安全評価済み
宝珠は、思っていたよりも軽かった。
掌に収まる大きさ。
淡く青い光。
角も棘もない、ただの球体。
露店の男は、
事務的に言った。
「登録済みです」
「安全評価も通ってます」
「使用制限は?」
「ありません」
それが、
一番“おかしい”答えだった。
レインは、
フードを深く被ったまま頷く。
金を渡し、
宝珠を受け取る。
それだけで、
取引は終わった。
誰も疑わない。
誰も止めない。
それが、
今の世界だった。
路地を抜け、
人目の少ない場所へ。
《非裁定》の名は出さない。
蒼衡にも知らせない。
世界機関にも、当然。
――今回は、
ただの使用者だ。
「……さて」
小さく息を吐く。
宝珠を見つめた瞬間、
違和感が走った。
《残命観測》が、
無意識に立ち上がる。
視界の端に、
数値にも言葉にもならない“距離”が浮かぶ。
(……近いな)
魔物化まで。
精神崩壊まで。
取り返しのつかない地点まで。
全部が、
思ったより近い。
だが――
まだ“引き返せる距離”だ。
宝珠は、
静かに光っている。
危険性は、
感じない。
痛みも、
恐怖もない。
「……だから、
タチが悪い」
レインは、
宝珠を握り締めた。
使用方法は、
説明されていない。
だが、
分かる。
“願え”という圧が、
確かにある。
(強さ、じゃない)
(名声でもない)
一瞬だけ、
迷う。
そして――
あえて、選ぶ。
「……見せろ」
宝珠の光が、
一段、強くなる。
同時に、
胸の奥が――
ひどく静かになった。
心拍が、
ずれる。
《残命観測》の視界が、
急に“鮮明”になる。
寿命が、
削られていく感覚。
代償が、
形を持ち始める。
それでも、
まだ抑えられている。
(……来る)
本能が、
告げていた。
このまま進めば、
確実に――
人ではなくなる。
レインは、
歯を食いしばる。
そして、
次の一手を選ぶ準備をした。
闇を暴くために。
自分が、
闇を引き受ける覚悟を決めて。
最初に変わったのは、
身体じゃなかった。
音だ。
遠くの足音が、
近くで鳴っているように聞こえる。
風が、
皮膚を叩く。
視界の輪郭が、
妙にくっきりする。
「……来たか」
レインは、
ゆっくり息を吐いた。
宝珠は、
もう“道具”ではない。
掌の中で、
脈打っている。
《残命観測》が、
完全に起動する。
見える。
寿命が、
線として削れていく。
精神の耐久。
肉体の限界。
魔物化までの距離。
(……思った以上に、
容赦がない)
宝珠は、
願いを叶えている。
ただし――
叶え方を選ばない。
筋力が、
一気に底上げされる。
魔力が、
無理やり通される。
それは“強化”ではない。
置換だ。
足りない部分を、
別の何かで埋めている。
「……人間を、
素材にして」
喉の奥が、
熱くなる。
鼓動が、
速すぎる。
視界の端で、
黒い滲みが揺れた。
(魔物化、
開始ライン……)
《残命観測》が、
警告を上げる。
あと数歩。
あと一呼吸。
ここで止めなければ、
戻れない。
それでも――
レインは、
宝珠を離さなかった。
「……見える」
願いが、
どう処理されているか。
どこが、
削られているか。
何が、
“後払い”に回されているか。
そして――
その後払いが、
誰に向かうのか。
「……なるほど」
口元が、
わずかに歪む。
宝珠は、
使用者に払わせている。
だがそれだけじゃない。
周囲。
世界。
“次”に触れる者。
代償は、
連鎖する。
だから――
事故が増える。
「……なら」
レインは、
一歩踏み出した。
危険は、
理解している。
逃げ道も、
分かっている。
それでも、
選ぶ。
「今は――
俺が払う」
《因果代償・仮受
(テンポラリー・サクリファイス)》。
発動。
本来、
宝珠が使用者に課すはずだった
因果的代償。
魔物化。
精神侵食。
存在変質。
それらが、
一気に――
レインへ流れ込む。
視界が、
白く弾ける。
膝が、
地面に落ちる。
喉から、
息にならない音が漏れた。
(……重い)
(だが――
受け切れる)
《残命観測》の視界が、
さらに鮮明になる。
代償の正体。
構造。
送り先。
宝珠の“裏”が、
はっきりと見え始める。
だが同時に、
身体が悲鳴を上げた。
これは、
一時凌ぎ。
後払いは、
確定している。
連発は、
不可能。
(……ここまでだ)
レインは、
歯を食いしばり、
宝珠を見据えた。
闇は、
確かに――
そこにある。
闇は、
意思を持っていなかった。
それが、
一番の答えだった。
《因果代償・仮受
(テンポラリー・サクリファイス)》の影響で、
世界の輪郭が“ずれて”見える。
宝珠の内部構造。
魔力の流れ。
願いが叶う瞬間に、
何が起きているか。
全部、
見えてしまった。
「……選別、
じゃない」
宝珠は、
裁いていない。
選んでもいない。
ただ――
足りない部分を、
別の何かで埋めている。
力が欲しければ、
寿命を。
結果が欲しければ、
過程を。
安心が欲しければ、
“次に払う者”を。
代償は、
常に後ろへ送られる。
使用者が耐えられなければ、
周囲へ。
周囲が耐えられなければ、
次の使用者へ。
だから――
事故は連鎖する。
魔物化は、
失敗ではない。
仕様だ。
「……ひどい話だ」
誰も、
直接殺していない。
誰も、
強制していない。
それでも、
必ず誰かが壊れる。
宝珠は、
“安全評価済み”の顔をして
世界に広がっている。
《残命観測》が、
レイン自身の未来を映す。
寿命は、
確実に減っている。
代償は、
まだ払われていない。
後払い。
確定。
(……これを、
全部止めるのは無理だ)
理解してしまう。
今は、
もう。
世界は、
宝珠を選んだ。
だから――
やるべきことは一つだけ。
「……裁かない」
「壊さない」
「でも――
見せる」
宝珠が、
何をしているか。
誰が、
払っているか。
どれだけ、
後回しにされているか。
レインは、
宝珠をそっと置いた。
光は、
もう弱まっている。
代償を引き受けた分、
静かだ。
だが――
それは一時的なもの。
身体の奥で、
確かに“残り”が蠢いている。
《因果代償・仮受》の後払い。
いつ来るかは、
分からない。
だが必ず、
来る。
レインは、
フードを深く被った。
《非裁定》として、
まだ動かない。
今は、
材料が足りない。
けれど――
闇は、掴んだ。
遠くで、
また宝珠が光る。
誰かの願いが、
叶う音がした。
それを聞きながら、
レインは静かに歩き出す。
次は、
一人じゃない。




