削られた理由
「そう来るかの――」
ジル爺の喉が、微かに鳴った。
背後で“過去”が削られていく。
戦場の匂い。失った仲間の声。積み重ねた年月。
それらが、砂を払うみたいに軽く、静かに消えていく。
不思議なことに、恐怖はなかった。
ただ――腹の底が、少しだけ冷えた。
(……なるほど)
ジル爺は、ゆっくり息を吐く。
(わしを殺すのではない)
(わしが立つ理由そのものを、消しに来とる)
《断絶裁定》は無言だった。
否、無言ですらない。
“不要な工程”を最初から持っていない。
それでも、ジル爺は笑った。
「賢いのぉ」
笑いながら、杖を握り直す。
《位相固定》。
地面が軋む。
世界が、わずかに押し返される。
理由を削られても、“立っている結果”だけは残る。
この瞬間だけは、残せる。
だが次の瞬間――
《断絶裁定》が、処理の方向を変えた。
過去ではない。
今でもない。
“これから”を、削る。
ジル爺の視界が一瞬、白む。
未来の枝が、薄く剥がされる感覚。
次の一歩。次の呼吸。次の《因果遮断》。
それらが「起こる前提」ごと失われていく。
「……ほう」
膝が、また沈む。
効いているのは圧縮ではない。
“続けられる”という前提が削られている。
(長引かせれば負ける)
(このままでは、わしが先に尽きる)
ジル爺は、杖先をほんの少し下げた。
――撤退ではない。
“時間を稼ぐ形”へ切り替える。
「若造の癖に、やることが陰湿じゃの」
小さく毒づきながらも、頭の中は冷えていた。
ここで無理に勝ちに行けば、戦場が壊れる。
世界が歪む。
それより何より――
(あやつが“学ぶ時間”を与えることになる)
ジル爺は理解していた。
この敵は、倒されるほど強くなる。
勝つほどに、次の災厄になる。
だから――
「……急がせるしかないか」
ジル爺は、杖を地面に突き立てた。
《因果遮断》。
一度きり。
順番を狂わせるだけの、短い一拍。
《断絶裁定》の処理が、ほんの僅かに遅れる。
その遅れを、ジル爺は“伝言”に変えた。
空気が震え、音もなく、遠くへ走る。
結界でもない。通信でもない。
ただ、「気配」として届くはずのもの。
――非裁定。
(立てる理由を、技に落とせ)
(わしの時間は、長くない)
《断絶裁定》が動く。
遅れを取り戻すように、世界が再び折れ始める。
ジル爺は、杖を握ったまま笑った。
「さぁて……間に合うかの」
折れた世界の縁で、老賢者は一歩を踏み出す。
勝ちに行くのではない。
“終わらせない”ために。
そして、その沈黙の向こうで――
非裁定の四人が、同じ瞬間に顔を上げた。
結界の内側。
ジル爺が去った後の空間は、奇妙なほど静かだった。
張り詰めていた緊張が解けたわけではない。
むしろ逆だ。
「……行ったな」
ミリアが、短く息を吐く。
冗談めかした口調だったが、視線は前を向いたままだ。
誰一人、ジル爺が向かった方向を振り返らなかった。
振り返らない――
それ自体が、答えだった。
「追わない、か」
リュカが、確認するように言う。
レインは頷いた。
「追えない、でもある」
《戦場演算》が静かに回る。
だが、そこに“勝率”や“最適解”は表示されない。
(……ここから先は)
(計算じゃない)
エルドが、盾を肩から外し、地面に立てかけた。
「……俺たち、変わったな」
誰に向けた言葉でもない。
「前ならさ」
「こういう時、誰かが前に出て」
「誰かが命令して」
「誰かが守ってた」
盾の縁に、指をかける。
「でも今は……」
「誰が前に出るか、決まってない」
ミリアが、鼻で笑う。
「決まってない、じゃない」
一歩、前に出る。
「決めなくていい、だ」
レインは、その言葉を否定しなかった。
(選ばせない、じゃない)
(選べないように、固定しない)
それが、修行で掴んだ感覚だった。
「……試してみるか」
レインが言う。
「本番前の、最終確認だ」
リュカが頷き、周囲を見回す。
「敵は?」
「想定でいい」
レインは目を閉じた。
「究極逸脱個体」
「断絶裁定と、同系統」
「“結論を先に出す存在”」
空気が、わずかに張り詰める。
だが、誰も構えない。
ミリアは剣を抜かない。
エルドは盾を持たない。
リュカも、戦域把握を全展開しない。
「……来るぞ」
レインの声が落ちた瞬間。
空間が、歪んだ。
視界が一瞬、上下を失い、
“立っている場所”の意味が薄れる。
――断絶裁定の、模擬。
「っ」
エルドが、一歩だけ踏み出す。
だが、前に出ない。
ただ、そこに“居る”。
その瞬間、歪みがエルドを中心に流れを変えた。
「……効いてる」
リュカが、即座に判断を捨てる。
配置を組まない。
最適を探さない。
「ミリア、今」
「分かってる」
ミリアは一歩、横へ。
斬るためではない。
遮るためでもない。
“道を作る”位置。
歪みが、そこを避けるように流れる。
「レイン」
リュカが言う。
「決めるな」
「分かってる」
レインは、《因果遮断》を使わない。
代わりに、ほんのわずか――
因果の“繋がり”だけをずらす。
結果を消さない。
成立を遅らせる。
歪みは、空間に留まりきれず、霧散した。
静寂。
誰も、勝利を宣言しない。
だが――
「……行けるな」
ミリアが、口角を上げる。
エルドが、盾を持ち上げる。
「うん」
「俺、前に立たなくても、立てる」
リュカが、小さく息を吐いた。
「全体最適じゃなくていい」
「崩れても、戻せる」
レインは、仲間を見る。
(完成、ではない)
(でも――)
「ジル爺が稼いだ時間」
「無駄にはしない」
四人は、同時に前を向いた。
修行は、終わっていない。
だが――準備は、終わった。
世界の歪みは、静かに収束していた。
だがそれは、消えたのではない。
“集まっている”。
レインの《戦場演算》が、
はっきりと「一点集中」を示していた。
「……来てる」
誰かが言う前に、全員が理解する。
ジル爺。
《断絶裁定》。
二つの“立つ理由”が、
同じ地点へ向かっている。
「間に合う?」
ミリアが、短く聞く。
レインは一瞬だけ目を閉じ、演算を止めた。
「……行こう」
答えは、それだけだった。
⸻
移動は、速かった。
だが急がない。
誰も、先頭に立たない。
エルドが盾を構えるが、前に出ない。
リュカは索敵を広げるが、決め打ちしない。
ミリアは剣を抜かず、歩調だけを合わせる。
そしてレインは――
判断を、保留し続ける。
《非裁定》の形。
「……見えた」
森を抜けた先。
空間そのものが“割れている”地点。
そこに――
ジル爺は、立っていた。
膝を折らず。
倒れず。
だが、確実に“削れている”。
対峙する存在。
《断絶裁定》。
すでに、世界の法則が一段階下がっている。
重力も、距離も、意味を保てていない。
「……来たか」
ジル爺が、笑う。
振り返らない。
だが、声は確かに届いた。
「ちょうど良いところじゃ」
次の瞬間。
《断絶裁定》が、動いた。
音はない。
攻撃という概念すら、遅れてくる。
“結論”だけが、先に落ちる。
《処理対象:集団》
《排除優先度:最高》
世界が、四人を拒絶する。
だが。
「――今だ」
レインが、言った。
《因果遮断》ではない。
切らない。
繋ぐ。
成立しかけた結論を、
“未確定”のまま留める。
「エルド!」
「立つ!」
エルドは、前に出ない。
ただ、そこに居る。
拒絶された空間が、エルドを“基準”に再配置される。
「ミリア!」
「道、作る!」
一閃。
斬撃ではない。
進行方向の“選択肢”を開く剣。
「リュカ!」
「判断、捨てた!」
《戦域把握》が、
最適解を出さずに“余白”だけを残す。
《断絶裁定》の演算が、初めて遅れた。
――集団。
――役割未固定。
――結果未決定。
《非裁定》。
「……来たの」
ジル爺が、初めて振り返る。
その目に、確かな光が宿る。
「上出来じゃ」
だが、次の瞬間――
ジル爺の身体が、わずかに傾いた。
時間の限界。
《断絶裁定》は、それを見逃さない。
《最適解》
《老個体の寿命消費、完了間近》
圧が、集中する。
「ジル爺!」
ミリアが、叫ぶ。
だが、ジル爺は手を上げた。
「慌てるな」
「これは――」
一歩、前へ。
「若いもんの戦場じゃ」
杖を、地面に叩きつける。
《位相固定》最大展開。
老賢者の存在が、
“ここに立っていた”という事実だけになる。
「行け」
短い言葉。
レインは、迷わなかった。
「……行こう」
四人は、同時に前へ。
《断絶裁定》の視界に、
新しい分類が追加される。
《対象:非裁定》
《特性:立ち位置変動》
《危険度:未確定》
――初めての、未知。
その瞬間。
世界は、完全に戦場へ変わった。
次の一手で、
誰かが倒れるかもしれない。
だが――
誰一人、退かなかった。
戦いは、ここから始まる。




