何も起きない日の価値
その日の任務は、何事もなく終わった。
魔獣の目撃情報は誤認だったらしく、現地で確認したころには痕跡すら薄れていた。被害もなく、負傷者もいない。報告書には「異常なし」と書けば済む内容だ。
ミリアは歩きながら、大きく伸びをした。
「……はぁ。結局、散歩じゃん」
「そうだね」
レインは否定しなかった。
彼にとっては、それで十分だった。
舗装の甘い街道を並んで歩く。夕方の光が傾き始め、風は穏やかだった。ミリアの足取りは軽いが、表情にはどこか不満が残っている。
「もっとさ、こう……何かあってもよくない?」
「良くはないと思うけど」
「分かってる! 分かってるけど!」
ミリアは少しだけ声を荒げてから、すぐにトーンを落とした。
「……何も起きないと、逆に調子狂うんだよ」
レインは少し考えてから答える。
「何も起きない日は、何も失わない日でもある」
ミリアは足を止めた。
「……それ、あんたらしいけどさ」
振り返って、少し困ったように笑う。
「それで全部納得できるなら、苦労しないよ」
「納得はしてないよ」
「え?」
「ただ、受け入れてるだけ」
ミリアはしばらく黙って、再び歩き出した。
レインの隣に戻り、歩幅を合わせる。
「ねえレイン」
「なに?」
「もしさ……今日、何か起きてたらさ」
言いかけて、言葉を切る。
その先を、自分でも決めかねている顔だった。
「……ううん。やっぱいい」
レインは追及しなかった。
彼は、ミリアが言葉を引っ込めた理由を理解していたし、理解したからといって、今それを言語化する必要も感じなかった。
少し沈黙が流れる。
「……でもさ」
ミリアは、今度は軽い口調で続けた。
「こうやって帰れるの、嫌いじゃない」
「僕も」
それは事実だった。
非裁定――ノーリトリートとしての在り方は、戦場よりもこういう瞬間で、より明確になる。選ばない日。裁かない日。介入しない日。
それでも前線に立ち、何も起きなかったという結果を持ち帰る。
ミリアは小さく息を吐いて、空を見上げた。
「……平和って、退屈だね」
「うん」
「でも――」
言葉を探すように、少しだけ間を置く。
「……なくなると、困る」
レインは、わずかに視線を向けた。
「そうだね」
それ以上は、何も言わなかった。
今日という日を、これ以上説明する必要はなかった。
何も起きなかった。
それだけで、十分だった。
蒼衡の拠点は、いつもより静かだった。
戦いが終わったあとの静けさではない。
仕事が終わったあとの静けさだった。
広間の中央には、簡素な報告板が設置されている。今回の案件は、古代種事案における危険因子の排除補助。結果は明確で、評価も高い。
「被害、最小限」
「対応、迅速」
「判断、妥当」
並ぶ言葉はどれも正しかった。
装備を外しながら、蒼衡の一人が短く息を吐く。
「……終わったな」
「終わったよ。綺麗に」
別のメンバーがそう答える。
誰も異を唱えなかった。
街は守られ、被害は拡大せず、世界機関からの公式評価も問題なし。英雄の到着と連動し、最悪の展開は回避された。
理想的な仕事だった。
だからこそ、誰もが少しだけ気を抜いている。
「感謝状、来てたぞ」
「またか。正直、慣れてきたな」
「悪くないだろ。やってることは間違ってない」
その言葉に、周囲も頷く。
切るべきものを切り、守るべきものを守った。それだけだ。
しばらくして、一人が報告書から視線を上げた。
「……切った対象、名前出てたか?」
空気が、ほんの一瞬だけ止まる。
「いや。番号だけだな」
「いつものことだろ」
「そうなんだけどさ」
そのまま言葉は続かなかった。
問いとして形になる前に、自然と流される。
蒼衡にとって、名前は重要ではない。
重要なのは、危険因子だったかどうかだけだ。
「必要だった。だから切った」
「それで十分だ」
誰かがそう言い切り、話題はそこで終わった。
窓の外では、復旧作業が進んでいる。人々は日常に戻り、蒼衡の名は感謝とともに語られるだろう。
正義は、機能している。
装備棚の前で、先ほどのメンバーが立ち止まり、ほんの一瞬だけ手を止めた。
「……全部、切る必要はあったのか?」
呟きは小さく、誰の返事も求めていなかった。
自分でも答えが出ている問いだったからだ。
「――あった」
そう結論づけて、再び手を動かす。
蒼衡は、今日も正しい。
正しく在り続けるために、迷いはここに置いていく。
それが彼らの役割だった。
世界機関の執務区画は、今日も変わらず静かだった。
白を基調とした通路。整然と並ぶ書架。壁面に浮かぶ進捗表示は、すべて「処理済み」を示している。
端末の前で、担当官が報告を読み上げた。
「古代種関連事案、最終確認完了。被害規模、想定内。再発兆候なし。よって――本件は“完全収束”とする」
誰も異議を唱えない。
記録は保存され、次の案件へと進む。
感情を扱う部署ではない。
世界機関の仕事は、世界が回っていることを保証することだ。
別の机では、付随報告が淡々と整理されていた。
「蒼衡による危険因子排除、評価A」
「英雄部隊の連携、問題なし」
「市民被害、最小」
正しい数字が並ぶ。
それ以上でも、それ以下でもない。
担当官は一瞬だけ手を止め、報告書の余白に目を落とした。
そこには、短い備考が記されている。
「局地的戦闘痕を複数確認。いずれも収束済み」
名前はない。
特記事項もない。
「……問題なし」
そう呟いて、次の書類へ視線を移した。
⸻
一方、英雄たちは、それぞれの日常に戻っていた。
訓練場では、ヴァルハルト=レオンが大剣を肩に担ぎ、深く息を吐いている。戦いのあと特有の、充足と疲労が入り混じった表情だった。
「今回は、早かったな」
そう言うと、傍らで装備を整えていたライザ=クロウデルが肩をすくめる。
「蒼衡が先に動いてたしね。私たちは“間に合った側”ってだけ」
「それで十分だ」
ヴァルハルトは迷いなく答えた。
彼にとって、力は迷うためのものではない。
別区画では、ノイン=フェルツが召喚式の後処理をしながら、資料に目を通していた。
「合理的な流れだ。問題はない」
「……本当に?」
問いかけたのは、窓際で外を眺めていたイリス=アークライトだった。
「正義が機能した。秩序も守られた。それ以上、何が必要だ?」
ノインの言葉は理にかなっている。
イリスはそれを否定しなかった。
「ううん。必要なことは、全部やったと思う」
それでも、視線は遠くに向いたままだった。
街は復旧し、人々は日常に戻っている。英雄の名は讃えられ、蒼衡の判断も支持されている。
世界は、救われた。
ヴァルハルトが、ふと笑って言う。
「また何かあれば、呼ばれるさ」
「そのときは、そのときだね」
ライザが軽く応じる。
誰も深刻には受け取らない。
それが、英雄の日常だった。
⸻
同じころ、世界機関の記録庫では、新しい案件番号が自動生成されていた。
分類:局地戦闘
脅威度:未確定
対応状況:収束済み
名前は、まだない。
世界は今日も、正常に回っている。




