もが、
“次”を深く考えようとはしなかった。
夕暮れ時、鐘が鳴る。
今日一日が、終わる合図だ。
街は生きている。
壊れかけたが、戻ってきた。
そして、人々は日常へ戻る。
助かったから。
その理由だけで、十分だった。
路地の奥、修復されていない壁に残る痕を、誰も見ていないわけではなかった。
ただ――
それを「問題」と呼ぶ理由が、
今はまだ、どこにもなかった。




