老いは答えではない
世界が、沈黙していた。
音が消えたわけではない。
風もある。瓦礫も崩れ落ちている。
だが――
意味のある音だけが、消えていた。
《断絶裁定》は、そこに在った。
山の頂でもなく、谷底でもない。
地形の“意味”そのものが薄れた場所。
距離の概念が曖昧で、
上下すら確定していない空間。
それでも、老賢者は立っていた。
杖を地面に突き、
背筋を伸ばし、
逃げるでも、構えるでもなく。
「……静かじゃの」
ジル爺は、独り言のように言う。
《断絶裁定》は応えない。
応答は不要。
対話は非効率。
《処理対象:老個体》
《排除優先度:高》
《推定抵抗時間:短》
結論は、すでに出ている。
次の瞬間。
世界が、折れた。
音ではない。
衝撃でもない。
“ここに在る”という前提が、
一枚の紙のように畳まれる。
だが。
「……ほれ」
ジル爺の足元で、
因果が一拍、遅れた。
《因果遮断》。
完全な否定ではない。
ただ、“成立する順番”を狂わせるだけ。
折れた空間が、遅れて崩れる。
ジル爺は、その“遅れ”の中に立っていた。
「判断が早すぎるのは、若造の悪い癖じゃ」
《断絶裁定》の視界に、
新しい演算項目が追加される。
《対象特性:時間干渉》
《演算補正:要調整》
即座に、第二の処理。
今度は空間ではない。
存在密度の圧縮。
老賢者の周囲、半径数十メートル。
空気が重なり、
光が曲がり、
重力が“選ばれた方向”へ落ちていく。
「……ほう」
ジル爺の膝が、わずかに沈む。
「これは、効くの」
杖を、両手で握り直す。
地面に、ひびが走る。
《位相固定》。
自分が“立っている”という結果だけを、
無理矢理、世界に押し付ける。
老いを理由に、膝を折らない。
「じゃがな」
ジル爺は、静かに言う。
「お主は、急ぎすぎじゃ」
《断絶裁定》が、一瞬だけ動きを止める。
停止ではない。
再計算だ。
老賢者の行動は、
すべてが“結果優先”。
原因を潰しても、
結果だけが立ち続ける。
――非効率。
《処理方法、変更》
《老個体を“倒す”のではない》
《老個体の“立つ理由”を消去》
次の瞬間。
ジル爺の背後――
過去が、切り取られた。
かつて立っていた戦場。
失った仲間。
積み重ねた時間。
それらが、“不要な情報”として削られる。
「……っ」
初めて、ジル爺の喉が鳴る。
「そう来るかの」
だが、倒れない。
思い出が消えても、
立ってきた事実は消えない。
「老いはの」
一歩、踏み出す。
「減ることじゃない」
杖が、地面を叩く。
「削った分、軽くなるだけじゃ」
《断絶裁定》の演算が、再び遅れる。
――例外。
――未登録。
老賢者は、笑った。
「良い目をしとる」
「じゃが」
一拍、置く。
「ワシはまだ、終わっとらん」
世界が、再び軋む。
この戦いは、
まだ序章にすぎない。
《断絶裁定》の周囲で、
空間の“再計算”が加速していく。
老個体。
時間干渉。
結果優先。
どれも、想定外ではない。
だが――
《処理効率:低下》
《理由:対象が“結果を捨てていない”》
「……理解できん」
《断絶裁定》は、初めて“疑問”に近いものを生成した。
老賢者は、
勝つために立っていない。
生き残るためでもない。
ただ、立ち続けている。
「ほれ」
ジル爺が、杖を軽く振る。
次の瞬間、
《断絶裁定》の足元で、
“到達予定だった結果”が消えた。
踏み込むはずだった一歩。
発動するはずだった圧縮。
それらが、
起こらなかったことになる。
《因果遮断》。
だが、単発ではない。
連続。
歪み。
無理矢理。
「……無茶をしとるの」
ジル爺自身が、そう理解している。
胸の奥が、軋む。
呼吸が、わずかに重い。
《断絶裁定》は、その変化を見逃さない。
《対象寿命:減少》
《演算結果:長期戦、優位》
即座に、圧力を上げる。
今度は、世界そのものを使わない。
概念の分解。
「立つ」
「守る」
「待つ」
そういった“人間側の言葉”が、
周囲から削られていく。
立っている理由が、薄れる。
守る意味が、希薄になる。
「……ほう」
ジル爺は、口元を歪めた。
「言葉を消すか」
杖を、強く地面に突く。
《位相固定・強制》。
意味が消えても、
姿勢だけは崩さない。
だが。
「……っ」
膝が、わずかに沈む。
老いではない。
怪我でもない。
時間が、削れている。
《断絶裁定》は理解した。
この老個体は、
世界を壊さない代わりに、
自分を削っている。
《最適解》
《寿命消費が臨界に達するまで、圧を継続》
「……それが正解じゃろうな」
ジル爺は、苦笑する。
「ワシ一人なら、な」
視線を、遠くへ。
結界の向こう。
まだ見えないが、確かに感じる。
“揃った”気配。
「じゃが」
ジル爺は、杖を持つ手に力を込める。
「時間を稼ぐだけなら――」
《因果遮断》が、再び展開される。
だが、先ほどよりも粗い。
持続も短い。
《断絶裁定》の演算が、一瞬、乱れる。
その隙に、
ジル爺は後退した。
逃げではない。
撤退でもない。
“役目を終えた位置”へ戻る動き。
「……覚えとけ」
老賢者は、静かに告げる。
「お主は、強い」
「じゃが」
「独りじゃ、世界は終わらせられん」
《断絶裁定》は追わない。
追撃は可能。
だが、最適ではない。
《次工程》
《処理対象:非裁定》
《理由:集団化による不確定性》
老賢者の姿が、
因果の隙間に溶ける。
残された《断絶裁定》は、
空を仰いだ。
――次は。
――結論を、外から壊す。
その頃。
結界の内側で、
非裁定は、
“立つ準備”を終えつつあった。
結界の内側。
空気が、明確に変わった。
張り詰めていた圧が、ゆっくりとほどけていく。
だがそれは、安心ではない。
ただ――**“猶予が生まれた”**だけだ。
「……戻った」
最初に気づいたのは、リュカだった。
結界の縁。
歪みの中から、ジル爺が現れる。
足取りは、いつも通り。
背筋も伸びている。
だが。
レインの《模写理解》は、はっきりと捉えていた。
(……減ってる)
(寿命、じゃない)
(“使える時間”そのものが)
ミリアが駆け寄ろうとして、止まる。
「……ジル爺」
「近づくな」
珍しく、きっぱりと言った。
「今のワシは、触ると危険じゃ」
冗談ではない声。
エルドが、無言で一歩引く。
ジル爺は、ゆっくりと結界の中央へ歩き、腰を下ろした。
「ふぅ……」
深く息を吐く。
それだけで、
どれだけの無茶をしたかが分かる。
「……どうだった」
レインが、静かに聞く。
「勝てた?」
ジル爺は、少し考えてから答えた。
「今すぐなら、無理じゃ」
「時間を使えば、消せる」
「じゃがな」
視線を上げる。
「それをやると、お主らの戦場が消える」
沈黙。
ミリアが拳を握る。
「……じゃあ、私たちは」
「やれる」
即答だった。
「もう、準備は終わっとる」
ジル爺は、一人ずつを見る。
「レイン」
「お主は、因果を“切る”な」
「繋げろ」
レインは、ゆっくり頷く。
「ミリア」
「前に出るな」
「前に居ろ」
ミリアは、強く息を吐く。
「分かってる」
「リュカ」
「考えるな」
「捨てろ」
「必要ない判断は、全部じゃ」
リュカは、短く答えた。
「はい」
「エルド」
「受けるな」
「立て」
エルドは、盾を地面に突き立てる。
「立ちます」
ジル爺は、満足そうに笑った。
「……うむ」
「ようやくじゃ」
少しだけ、声が柔らぐ。
「非裁定はな」
「勝つための集まりじゃない」
「世界を正すためでもない」
「ただ」
一拍。
「世界が壊れきる前に、立つための集まりじゃ」
そして、ゆっくり立ち上がる。
「ワシの役目は、ここまで」
ミリアが、思わず声を上げる。
「どこ行くの!」
ジル爺は、振り返らない。
「決まっとるじゃろ」
「時間を稼ぐ」
「それだけじゃ」
レインが、言った。
「……死なないで」
ジル爺は、足を止めた。
少しだけ、振り返る。
「死なんよ」
「まだ、若いもんに任せるには早い」
そして、いつもの調子で付け加える。
「それに」
「ワシが死んだら、お主ら困るじゃろ」
ミリアが、思わず笑う。
「……確かに」
風が、強く吹く。
次の瞬間、
ジル爺の姿は消えていた。
残された四人。
沈黙。
やがて、レインが前を向く。
「……行こう」
「次は」
「僕たちの番だ」
遠く。
世界のどこかで。
《断絶裁定》は、
再び結論を生成し始めていた。
だが今度は――
四つの立ち位置を、
明確に“敵”として認識していた。




