英雄は、そんなこと言わない
広場は、人で埋まっていた。
昨日よりも多い。
一昨日よりも騒がしい。
《ブレイブ・ノヴァ》の名は、
もはや噂ではなく“期待”になっていた。
「勇者様が来るぞ!」
「今日は何を討伐するんだ?」
「次はどこの街を救うんだ?」
演壇に立つのは、
もちろん彼らだ。
剣士が胸を張り、
大きく腕を広げる。
「皆の衆!」
「安心してほしい!」
「我々は――
英雄たちから“認められた”存在だ!」
どよめき。
「英雄ライザ!」
「英雄ヴァルハルト!」
「彼らは我々に、
世界を任せると言った!」
拍手。
歓声。
期待。
その空気を――
真っ向から切った声があった。
「言ってないな」
一瞬で、音が落ちた。
人垣が、自然に割れる。
そこに立っていたのは、
剣を携えた男。
ライザ=クロウデルだった。
英雄本人。
酒場でも、戦場でもない。
公の場で、
誰の背後にも立たず、
ただ一人で。
「一言も、言ってない」
勇者パーティの剣士が、
一瞬だけ言葉に詰まる。
「な……」
「え?」
ライザは、
露ほども興味なさそうに続けた。
「俺は誰にも、
“代わりを任せる”なんて言ってない」
「英雄の名を使っていいとも」
「俺の意思を継げとも」
「勝手に語っていいともな」
広場が、
ざわり、と揺れた。
剣士は、慌てて声を張る。
「そ、そんなはずは――!」
「俺たちは!
英雄の精神を――!」
「精神?」
ライザは、
小さく首を傾げる。
「俺の精神って、
何だ?」
沈黙。
誰も答えられない。
勇者パーティの魔術師が、
必死に割り込む。
「だ、だからこそ!」
「我々は力を示して――」
「力?」
今度は、
ヴァルハルト=レオンが一歩前に出た。
剣を抜かない。
構えない。
ただ、立つ。
「お前たち、
昨日の魔物を倒したと言ったな」
「は、はい!」
「勇者の名にかけて!」
ヴァルハルトは、
淡々と言う。
「俺なら、
あれは“訓練未満”だ」
観衆が、
息を呑む。
剣士の顔が赤くなる。
「な、なんだと……!」
「英雄だろうが何だろうが、
俺たちは――!」
彼は、
ライザを指差した。
「なら証明してやる!」
「俺たちが本物の勇者だって!」
「決闘だ!」
その言葉に、
広場が一気に沸いた。
ライザは、
一瞬だけ目を細め――
そして、
心底どうでもよさそうに言った。
「……いいぞ」
ヴァルハルトが、
ぼそっと付け加える。
「武器は要らん」
「え?」
「――俺は、
指一本で足りる」
勇者パーティの剣士は、
その意味を理解していなかった。
まだ。
人々は、
“英雄対勇者”という
分かりやすい構図に酔っている。
レインは、
人混みの後ろで思った。
(ああ……)
(これは、
恥をかく)
しかも――
徹底的に。
決闘の準備は、拍子抜けするほど簡単だった。
線が引かれただけの地面。
審判もいない。
規則もない。
だが、観衆は勝手に盛り上がっていく。
「勇者が勝つに決まってる!」
「だって数が違うぞ!」
「英雄だって、いつまでも最強じゃない!」
剣士は剣を抜いた。
新品同様の刃が、陽光を反射する。
「後悔するなよ、英雄!」
ライザは、剣を置いたまま前に出た。
手ぶら。
鎧も着ていない。
「……それで?」
その態度に、
剣士の顔がさらに赤くなる。
「なめやがって!」
合図もなく、剣士が踏み込んだ。
速い。
確かに、下っ端冒険者としては上出来だ。
だが――
英雄の前では、前提が違う。
ライザは、動かなかった。
剣が振り下ろされる瞬間。
「――はい」
乾いた音。
デコピンだった。
額に、軽く。
それだけ。
剣士の身体が、
前のめりに崩れ落ちる。
ズザァ、と土を擦る音。
一秒。
二秒。
剣士は、
ぴくりとも動かない。
「……え?」
誰かが、
間の抜けた声を出した。
静寂。
次の瞬間、
観衆の理解が、
一斉に追いつく。
「……終わり?」
「今の……指?」
「剣、当たってない……」
魔術師が、
顔を青くして叫ぶ。
「ま、待て!」
「今のは不意打ちだ!」
ヴァルハルトが、
一歩前に出る。
「不意打ち?」
低い声。
「――俺が、
何をした?」
魔術師は、
言葉を失った。
僧侶が、
震える声で言う。
「か、回復を……」
イリスが、
静かに首を振る。
「必要ありません」
「気絶しているだけです」
「……英雄の慈悲で」
その一言が、
決定打だった。
観衆の視線が、
完全に変わる。
尊敬でも、期待でもない。
現実を見る目だ。
ライザは、
倒れた剣士を一瞥し、
興味を失ったように言った。
「次」
勇者パーティの誰も、
前に出なかった。
出られるはずがない。
英雄と自分たちの間にある
“深さ”を、
今、理解してしまったからだ。
誰かが、
小さく呟いた。
「……英雄って、
ああいうのだよな」
拍手は、起きなかった。
代わりに、
ため息が広場を満たした。
“期待”が、
音を立てて崩れる音だった。
倒れた剣士は、しばらくして呻いた。
「……っ、ぐ……」
意識は戻った。
だが、立ち上がれない。
僧侶が駆け寄ろうとして、止まる。
周囲の視線が、それを許さなかった。
「……回復、するの?」
誰かの小さな声。
僧侶は、手を引っ込めた。
「……い、今は……」
その瞬間、
勇者パーティという“肩書き”が、
音を立てて剥がれ落ちた。
魔術師が、慌てて声を張る。
「ま、待ってくれ!」
「これは演出だ!」
「本気を出す前の――」
「演出?」
ライザが、
ほんの少しだけ眉を上げた。
「命が賭け金の場所で、
演出はやらない」
それ以上は、言わない。
説明もしない。
叱責もしない。
“英雄がそう言った”
それだけで十分だった。
観衆の中から、
誰かが言った。
「……英雄は、
デコピンで終わらせるんだな」
笑いは起きない。
失笑すらない。
ただの、理解だ。
「もういいだろ」
ヴァルハルトが、
低く言った。
「見世物は終わりだ」
その言葉で、
人々は興味を失ったように散り始める。
英雄の背中を追う者。
露店へ戻る者。
夕飯の話を始める者。
誰も、
《ブレイブ・ノヴァ》を見ていない。
剣士は、
地面に座り込んだまま呟く。
「……違う……」
「俺たちは……選ばれたはず……」
その言葉は、
誰にも届かなかった。
レインたちは、
人混みの外れでそれを見ていた。
ミリアが、
小さく肩をすくめる。
「終わったね」
「うん」
レインは、
それ以上の感想を持たない。
リュカが言う。
「英雄の名前って、
借り物だと重さに耐えられないんだね」
「立ってないからな」
エルドの言葉は、
短いが正確だった。
ジル爺が、
遅れて歩いてくる。
「ほっほ……」
「安売りした看板は、
風に弱い」
剣士たちの横を通り過ぎながら、
ちらりと一瞥する。
「じゃが、
恥をかいた者はの……
次に“近道”を探しよる」
レインが、
その言葉を胸に留める。
通りの向こう。
夕暮れの露店跡。
誰もいないはずの場所に、
淡く光る小さな珠が、
一つだけ転がっていた。
今は、まだ拾われない。
だが――
安い希望は、
いつも人の足元に転がる。
英雄ビジネスは、
ここで終わった。
次に始まるものが、
何かは――
まだ、誰も知らない。




