老賢者は退かない
その場所は、もはや戦場ですらなかった。
山が削れ、
大地が沈み、
空気そのものが“重く”圧縮されている。
かつて究極逸脱個体が三体、同時に存在していた痕跡。
その中心に――
一体だけが立っていた。
二体分の“深傷”を喰らい、
二体分の“機能”を統合した存在。
《断絶裁定》。
形はまだ人型に近い。
だが、輪郭が定まらない。
腕の数が揺れ、
脚の位置がずれ、
視線だけが、常に正面を向いている。
――逃げない。
――迷わない。
――判断を必要としない。
それは“存在”というより、
結論だった。
「……ふむ」
静かな声。
その前に立つのは、
杖をついた老人――ジル爺。
息は整っている。
魔力の乱れもない。
だが、周囲の大地はすでに裂けていた。
「やはりの」
ジル爺は、独り言のように呟く。
「二体喰うたか」
《断絶裁定》は反応しない。
反応する必要がないからだ。
《観測対象:老個体》
《推定寿命:長》
《存在影響量:高》
《処理優先度:即時》
結論は瞬時。
空間が、折れた。
音は遅れて届く。
視界が揺れ、
山の一部が、紙のようにめくれ上がる。
《断絶裁定》の初撃は、
“攻撃”ですらなかった。
戦場の定義を上書きしただけだ。
だが――
「遅いの」
ジル爺の足元で、
世界が一拍、止まった。
《因果遮断》。
完全ではない。
だが、“成立しかけた結論”が、途中でほどける。
折れかけた空間が、元に戻る。
《断絶裁定》が、わずかに首を傾けた。
――例外。
――想定外。
《再演算》
次の瞬間、
地面が“選ばれなかった”。
存在していたはずの岩盤が、
理由もなく消失する。
落下。
だが、ジル爺はそこにいない。
すでに――背後。
「考えるのは好きじゃがな」
杖が、地面を叩く。
「結論を急ぐ奴は嫌いじゃ」
衝撃。
だが、当たらない。
《断絶裁定》の身体が、
“受ける前”に位置を変える。
攻撃を避けたのではない。
当たるという結果を選ばなかった。
「ほう」
ジル爺の目が、わずかに細くなる。
「……なるほど」
「お主は“判断を喰う”」
初めて、
ジル爺の周囲に魔力が満ちる。
軽いものではない。
派手でもない。
だが、深い。
「じゃがの」
杖を構える。
「判断の前に立つ者も、おる」
次の瞬間。
《断絶裁定》の演算が、一拍、遅れた。
ほんの一瞬。
だが――
世界が、震える。
老賢者と、
異常進化究極逸脱個体。
時間を喰う存在と、
時間を越えて立つ存在。
本当の衝突は――
これからだった。
世界が、再び書き換わる。
《断絶裁定》の周囲で、
空間そのものが“選別”を始めた。
存在していい領域。
不要な領域。
曖昧な領域。
それらが、色分けされるように切り分けられていく。
「……ほれ」
ジル爺は、軽く杖を振った。
《因果遮断》――完全ではない。
だが、連続。
選別される前の“途中”に、
杖先が割り込む。
世界が、わずかに詰まる。
その隙に、
ジル爺の身体が滑るように踏み込む。
「遅いと言うとるじゃろ」
杖が、叩き込まれる。
《断絶裁定》の胸部――
いや、“核”に近い位置。
直撃。
大気が一瞬、真空になる。
山肌が、円状に吹き飛んだ。
だが――
「……まだ、足りんか」
ジル爺の声に、
わずかな疲労が混じる。
《断絶裁定》は、後退していない。
身体の一部が、確かに砕けている。
だが、即座に“再定義”されていく。
壊れたから直すのではない。
壊れた事実を、必要ないものとして捨てている。
《損耗:無視》
《機能再構築》
《演算速度:上昇》
――学習。
「……やはりな」
ジル爺は、深く息を吐く。
「二体分の“途中”を喰うと、
こうなるか」
《断絶裁定》が、初めて“攻撃らしい攻撃”を選ぶ。
否。
“選んだ”のではない。
《最短排除》。
老賢者の周囲、半径数十メートルが、
一斉に“消失”した。
地形が、ない。
空間が、ない。
そこに立つという結果そのものが、
存在しない領域。
だが。
「――立っとるわい」
ジル爺は、そこにいた。
存在してはいけない場所に、
“立っていた”という結果だけが残る。
《因果遮断》。
《位相固定》。
二つの概念を、
無理矢理、重ねている。
「……長くは持たんの」
それは弱音ではない。
計算だった。
ジル爺は、悟る。
この個体は、
倒せないわけではない。
だが――
「今ここで、消せば」
視線を、遠くに向ける。
結界の向こう。
修行中の、非裁定。
「世界ごと、巻き込む」
《断絶裁定》は、
その視線の意味を理解しない。
理解する必要がない。
《処理続行》。
再び、空間が折れる。
だがその瞬間――
ジル爺は、杖を地面に突き立てた。
「ここまでじゃ」
《広域因果遮断・限定展開》。
完全な否定ではない。
“続行する理由”だけを、断つ。
《断絶裁定》の動きが、
一拍、止まる。
「……覚えとけ」
ジル爺は、静かに言う。
「お主は、危険じゃ」
「じゃが」
口元が、わずかに歪む。
「まだ、ワシの獲物ではない」
その瞬間。
ジル爺の身体が、
風に溶けるように後退する。
《断絶裁定》は追わない。
追うという判断は、
まだ“最適”ではないからだ。
《追撃:保留》
《理由:未知要素残存》
《対象:非裁定》
老賢者の姿が消え、
戦場には、静寂だけが残る。
《断絶裁定》は、空を見上げる。
――次は。
――処理対象を、増やす。
そして遠く。
結界の内側で、
非裁定の修行が、最終段階へ進んでいた。
結界の内側。
時間の流れが、外とはわずかにずれている。
剣を振る音も、
盾が地面を削る音も、
魔力が走る気配もない。
ただ――
四人は、立っていた。
向き合うでもなく、
円陣を組むでもなく、
それぞれが“立ち位置”を確認するように。
そこへ。
風が一度、逆流した。
「……やっと、追いついたかの」
ジル爺が、結界の縁に現れる。
その瞬間、
レインの《模写理解》が跳ねた。
(……削れてる)
魔力じゃない。
体力でもない。
時間だ。
ミリアが、即座に気づく。
「……ジル爺」
「怪我、してないよね?」
「しておらん」
ジル爺は笑う。
「じゃが、無事でもない」
沈黙。
リュカが、静かに聞く。
「……勝てなかった?」
「勝てる」
即答。
「じゃがな」
杖を、軽く床に突く。
「勝った瞬間に、この世界が終わる」
エルドが息を呑む。
「……どういう意味だ」
ジル爺は、全員を見る。
「今のあやつはな」
「倒すと、“結果”が世界に広がる」
「空間が壊れる」
「因果がズレる」
「判断が成立せん場所が増える」
「つまり」
一拍。
「英雄でも、ワシでも、正解ではない」
ミリアが歯を噛む。
「じゃあ、どうすればいいの」
「答えは、目の前じゃ」
ジル爺は、レインを見る。
「お主らじゃ」
レインは、言葉を探さなかった。
もう、分かっていた。
「……僕たちは」
「倒すんじゃない」
「立つ」
ジル爺が、満足そうに頷く。
「そうじゃ」
「壊すな」
「裁くな」
「選ばせるな」
「“そこに在る”だけで、
あやつの結論を狂わせる」
リュカが、息を吐く。
「……だから、修行は技じゃなかった」
「役割じゃ」
エルドが、盾を構える。
「俺が、世界を固定する」
ミリアが、剣を抜かずに一歩前に出る。
「私が、前線になる」
「突破じゃない」
「維持する前線」
レインは、静かに目を閉じる。
《因果遮断》が、
“単独発動”をやめる。
仲間の存在が、
演算の中に組み込まれていく。
「……これが」
「非裁定」
ジル爺は、笑った。
「うむ」
「ようやく、
“揃った”の」
その瞬間。
結界が、自然に解ける。
修行は終わっていた。
誰も「終わり」と言っていないのに。
ジル爺は、踵を返す。
「ワシは、先に行く」
ミリアが叫ぶ。
「一人で!?」
「最後まで、とは言っとらん」
振り返らずに言う。
「時間を稼ぐだけじゃ」
「それまでに――」
声が、少しだけ柔らぐ。
「立て」
「迷うな」
「退くな」
「裁くな」
「……生きて、戻れ」
そして。
風と共に、
ジル爺の姿は消えた。
残された四人は、
同時に一歩、踏み出す。
もう、修行ではない。
次は――
戦いの本番だった。
遠く。
世界のどこかで。
《断絶裁定》が、
新たな結論を生成し始めていた。




