選ぶ人々
朝の鐘は、昨日と同じ音で鳴った。
同じ時刻。
同じ間隔。
同じ高さ。
それなのに、街の空気は、ほんの少しだけ違っていた。
人々が歩く速さが変わったわけじゃない。列が乱れたわけでもない。むしろ整っている。だが、目が――どこか落ち着かない。端末を見る回数が増えた者もいれば、逆に見なくなった者もいる。
「……変な感じだね」
市場の端、煮込み鍋をかき回す老婆が、独り言のように呟いた。昨日までなら「変な感じ」の正体を、端末の表示に求めたはずだ。規程。許可時間。等級。違反の有無。いつもの答えがそこにあるから。
だが、老婆は今日、端末を見なかった。
火が弱い。湯気が薄い。香りが立たない。
それだけの、料理人としての感覚。
「ま、いいさね。……ちょいとだけ」
指先に、淡い火が灯る。
《火花点灯》。
昨日までなら、ここで息が詰まった。許可時間内かどうか、確認してからでなければ怖かった。けれど火は今日、ほんの僅か遅れてついた。遅れた分だけ、老婆は「自分がやった」という実感を強く掴む。
「……遅いねぇ。でも、ついた」
それで終わり。誰も騒がない。誰も止めない。監査官も来ない。市場の雑踏は続き、鍋の湯気は戻る。
小さすぎる成功。
だが、誰かの胸の奥で、何かが音を立てた。
•
荷運びの男は、露店の荷車を押しながら、通りの真ん中で立ち止まった。
車輪が石畳の継ぎ目にかかり、わずかに引っかかる。昨日までなら、ここで端末を見た。筋力補助の使用は許可内か、時間帯は合っているか。許可されていれば使い、許可されていなければ周囲の誰かに頼む。それがこの街の“安全な正解”だった。
だが今日は、男は端末を見なかった。
「……いける気がする」
自分の体調。腕の張り。腰の入れ方。足場。
判断材料は、全部自分の中にあった。
《筋力補助》。
発動はやはり、ほんの一拍遅れた。だが力は乗った。荷車が動く。男は笑ってしまう。誰に向けた笑みでもない。
「……俺、今、自分で決めたな」
それは褒められたわけでも、許可されたわけでもない。自分で決めたことを、自分が認めただけ。それだけのことが、妙に誇らしかった。
周りの露店主たちが、その笑みを見た。
誰かが、端末から目を離した。
•
治癒師の女は、道端に座り込む老人を見つけた。
息が浅い。顔色が悪い。手が冷たい。
端末を見れば、許可は“軽度治癒”まで。規程上の最適解は、巡回医療班を呼ぶこと。対応は数分後――その間に状態が悪化する可能性は、端末の文字には出てこない。
女は、迷った。
迷うこと自体が、罪みたいだった。
この街では、迷う前に答えが与えられるから。
けれど今日は、その“答え”が、ほんの少し遅い。
だから、迷いが入り込む。
迷いが入り込んだ分だけ、人は自分の心臓の音を聞く。
「……私の判断で」
女は、端末を閉じた。
《温和治癒》――出力は、軽度の範囲をわずかに越える。ほんの少しだけ。死角を縫うような、恐る恐るの“選択”。
魔力が流れ、老人の呼吸が整っていく。
周囲の人々が息を呑む。
誰も通報しない。
誰も「規程が」と言わない。
老人が、女の手を握り返した。
「……ありがとう」
その言葉は、規程では発行されない。
端末にも表示されない。
けれど女は、その瞬間はっきり思った。
(私の魔法は、私が使った)
その事実が、胸の奥で熱を持った。
•
監査官たちは、気づいていた。
違反率は上がっていない。
犯罪も増えていない。
街は機能している。
それなのに、現場の感覚だけが、揺れている。
「……今のは、違反だったか?」
端末を見る。数値はグレー。処理は保留。
現場判断――という文字が、端末の片隅に浮かぶ。今まではそこに触れること自体が稀だった。だが今日は、その稀が増えている。
監査官は通り過ぎる。
“正しい処理”が遅れる。
その遅れを、人は見てしまう。
「……監査官が、迷った」
「……迷っていいんだ」
「……じゃあ、俺も」
小さな声が、街に染みていく。
•
宿の窓から、ミリアが市場を見下ろしていた。
「……前線が、できてます」
剣は抜かない。
敵もいない。
それでも、確かに“線”が引かれていく感覚がある。
レインは、机に指を置いたまま、静かに頷く。
「ええ。英雄が立った線じゃない」
「……人が、自分で立った線です」
隣でリュカが、胸元を押さえた。だが苦しそうではない。
「……変だ」
小さな声。
「……街の揺れが、ぼくを引っ張らない」
《位相同調》が、街そのものに呑まれない。むしろ、人々の“迷い”と“決断”の揺れに近い波になっていく。
「……息できる」
リュカのその言葉に、ミリアは安堵を滲ませた。
レインは、淡々と事実を述べる。
「均衡が弱ったからです」
「……均衡は、完璧であることが前提だ」
「完璧じゃなくなった瞬間、支配は緩む」
窓の外では、老婆が鍋をかき回し、荷運びの男が笑い、治癒師の女が自分の手を見つめていた。
壊れてはいない。
まだ崩れてはいない。
けれど――もう、戻らない。
誰かが選んだ。
それを誰かが見た。
見た者が、次に選ぶ。
その連鎖は、静かで、止めにくい。
レインは、窓の外に視線を落とし、低く呟いた。
「……“人に戻る”というのは、こういうことです」
中央監査塔・最深部。
街の喧騒から切り離されたその場所は、音がなかった。
風の音も、人の声も、魔力の揺らぎさえも遮断されている。
白い円卓。
その周囲に座るのは、三人。
名はない。
彼らは「個人」ではなく、均衡そのものの代表だからだ。
円卓の中央に、街全体を模した光の立体図が浮かぶ。
色分けされた魔力導線、能力使用頻度、規程遵守率、因果予測曲線。
だが今、その曲線は――わずかに、だが確実に乱れていた。
「……数値を」
低い声が言う。
即座に応答が返る。
「能力使用違反率、微増。だが統計誤差内」
「犯罪率、横ばい」
「死亡率、変化なし」
「……問題は?」
別の声が重なる。
一拍。
「自主判断率が、上昇しています」
円卓に、赤く細い線が走る。
「……想定外か」
「はい。現行モデルでは、住民は規程に従う前提でした」
「判断は、端末と規程が行う。
人はそれに従うだけ」
三人目が、淡々と告げる。
「……だが今は違う」
「人が、判断している」
沈黙。
それは、この街にとって最大の禁句だった。
「……なぜだ」
「原因は?」
光の立体図が、ズームされる。
一つの点が、浮かび上がった。
「……レイン=アルヴェルト」
その名が出た瞬間、空気がわずかに重くなる。
「《模写理解》保持者」
「……解析結果は?」
「不可」
即答だった。
「能力のコピーではありません」
「術式干渉でもありません」
「因果改竄でもない」
「……なら何だ」
一拍。
「理解です」
三人の視線が、同時に中央へ向く。
「彼は、管理魔導体系を“巨大術式”として把握しました」
「構造・前提・成立条件を、個別ではなく全体で理解しています」
「……だから壊さなかった」
「はい」
別の声が、低く続ける。
「壊せば、敵になる」
「だが彼は、均衡だけを止めた」
「即時性を失わせ」
「完全性を崩し」
「人に判断の余地を与えた」
それは、管理者にとって最悪の手口だった。
「……英雄は?」
「退きました」
「理由は?」
「……“選んだ”ためです」
円卓に、沈黙が落ちる。
英雄とは、本来、選ばない存在だ。
配置され、命じられ、結果を出す。
それが英雄であり、管理の駒だった。
「……問題は、拡大するか?」
「はい」
「人が一度でも自分で判断すれば、次は必ず比較を始めます」
「規程と、自分の判断を」
「比較は、優劣を生む」
「優劣は、疑念を生む」
「疑念は――」
三人目が、静かに言う。
「均衡を崩します」
結論は、すでに出ていた。
「……排除は?」
「不可」
「能力無効化?」
「無意味」
「権限剥奪?」
「彼は、権限の外側にいます」
光の表示が切り替わる。
【対処方針:失敗】
赤文字が、淡々と並ぶ。
「……なら」
最初の声が、ゆっくりと言った。
「均衡の定義を、更新する」
円卓の光が、再構築される。
新たな概念が、浮かび上がった。
【選択後管理フェーズ】
「人が選ぶこと自体は、阻止しない」
「だが、選択の結果を管理する」
「成功した選択は、許可する」
「失敗した選択は、矯正する」
「……それは」
一人が呟く。
「自由に見せかけた、
より深い支配だ」
「そうだ」
否定はなかった。
「だが、それしかない」
「……レインは?」
再び、その名が出る。
「排除できない」
「無視もできない」
「なら」
一拍。
「世界変数として扱う」
「個体ではなく、
環境として」
「彼が理解できる世界を、
更新する」
円卓の中央に、最後の文字が浮かぶ。
【均衡:次段階へ移行】
三人は、立ち上がらない。
命令も出さない。
だがこの瞬間、
世界の運用方針が変わった。
街のどこかで、誰かが選び、
その選択を正しいと思った。
だが、その結果がどう扱われるかは――
もう、人の手を離れつつあった。
均衡は、
新しい顔を持った。
夜。
街は、静かだった。
昼間のざわめきが嘘のように、人々はそれぞれの家に戻り、灯りを落としている。巡回の足音は聞こえる。鐘も鳴る。管理は、まだ生きている。
だが――
均一ではない。
通りの端で、若い男が立ち止まった。昼間、荷車を運んでいた男だ。彼は端末を取り出し、表示を見つめ、それから深く息を吸う。
「……今日は、やめとくか」
能力は使わない。
代わりに、誰かを呼ぶでもない。
自分の腕で、もう一度持ち上げる。
少し重い。
少しきつい。
だが、昼間とは違う感覚がある。
(……選んだのは、俺だ)
結果がどうであれ、その事実だけは揺るがない。男はゆっくりと歩き出す。
その様子を、向かいの家の窓から誰かが見ていた。
見ただけで、何も言わない。
だが――
見た、という事実が残る。
•
治癒師の女は、ベッドに腰掛け、自分の手を見つめていた。
まだ、微かに魔力が残っている。
昼間の感覚が、離れない。
(……怒られなかった)
それは、本来あり得ないはずだった。
違反は違反。
処理は処理。
でも今日は、誰も来なかった。
(……もし、あの人が悪化してたら)
(……私の判断は、間違いだったかもしれない)
不安が、胸を刺す。
だが同時に、別の感覚があった。
(……でも)
(……あのまま待っていたら)
(……もっと後悔してた)
女は、目を閉じる。
正解だったかどうかは、まだ分からない。
だが――
自分で選ばなかった後悔だけは、確実に回避できた。
それで、十分だった。
•
宿の一室。
ミリアは、ベッドに腰を下ろし、剣を膝に置いていた。手入れはしていない。ただ、触れている。
「……静かですね」
「ええ」
レインは、窓際に立ち、街を見下ろしている。
「……でも」
ミリアは、剣先を見つめたまま言った。
「前線が、消えた感じはしません」
「むしろ……」
言葉を探す。
「……増えました」
レインは、振り返らない。
「ええ」
「街中に、
小さな前線が
無数にできています」
それは、剣も魔法も使わない前線。
だが確かに、“立つ”という行為。
リュカが、部屋の隅で膝を抱えながら言った。
「……でも」
「……変だ」
二人が見る。
「……街の揺れ」
「……さっきより、
少し冷たい」
《位相同調》が捉えているのは、街の魔力だけではない。
意図だ。
レインは、静かに頷いた。
「……均衡が、
更新されました」
ミリアの眉が寄る。
「……上層が?」
「ええ」
レインは、ゆっくりと息を吐く。
「選ばせること自体は、
もう止められない」
「だから――」
一拍。
「選択の“結果”だけを
管理する段階に
移行しました」
ミリアが、理解する。
「……失敗したら、
矯正される?」
「ええ」
「成功だけが、
“正解”として
残る」
リュカが、ぎゅっと拳を握る。
「……それ、
もっと怖い」
「ええ」
レインは、否定しない。
「自由に見せかけて、
結果だけを
刈り取る」
「……人は、
選んだつもりで
従うようになる」
部屋に、沈黙が落ちる。
ミリアが、ゆっくり言った。
「……それって」
「前線を、
後ろから
消すやり方ですね」
「ええ」
レインは、窓の外を見た。
灯りが、点々と並ぶ街。
「……だから」
「均衡は、
より深く
壊れます」
リュカが、顔を上げる。
「……壊れるなら」
「……また、
戦う?」
レインは、首を横に振った。
「いいえ」
「次は――」
視線が、鋭くなる。
「破綻点を、
突く」
ミリアが、息を吸う。
「……あるんですね」
「ええ」
レインは、はっきり言った。
「選択後管理は、
万能ではありません」
「……一つだけ」
一拍。
「致命的に
管理できないものが
残ります」
「……何ですか?」
レインは、
淡く、しかし確信を持って答えた。
「“選んだ理由”です」
選択の結果は、数値化できる。
成功か、失敗か。
利益か、損失か。
だが――
なぜそれを選んだかは、管理できない。
街のどこかで、老婆が鍋をかき回している。
若い男が、荷を運んでいる。
治癒師の女が、眠れずに天井を見ている。
彼らは、同じ結果を出すかもしれない。
だが理由は、違う。
「……均衡は」
レインは、静かに続ける。
「理由を
理解できない」
「だから、
いつか必ず――」
言葉を、区切る。
「人に、
追いつけなくなる」
外で、鐘が鳴った。
それはもう、規程を告げる音ではない。
ただ、夜の時刻を知らせるだけの音。
街は、まだ立っている。
均衡も、まだ機能している。
だが――
世界は、
不可逆点を越えた。
レインは、窓を閉め、背を向ける。
「……次は」
「均衡が、
“理由”を
消しに来ます」
ミリアが、剣を握る。
「……前線ですね」
「ええ」
レインは、頷いた。
「今度は――」
一拍。
「世界そのものが、
相手です」




