間に合わなかったら
悲鳴は、遅れて届いた。
正確には――
悲鳴が上がる前から、
嫌な予感だけがあった。
《非裁定》が向かっていたのは、
街の外れにある倉庫街。
最近になって、
宝珠の使用報告が急に増えた場所だ。
「……ここ」
リュカが、足を止める。
「反応、
今まさに跳ねた」
ミリアが、
無言で剣に手をかける。
レインは、
一歩前に出かけて――
止まった。
「待つ」
即断だった。
「まだ、
一線は越えてない」
《残命観測》が、
視界の端で淡く点灯する。
見える。
倉庫の奥。
一人分の“距離”。
魔物化まで、
あと数呼吸。
(……使ったな)
倉庫の中から、
荒い息遣いが聞こえる。
「だ、大丈夫だ……」
男の声。
「ちゃんと……
説明通り……」
その声は、
誰に向けたものでもない。
自分に言い聞かせているだけだ。
宝珠の光が、
壁越しに漏れている。
淡く。
穏やかに。
安全そうに。
「……レイン」
ミリアが、
低い声で呼ぶ。
「前、
出すぎないで」
「分かってる」
レインは、
短く答える。
前に出ない。
裁かない。
選ばせない。
――でも、
退かない。
倉庫の扉の向こうで、
何かが落ちる音がした。
次いで、
呻き声。
骨が、
軋むような音。
《残命観測》が、
一気に警告色へ変わる。
(……早い)
予定より、
一歩。
「行くよ」
レインが言う。
それは命令じゃない。
合図だ。
《非裁定》は、
同時に動き出した。
間に合うかどうかは、
まだ分からない。
だが――
間に合わなかった場合の選択肢だけは、
最初から用意しない。
それが、
彼らの戦い方だった。
息が、
うまく吸えない。
男は、倉庫の床に膝をついていた。
宝珠は、
まだ手の中にある。
離せばいい。
そう思うのに、
指が動かない。
「……っ」
胸の奥が、
熱い。
心臓が、
早すぎる。
(説明通りだ……)
(最初は、
こうなるって……)
露店の言葉を、
必死に思い出す。
「一時的な高揚感があります」
「問題ありません」
実際――
力は出ている。
床を叩いただけで、
木箱が砕けた。
視界も、
やけに冴えている。
(……できる)
(これなら、
俺も……)
だが、
その瞬間。
視界の端に、
黒い筋が走った。
床が、
歪む。
いや――
自分が、
歪んでいる。
「……な、
なんだ……?」
喉の奥から、
音にならない声が漏れる。
皮膚の内側で、
何かが蠢く。
骨が、
広がろうとしている。
(……おか、
しい……)
宝珠が、
強く光る。
応えるように。
力を、
与え続ける。
限界を、
無視して。
(……止まれ)
(止まってくれ……)
だが、
宝珠は止まらない。
“願い”は、
まだ終わっていないから。
そのとき――
倉庫の扉が、
静かに開いた。
風が、
流れ込む。
「……大丈夫」
声は、
落ち着いていた。
男は、
ぼやけた視界で
人影を見る。
フードを被った、
一人。
その後ろに、
さらに数人。
「まだ、
戻れる」
レインの声だった。
《非裁定》は、
一斉に動かない。
前に出ない。
囲まない。
ただ――
“間”に立つ。
《存在係留》。
エルドが、
床に足を踏みしめる。
空気が、
わずかに重くなる。
暴走し始めていた魔力が、
一瞬、足踏みした。
「……離せ」
レインは、
宝珠ではなく、
男を見る。
「それは、
お前を助けない」
男の喉が、
震える。
「……でも……
力が……」
「知ってる」
「だから――
今は俺たちが引き受ける」
ミリアが、
一歩踏み出す。
《踏越位》。
距離だけを、
詰める。
斬らない。
触れない。
だが――
逃げ場を消す。
「……選ばなくていい」
ミリアの声は、
静かだった。
「生きるか、
壊れるかなんて」
「そんなの、
選択じゃない」
男の目から、
涙が落ちる。
「……怖い……」
その言葉と同時に、
身体が大きく揺れた。
限界が、
来る。
《残命観測》が、
レインの視界で
赤く点灯する。
(……今だ)
レインは、
一歩踏み出した。
宝珠に、
手を伸ばす。
魔物化の因果が、
一気に跳ね上がる。
(……間に合え)
宝珠に触れた瞬間、
世界が、軋んだ。
音ではない。
振動でもない。
“繋がり”が、引き延ばされる感覚。
レインの掌に、
冷たい感触が走る。
宝珠は、
抵抗しない。
ただ――
渡そうとする。
力を。
代償を。
次の“支払い先”を。
「……させない」
レインは、
宝珠を握り込んだ。
《因果代償・仮受
(テンポラリー・サクリファイス)》。
二度目は、
本来あり得ない。
だが――
今回は“完全に受けない”。
受けるのは、
魔物化の“直前”まで。
それ以上は、
渡さない。
《因果再配置
(カウザル・リロケーション)》。
因果の向きを、
“発動しない場所”へずらす。
魔物化は、
止まる。
だが――
消えない。
男の身体が、
大きく揺れた。
膨らみかけていた筋肉が、
元の形に戻る。
黒ずんでいた皮膚が、
色を取り戻す。
代わりに――
男は、その場に崩れ落ちた。
「……っ、
は……」
息は荒い。
全身が震えている。
生きている。
だが、
“何もなかった”わけじゃない。
宝珠の光が、
急速に弱まる。
ただの石のように、
床に転がった。
「……助かった?」
男の声は、
かすれていた。
レインは、
即答しなかった。
代わりに、
ミリアが膝をつく。
目線を合わせ、
静かに言う。
「生きてる」
「それだけは、
確か」
「でも……」
言葉を選ぶ。
「もう、
使えない」
男は、
小さく頷いた。
それで十分だった。
《非裁定》は、
誰も勝利宣言をしない。
裁かない。
叱らない。
英雄扱いもしない。
ただ――
間に合った。
倉庫の外で、
夜風が吹く。
その瞬間。
レインの視界が、
一瞬だけ暗転した。
《残命観測》。
胸の奥に、
黒い影。
確実に――
増えている。
(……来るな)
願うように、
息を整える。
ミリアが、
すぐに気づいた。
「……今、
フラついた」
「大丈夫」
即答。
だが、
目を逸らす。
ミリアは、
それ以上追及しなかった。
代わりに、
立ち上がって言う。
「行こう」
「次も、
ある」
《非裁定》は、
倉庫を後にする。
救えた命は、
一つ。
救えなかった“仕組み”は、
まだ残っている。
そして――
代償は、
確実に積み上がっていた。




