代わりに、決めてくれる人
最初は、
善意だった。
「……判断が、
止まってる」
そう言ったのは、
境界の内側で作業をしていた
物資担当の男だった。
不満ではない。
責めてもいない。
ただ、
困っていた。
「ノーリトリートは、
線を引いた」
「任せない、
とも言った」
「……じゃあ」
一拍。
「次は、
誰が決める?」
その問いは、
自然に共有された。
「決めないと、
回らない」
「誰かが、
決めないと」
誰も、
《非裁定》を
責めなかった。
むしろ、
理解していた。
――引き受けすぎたのだ、と。
だからこそ。
「……じゃあ」
別の声が、
静かに言う。
「俺たちで
決めよう」
ざわり、と
空気が揺れる。
「基準は、
もうある」
「危険度」
「必要度」
「優先順位」
「今まで、
彼らが使っていたやつだ」
それは、
事実だった。
「だったら」
「同じ基準で、
俺たちが判断すればいい」
「現場の方が、
早い」
「呼び出す必要もない」
誰も、
悪意を持っていない。
むしろ、
責任感だ。
「……勝手に、
決めていいのか?」
一瞬だけ、
ためらいが出る。
だが。
「ノーリトリートは、
止めなかった」
「禁止も、
してない」
「だったら……」
「やっていい」
その言葉で、
何かが決まった。
明文化は、
されない。
宣言も、
ない。
ただ、
人の流れが変わる。
物資の配分。
通行の判断。
小さな例外処理。
全てが、
“ノーリトリート式”を
なぞって行われる。
《非裁定》は、
それに気づくのが
少し遅れた。
「……あれ」
ミリアが、
遠くを指す。
「今の判断、
私たち、
してないよね?」
リュカが、
端末を確認する。
「……うん」
「呼ばれてない」
「でも」
一拍。
「通ってる」
エルドが、
低く言う。
「……代わりが、
できたな」
レインは、
すぐには言葉を出さなかった。
否定も、
肯定も、
できない。
なぜなら。
「……同じだ」
判断の仕方は、
同じ。
使っている基準も、
同じ。
違うのは――
責任の所在だけ。
「……これ」
ミリアが、
不安そうに言う。
「私たち、
悪く言われるやつ?」
答えは、
すぐに来た。
「……聞いた?」
通りすがりの声。
「ノーリトリート、
最近
決めてくれないらしい」
「え?」
「前は、
ちゃんと
判断してくれてたのに」
「……じゃあ」
「逃げたんじゃない?」
その言葉は、
悪意よりも
軽かった。
軽いからこそ、
広がる。
レインは、
その場に立ったまま、
静かに理解する。
――これは、
誰かが仕組んだ話じゃない。
――善意が、
空席を埋めただけだ。
だが。
「……次は」
小さく、
誰にも聞こえない声で
呟く。
「私たちが、
“邪魔”になる」
正しさは、
もう動き出している。
《非裁定》が
いなくても――
回る正義として。
失敗は、
大きなものではなかった。
爆発も、
崩落も、
悲鳴もない。
「……足りない?」
配給所で、
物資箱を数えていた男が
首を傾げる。
「予定では、
ここに
もう一箱来るはずだ」
「回したよ」
別の者が答える。
「危険度が高い区画に」
「基準通りだ」
基準通り。
それは、
皆が覚えた言葉だった。
「……でも」
男は、
箱の中身を見る。
包帯。
止血剤。
最低限の薬。
足りない。
「救護班が、
戻ってきてない」
その言葉で、
空気が少し変わる。
数分後、
報告が入る。
「……一人、
手当が遅れた」
致命ではない。
だが、
防げた怪我だった。
「判断が、
遅れた」
誰かが、
ぽつりと言う。
「誰が?」
すぐに返る。
「……現場だ」
「基準に従った」
「ノーリトリート式だ」
その瞬間、
言葉が
すり替わった。
決めたのは、
現場だ。
だが。
「……でも」
別の声。
「基準を作ったのは、
ノーリトリートだろ」
空気が、
止まる。
誰も、
強く言っていない。
責めているわけでもない。
ただ、
置き場所を探している。
「……彼ら、
最近
判断してないよな」
「任せない、
って言ったし」
「でも、
止めてもない」
「じゃあ……」
言葉は、
最後まで言われない。
だが、
結論は共有された。
《非裁定》のもとに、
報告が届く。
「……現場での判断が、
うまくいかなかった」
「基準に沿ったが、
結果が伴わなかった」
「……確認を」
レインは、
静かに聞いている。
内容を、
一つ一つ。
「この判断、
誰が下しましたか?」
即答はない。
「……現場、です」
「私たちは、
関与していません」
一拍。
「それでも」
報告者は、
言葉を選ぶ。
「あなたたちの
やり方に従った結果です」
ミリアが、
思わず声を上げそうになる。
エルドが、
静かに止める。
レインは、
首を横に振る。
「……基準は、
道具です」
「使い方を
決めるのは、
人です」
「道具が悪い、
という話には
なりません」
その説明は、
正しい。
だが。
「……分かります」
報告者は、
そう言った。
「理屈は」
「でも」
一拍。
「分かりやすいのは、
あなたたちが
決めてくれた時です」
それが、
致命的だった。
正しさではない。
理解でもない。
楽さだ。
報告者が去った後、
ミリアが言う。
「……これ」
「私たちが
決めてないのに」
「私たちの
せいになるやつだ」
リュカが、
淡々と補足する。
「構造上、
そうなる」
「判断を
“止めた側”は」
「必ず、
失敗の受け皿になる」
エルドが、
盾を強く握る。
「……正義が、
独り歩きしてる」
レインは、
小さく息を吐いた。
「はい」
「もう」
一拍。
「私たちが
立っているだけで、
歪みます」
遠くで、
代替判断は続いている。
止まらない。
止められない。
そして。
《非裁定》は、
まだ何もしていないのに――
“責任者”になり始めていた。
拒否は、
できた。
理屈も、
準備も、
十分にあった。
「基準は貸しただけだ」
「判断は現場の責任だ」
「私たちは関与していない」
全部、
正しい。
だが。
それを口にした瞬間、
何が起きるかも
全員が分かっていた。
――世界が、
もっと楽な方へ流れる。
「……じゃあ」
報告を持ってきた男が、
小さく言う。
「今後の判断は、
どうすればいいですか?」
その問いは、
確認の形をしていた。
だが、
期待が混じっている。
ミリアが、
一瞬だけ視線を逸らす。
エルドは、
盾を背負ったまま
動かない。
リュカは、
端末を閉じた。
誰も、
代案を出さない。
なぜなら。
代案を出す=
また「決める」からだ。
「……基準通りに」
レインは、
そう言いかけて――
止めた。
その一言で、
全てが元に戻る。
「……分かりません」
代わりに、
そう言った。
場が、
静まり返る。
「私たちは」
ゆっくり、
言葉を選ぶ。
「判断を
引き受けすぎました」
「だから、
線を引きました」
「でも」
一拍。
「世界が
その線を
使い続けている」
それは、
非難ではない。
ただの、
現状説明だ。
「……じゃあ」
男が、
困ったように言う。
「どうすれば?」
レインは、
答えない。
答えられない。
答えてしまえば、
また“座る”からだ。
その沈黙が、
結果だった。
男は、
深く頭を下げる。
「……分かりました」
「では、
現場で判断します」
そう言って、
去っていく。
誰も、
止めなかった。
止められなかった。
「……これで」
ミリアが、
小さく言う。
「私たち、
降りたことになる?」
リュカが、
首を横に振る。
「いや」
「降りられてない」
エルドが、
低く続ける。
「席は、
まだそこにある」
「誰も、
片付けてない」
レインは、
遠くを見る。
代替判断は、
止まらない。
失敗も、
続く。
そして、
そのたびに――
名前だけが、
呼ばれる。
「ノーリトリートは?」
「どう判断する?」
「責任は?」
それは、
正式な任命ではない。
宣言もない。
だが。
「……座ってしまったね」
ミリアが、
苦笑する。
レインは、
否定しなかった。
「はい」
「立ったつもりで、
座っていました」
《非裁定》は、
何も決めていない。
それでも――
世界の“判断席”に
名前が刻まれた。




