耐えられない者から、壊れる
限界は、音を立てて来なかった。
《勇者》を名乗る剣士は、
世界機関の控室で椅子に座り、
ただ天井を見つめていた。
呼吸が浅い。
胸の奥が、ずっとざわついている。
(……また、間に合わなかった)
今日だけで三件。
鎮圧要請。
英雄と蒼衡が後詰めに回り、
《非裁定》が立つ場所を作った。
――自分たちは、
追いついていない。
「……大丈夫か?」
魔術師が、
不安そうに声をかける。
剣士は、
即座に顔を背けた。
「問題ない」
「俺たちは、
ちゃんとやってる」
言葉にすると、
余計に薄くなる。
斥候が、
苛立ちを抑えきれずに言った。
「限界だろ」
「数も、規模も、
もう俺たちの手に負えない」
「英雄に――」
「呼ぶな」
剣士の声が、
鋭くなる。
「今、呼んだら終わりだ」
「俺たちは、
“必要な存在”でいられなくなる」
僧侶が、
苦しそうに目を伏せる。
「……人が、死んでる」
「分かってる!」
剣士は、
机を叩きそうになり、
寸前で止めた。
(落ち着け)
(まだだ)
(俺は、
英雄じゃないが……)
そのとき。
控室の隅で、
影が揺れた。
「ほっほ……」
聞き慣れた声。
例の老人が、
そこに立っていた。
「随分と、
苦しそうじゃのぉ」
剣士は、
立ち上がり、
詰め寄る。
「……話が違う」
「管理できるって言っただろ」
「抑えられるって!」
老人は、
慌てない。
「抑えられとる」
「お主らが、
ここまで来られたのが証拠じゃ」
「……じゃあ、
なぜ追いつかない!」
老人は、
一歩だけ近づいた。
声を落とす。
「“力”が足りんのじゃ」
その言葉が、
胸に突き刺さる。
「宝珠だけでは、
足りん」
「英雄と同じ舞台に立つには――
“もう一段”いる」
老人の手に、
小さな瓶が現れる。
濁った、
黒に近い赤。
「秘薬じゃ」
「一時的に、
英雄並みの力を得られる」
魔術師が、
即座に声を上げる。
「待て!」
「それ、
どういう代償だ!」
老人は、
穏やかに答えた。
「代償など、
いつも払っとる」
「疲労」
「消耗」
「責任」
「それと、
大差はない」
僧侶が、
首を振る。
「危険すぎる……」
剣士は、
瓶から目を離せなかった。
(英雄並み)
(追いつける)
(間に合う)
(必要とされ続ける)
「……俺が使う」
その言葉に、
部屋の空気が凍る。
「やめろ!」
「お前だけの問題じゃない!」
斥候が叫ぶ。
だが、
剣士は一歩前に出た。
「だからだ」
「俺だけで済むなら、
それでいい」
瓶を、
握り締める。
「間に合わなかった世界を、
俺はもう見たくない」
老人は、
何も言わなかった。
ただ、
満足そうに目を細める。
秘薬の栓が、
静かに外された。
秘薬は、苦かった。
喉を焼くような感覚が走り、
剣士は思わず膝をつく。
「……っ!」
視界が歪む。
音が、遅れて届く。
心臓の鼓動が、
一拍ごとに重くなる。
だが――
次の瞬間。
世界が、
はっきりと見えた。
「……なんだ、これ」
立ち上がる。
床が、
軋む。
軽く踏み込んだだけで、
空気が揺れた。
魔術師が、
息を呑む。
「……英雄、
並み……」
剣士は、
自分の手を見下ろした。
震えていない。
疲労も、
恐怖もない。
(……いける)
警報が鳴る。
魔物化。
市街地。
「来たな」
剣士は、
剣を抜いた。
走る。
今までよりも、
明らかに速い。
距離が、
意味を失う。
現場に着いた瞬間、
魔物が咆哮する。
だが――
その声が、
途中で止まった。
剣士の一撃が、
魔物を地面に叩き伏せたからだ。
「……終わりだ」
次の一撃。
次の一撃。
力は、
応えてくれる。
被害は、
抑えられる。
逃げ遅れた住民を、
片手で引き寄せる。
瓦礫を、
投げ捨てる。
「すげぇ……」
誰かが、
呟いた。
「やっぱり、
勇者だ……!」
拍手が起きる。
歓声が上がる。
「勇者様!」
「ありがとう!」
その声が、
胸に染み込む。
(……これだ)
(これが、
必要とされるってことだ)
仲間たちが、
駆け寄ってくる。
「抑えられてる……」
「被害、
最小限だ!」
僧侶が、
安堵の息を吐く。
だが――
剣士は、
その奥で異変を感じていた。
呼吸が、
深すぎる。
血が、
熱い。
視界の端で、
何かが揺れる。
(……まだだ)
(今は、
大丈夫だ)
遠くで、
別の警報が鳴る。
「次だ!」
剣士は、
即座に走り出す。
英雄のように。
英雄以上に。
誰も、
止められなかった。
街は、
救われていく。
被害は、
確かに抑えられている。
その夜。
世界機関に、
速報が入る。
《勇者、
大規模被害を単独で抑制》
《英雄級の戦果》
《民衆の支持、
急上昇》
報告書を見て、
誰かが言った。
「……やはり、
必要な存在だ」
剣士は、
屋根の上で空を見上げる。
息が、
白くなるほど荒い。
拳を、
握り締める。
「……まだ、
いける」
だが足元で、
影が――
わずかに歪んだ。
限界は、
英雄の顔をしてやってきた。
二件目。
三件目。
剣士は、
まだ立っていた。
だが――
身体が、言うことを聞かない。
呼吸が、
肺を裂く。
血が、
煮え立つ。
(……まだだ)
(まだ、
必要とされてる)
剣を振る。
一撃で、
魔物が吹き飛ぶ。
――だが。
次の瞬間、
剣士の足が止まった。
視界が、
赤く染まる。
「……?」
地面に、
影が落ちる。
いや――
影が、増えている。
背中が、
熱い。
骨が、
軋む。
「……っ、
やめ……」
声が、
途中で潰れた。
咆哮。
人の声ではない。
皮膚が、
黒く変質する。
腕が、
異様に肥大する。
魔物化。
「……そんな……」
仲間たちが、
立ち尽くす。
「秘薬の……
副作用……?」
剣士は、
振り返った。
もう、
言葉はない。
だが――
襲いかかろうとした瞬間。
「――止まれ」
静かな声。
前に出たのは、
レインだった。
《非裁定》。
裁かない。
退かない。
選ばせない。
エルドが、
盾を突き立てる。
《存在係留》。
ミリアが、
踏み込む。
《踏越位》。
剣士――
いや、魔物は、
動けなくなる。
「……っ、
殺す……な……」
かろうじて、
声が戻る。
「殺さない」
レインは、
即答した。
「倒すだけだ」
一撃。
《非裁定終閉》。
力は、
切られない。
因果も、
壊されない。
ただ――
暴走だけが、止まる。
魔物の輪郭が、
崩れる。
肉体が、
人の形に戻っていく。
そして――
地面に転がったのは。
全裸の、男だった。
剣士だった者。
街のど真ん中。
沈黙。
次の瞬間、
笑いが起きた。
「……は?」
「なに、
あれ……」
「勇者、
だったんじゃ……」
剣士は、
震えながら身体を抱きしめる。
英雄たちが、
前に出る。
ヴァルハルトが、
低い声で言った。
「……説明しろ」
ライザが、
目を逸らす。
「秘薬だな」
逃げ場は、
なかった。
剣士は、
崩れ落ちる。
「……俺は……」
「魔族が……」
「秘薬を……」
「宝珠も……」
すべて、
吐いた。
その場で、
事件は“終わった”ように見えた。
だが――
誰も、
安堵しなかった。
宝珠は、
残っている。
制度も、
動いている。
翌朝。
街外れで、
死体が見つかった。
剣士だった者の。
外傷は、
ない。
表情は、
歪んだまま。
「……事件だ」
蒼衡が、
即座に動く。
レインは、
死体を見下ろす。
《非裁定》として。
「……終わってない」
「これは、
始まりだ」
世界は、
ようやく“事件”として
動き出した。




