正しさが、息を整え始めた
都市は、落ち着いていた。
瓦礫は片付けられ、
路地には通路が引かれ、
簡易の標識が立てられている。
人は歩き、
声もある。
遠目には――
もう、非常事態には見えなかった。
「……整ってきたな」
ミリアが、
通りを見渡して言う。
皮肉でも、
安心でもない。
ただの事実確認だ。
「うん」
レインも頷く。
「“回る”ようになった」
それが、
一番危険な合図だった。
規則は、
まだ紙に書かれていない。
だが、
誰もが同じ動きをする。
救護は先。
物資は列。
危険区域には近づかない。
判断を仰ぐ視線が、
自然に一箇所へ集まる。
――《非裁定》。
「……ねえ」
ミリアが、
小声で言う。
「これさ」
「もう、
“お願い”じゃなくない?」
レインは、
すぐには答えない。
代わりに、
視線を向ける。
境界の端で、
一人の男が立っている。
腕を組み、
動かない。
「……何してるんだ?」
エルドが、
静かに声をかける。
男は、
少し遅れて答えた。
「待ってます」
「判断を」
それだけ。
怒っていない。
困ってもいない。
ただ、
“待っている”。
「……内容は?」
リュカが聞く。
「俺の家族が、
別区画にいる」
「合流したい」
「でも、
危険区域を通る」
「だから」
一拍。
「通っていいか、
決めてほしい」
ミリアが、
わずかに眉をひそめる。
「……自分で決めないの?」
男は、
困ったように笑った。
「決める人が、
いるんでしょう?」
その言葉は、
責めていなかった。
委ねていた。
レインは、
ゆっくりと息を吸う。
「危険は、
高いです」
「護衛は、
つけられない」
「それでも、
行きますか?」
男は、
一瞬だけ考えた。
そして、
首を横に振る。
「……やめます」
「判断、
ありがとうございました」
礼を言い、
その場を離れる。
背中は、
軽そうだった。
「……今の」
ミリアが、
小さく言う。
「悪くなかったよね?」
「安全だった」
「誰も、
傷ついてない」
「うん」
レインは、
否定しない。
「結果だけ見れば」
だが。
リュカが、
端末を閉じながら言う。
「……判断、
“楽”になってる」
「決める側も」
「委ねる側も」
エルドが、
盾を背負い直す。
「……責任が、
どこにも残らん」
「決めたから」
「従ったから」
「それで、
終わってしまう」
風が、
通りを抜ける。
整った都市は、
よく音を返す。
足音。
声。
金属。
すべてが、
同じ速度で進んでいる。
「……これ」
ミリアが、
ぽつりと言う。
「“助け合い”じゃなくて」
「“運用”だよね」
レインは、
空を見る。
雲は、
ゆっくり流れている。
「はい」
「もう、
始まっています」
「判断が、
世界の呼吸になり始めている」
それは、
誰かが仕組んだわけじゃない。
善意と安全と合理が、
自然に組み合わさっただけだ。
だからこそ――
止めにくい。
遠くで、
鐘の音が鳴る。
合図ではない。
警告でもない。
ただの、
時刻を知らせる音。
それでも。
レインは、
確信していた。
――次に鳴るとき、
これは
“始まり”になる。
集まったのは、
代表というほどの顔ぶれではなかった。
だが、
偶然でもなかった。
境界の内側。
仮設の建物の一角。
椅子に座る者たちは、
皆、疲れている。
怒りはない。
不満も、ほとんどない。
あるのは――
「続いてほしい」という感情だけだ。
「……落ち着いてきました」
最初に口を開いたのは、
年配の男だった。
声は、
少しだけ震えている。
「正直に言えば、
ここ数日で
一番まともに眠れています」
誰も、
それを否定しない。
「判断が、
早い」
「説明が、
一貫している」
「だから、
迷わなくて済む」
言葉は、
淡々としていた。
褒めているようで、
評価しているようで。
そして、
“前提”を置いていた。
「……要件は?」
リュカが、
端的に聞く。
「この形を、
維持してほしい」
女が言う。
若くはない。
だが、
老いてもいない。
判断を
他人に委ねることに
慣れていない世代だ。
「一時的でもいい」
「記録を残して」
「基準を揃えて」
「誰が来ても、
同じ判断になるように」
ミリアが、
思わず聞き返す。
「……それって」
「“誰でも判断できる”
じゃなくて」
「“誰も判断しなくていい”
ってこと?」
女は、
否定しなかった。
「そうです」
即答だった。
「今は、
それが一番助かる」
エルドが、
盾を抱えたまま
少し姿勢を変える。
「……責任は?」
男が答える。
「あなたたちが
引き受けてくれるなら」
「私たちは、
従う」
それは、
命令ではなかった。
懇願でもない。
合理的な分担だった。
レインは、
少しだけ視線を落とす。
床に引かれた
簡易の線。
人の動線。
物資の流れ。
全てが、
誰かの判断の上に
成立している。
「……私たちは」
ゆっくりと、
言葉を選ぶ。
「長く、
ここに留まりません」
女は、
すぐに返す。
「それでもいい」
「次が見つかるまででいい」
「“今”が、
一番危ないから」
沈黙。
その言葉は、
正しい。
だから、
厄介だった。
「……代わりは?」
レインが、
問い返す。
女は、
少し困ったように笑う。
「……いません」
「英雄は、
全部を見られない」
「蒼衡は、
切る判断をする」
「あなたたちは」
一拍。
「切らずに、
止めてくれる」
それは、
最大の評価であり、
最大の誤解だった。
ミリアが、
唇を噛む。
「……私たち」
「止めてるつもり、
ないんだけど」
男が、
首を傾げる。
「でも、
止まってる」
その一言で、
場が静まった。
結果だけが、
そこに残る。
「……検討します」
レインは、
それ以上
踏み込まなかった。
約束もしない。
否定もしない。
ただ、
受け取った。
外に出ると、
人の流れは
相変わらず整っていた。
誰も、
指示を出していない。
だが、
誰も迷っていない。
「……これ」
ミリアが、
小さく言う。
「助け合いじゃないよね」
「うん」
レインは、
頷く。
「外注です」
判断を。
責任を。
不安を。
世界は、
それを
静かに手放し始めていた。
そして、
その受け皿に――
《非裁定》が
置かれつつある。
誰かが
そう決めたわけではない。
それでも、
もう始まっていた。
断ろうと思えば、
断れた。
その自覚がある分だけ、
空気は重かった。
「……判断を、
減らしたいんです」
再び訪れた人たちは、
前回より少し増えていた。
人数が増えたわけじゃない。
“関係者”が増えたのだ。
物資担当。
誘導係。
臨時の記録係。
皆、
自分の役割を持っている。
「今の基準だと」
若い男が、
端末を指しながら言う。
「例外処理が多すぎる」
「判断のたびに、
あなたたちを呼ぶことになる」
「だから」
一拍。
「裁量を、
こちらに移してもいいですか?」
その言葉は、
柔らかかった。
権限を奪う、
という言い方ではない。
「任せてもらえないか」
という顔だ。
リュカが、
即座に反応する。
「……裁量、
って?」
「基準の中で、
細かい判断を
現場で決める」
「あなたたちは、
大枠だけ」
「そうすれば、
効率が上がる」
効率。
その言葉に、
誰も反論できない。
実際、
上がる。
ミリアが、
小さく言う。
「……それ、
私たちが
“決めてる”ことになるよね」
男は、
困ったように笑う。
「今も、
そうでしょう?」
その一言で、
何かが決まってしまった。
エルドが、
盾を背負ったまま、
一歩前に出る。
「……任せると」
「責任も、
そっちに行くぞ」
「はい」
即答だった。
「責任は、
引き受けます」
その言葉は、
真面目だった。
だが――
軽かった。
「……引き受ける、
って」
レインが、
静かに言う。
「結果を
受け止める、
という意味ですか?」
男は、
少しだけ考えた。
「ええ」
「判断に従った結果なら」
その答えは、
間違っていない。
だが、
決定的に足りない。
「……それは」
レインは、
視線を逸らさず続ける。
「結果が悪くても、
“正しかった判断”に
なる、という意味ですね」
場が、
静まる。
誰も、
否定しなかった。
否定できなかった。
正しい手順で決めた。
だから、
仕方なかった。
その理屈は、
あまりにも便利だ。
ミリアが、
歯を噛みしめる。
「……それ」
「誰も、
悪くならないやつだ」
「はい」
男は、
うなずく。
「だから、
続けられる」
その言葉で、
全員が理解した。
これは、
一時的な措置ではない。
“続ける前提”の話だ。
レインは、
ゆっくりと息を吐く。
「……私たちは」
一拍。
「判断を、
軽くするために
ここにいるわけではありません」
男は、
少しだけ困った顔をする。
「でも」
「今は、
軽くなっている」
事実だった。
判断を委ねることで、
皆が楽になっている。
だからこそ。
「……これ以上は」
レインは、
はっきりと言った。
「任せられません」
空気が、
わずかに揺れる。
拒否。
それは、
この場で初めて
明確に出された言葉だった。
「……理由は?」
女が、
静かに聞く。
レインは、
答える。
「これ以上進むと」
「判断が
責任から切り離される」
「それは、
必ず誰かを
外します」
沈黙。
反論は、
出なかった。
だが、
納得もされなかった。
「……じゃあ」
誰かが、
ぽつりと言う。
「どうすればいい?」
その問いに、
レインは答えない。
答えがないからではない。
答えてしまえば、
また“決める人”になるからだ。
《非裁定》は、
ここで初めて――
判断を拒否した。
だがそれは、
逃げではない。
境界を引いたのだ。
世界が、
それをどう受け取るか。
その結果は、
まだ出ていない。




