老いの背が、世界を押し留める
大地が鳴いた。
雷でも、爆発でもない。
“世界の重さ”が局所的に崩れ落ちるような、静かな異常の音だった。
究極逸脱個体――三体。
《終審断罪》
《最適淘汰》
《帰還否定》
それぞれが単体で災厄。
その三つが、同時に一つの戦場へ降り立つ。
空間の前後が曖昧になる。
距離の概念が歪む。
音が、意味を失う。
それでも――
「……やれやれ」
一人の老人が、戦場の中心へ歩み出た。
ジル爺。
杖も持たず、構えも取らない。
ただ“そこにいる”だけで、崩れかけた因果が辛うじて保たれている。
最初に動いたのは《終審断罪》だった。
宣告はない。
問いもない。
“存在を有罪と断じ、消す”ための概念圧が、一直線に叩きつけられる。
だが――
「効かんの」
ジル爺は、一歩踏み込んだだけだった。
それだけで、裁定は成立しない。
術を壊したのではない。
「お前が裁く」という前提そのものが、滑った。
次に《最適淘汰》が動く。
危険度。影響量。将来変数。
数千の算定が走り、最適解が導かれる。
――排除。
圧縮された因果が、ジル爺を中心に折り畳まれていく。
逃げ道は“価値のない選択”として切り捨てられ、戦場が狭まる。
「ほれ」
老人は、拳を振るった。
魔力の奔流ではない。
剣技でもない。
ただ、“世界を殴る”という行為。
衝撃は、算定そのものを割った。
《最適淘汰》の外殻に亀裂が走り、
価値算定が一瞬、空白を生む。
そこへ《帰還否定》が介入する。
戦域が固定される。
撤退という概念が削除される。
前進も後退も、終点へ収束する。
だが、その固定すら――
「甘いの」
ジル爺の足が、地面を踏む。
終点が“ずれる”。
完全な破壊ではない。
だが確実な傷。
三体は理解した。
この老個体は、短時間では排除できない。
そして――ここで長引けば、“世界そのもの”が保たない。
ジル爺も悟る。
「……このまま続けると、若いもんが来る前に崩れるの」
彼は、攻勢を止めた。
一瞬の間。
その隙に、三体は距離を取る。
逃げではない。
撤退でもない。
“次の最適解”へ移行しただけだ。
だが――
二体の動きが、明らかに鈍い。
《終審断罪》の輪郭には、裁定不能の歪み。
《最適淘汰》の外殻には、演算が乱れる裂け目。
深傷。
完全ではなくなった、という事実。
ジル爺は、息を吐いた。
「……二つは、削った」
誇れない。
喜べない。
残る一つ――《帰還否定》は、ほぼ健在だ。
老英雄は、その視線を逸らさない。
「さて……ここからじゃ」
戦場の空気が、もう一段冷える。
この“撤く”という判断が、
次の災厄を呼ぶ可能性を理解しながら。
ジル爺は、ゆっくり踵を返した。
「……急がんとの」
深傷を負った二体が、どこへ向かうか。
健在の一体が、何を選ぶか。
嫌な予感が、背中に貼りついて離れない。
深傷を負った二体は、別々の方向へ散った。
逃走ではない。
撤退でもない。
それは――修復行動だった。
《終審断罪》は、崩れた裁定構造を引きずりながら、荒廃した都市の地下へ潜る。
判定不能となった概念が、内部で不規則に回転している。
有罪と断じられない存在。
消せなかった事実。
それ自体が、矛盾だった。
「……不要」
かつては即座に出ていた結論が、遅れる。
その“遅れ”を補うために、終審断罪は感知範囲を拡張する。
ネームド個体。
変異群の上位。
既に確立された機能体。
――“利用可能”。
一方。
《最適淘汰》は、森の奥深くで停止していた。
演算機構の一部が破損している。
危険度算定が正常に回らない。
「……再構築が必要」
導き出された結論は、単純だった。
外部リソースの吸収。
だが、ここで問題が発生する。
選別が、機能しない。
本来なら排除対象となる存在を、
“資源”として評価してしまっている。
――異常。
その瞬間。
二体は、互いを感知した。
距離は遠い。
だが、“深傷”という共通項が、波長を合わせる。
《帰還否定》が、影のようにその様子を観測していた。
完全な個体。
機能欠損なし。
だが――
「……効率が落ちている」
判断する。
二体は、このままでは“役に立たない”。
世界を静かにするには、
選択を減らすには、
より強い“終点”が必要だ。
その時。
《最適淘汰》が、森の中で停止したまま、
一つの算定を吐き出す。
《最適解:吸収》
《対象:同系統逸脱個体》
一瞬のためらい。
だが、それもすぐに消える。
ためらいは非効率。
非効率は不要。
《終審断罪》の位置が、わずかにズレる。
逃げたのではない。
“引き寄せられた”。
互いを“資源”として認識し始めた瞬間だった。
遠くで、地形が歪む。
因果が重なり合い、
“二つである必要”が、失われていく。
その兆候を、ただ一体だけが理解していた。
《帰還否定》は、動かない。
助けない。
止めない。
ただ、記録する。
――吸収が始まれば、
逸脱は、次の段階へ進む。
「……想定外だが」
「許容範囲」
そう結論づけた瞬間。
世界のどこかで、
“捕食”という行為が、逸脱個体の間で初めて成立しようとしていた。
同時刻。
ジル爺は、遠くで胸騒ぎを覚え、立ち止まる。
「……やはり、来おったか」
老いた目が、まだ見ぬ未来を捉える。
「急がねばならん」
その先にいるのは――
修行を終えていない、若い連中だ。
山奥の小さな結界地。
かつて何者かが住んでいた痕跡すらない、
だが――世界のノイズが一切入り込まない場所。
そこに、レインたちは集められていた。
「……空気、重くない?」
ミリアが腕をさすりながら言う。
「重いんじゃない」
リュカが静かに答えた。
「“削られてる”」
魔力でも、圧力でもない。
判断しようとすると、判断する前提そのものが薄れていく感覚。
エルドは無言で盾を構え直していた。
「……ここ、戦場じゃないな」
「うむ」
背後から、しわがれた声。
いつの間にか、ジル爺がそこに立っていた。
「じゃが、これから“戦場になる前”の場所じゃ」
全員の視線が集まる。
いつもの軽口はない。
酒もない。
スケベな冗談もない。
珍しく、真剣な顔だった。
「聞いとけ」
ジル爺は地面に杖を突き、言った。
「お主らが今まで戦ってきたのは、“個”じゃ」
「ネームド」
「四天王」
「逸脱個体」
「どれも強かったじゃろう」
ミリアが頷く。
「正直、何度か死ぬかと思った」
「じゃがな」
ジル爺の声が、低くなる。
「次は違う」
杖の先が、地面をなぞる。
円が描かれ、
その中で、三つの影が重なっていく幻影が浮かぶ。
「二体は、ワシが深傷を負わせた」
「もう一体は、無傷」
「……その一体が」
一拍、間。
「他の二体を“食った”」
空気が凍る。
エルドが、思わず一歩前に出る。
「……捕食?」
「うむ」
ジル爺は頷く。
「魔力でも、肉体でもない」
「“機能”を喰った」
リュカが即座に理解する。
「……役割ごと、統合した?」
「その通りじゃ」
ジル爺は、珍しく満足そうに笑った。
「逃げられん存在」
「選別する存在」
「断罪する存在」
「それらが、一つになり始めとる」
レインは、黙ったまま拳を握っていた。
《模写理解》が、微かに震える。
だが――
解析できない。
「……今の僕らじゃ」
レインが、静かに言う。
「勝てない」
否定でも、弱音でもない。
事実の確認だった。
ジル爺は、ゆっくりと頷く。
「うむ」
「だからこそ――」
杖を持つ手が、地面を叩く。
「最後の修行じゃ」
ミリアが目を見開く。
「え、まだあんの!?」
「当たり前じゃ」
ジル爺は鼻で笑う。
「今までのは“準備”じゃ」
「これからやるのは――」
一人ずつ、視線を向ける。
レインへ。
「お主は、“選ばせない力”を持っとる」
「じゃが、まだ“支える”力が足りん」
ミリアへ。
「お主は前に出すぎる」
「前線は、孤独じゃ」
リュカへ。
「お主は読めすぎる」
「じゃが、決断が遅れる」
エルドへ。
「お主は受けすぎじゃ」
「盾は、世界じゃない」
全員が、何も言えなくなる。
図星だった。
「この修行はな」
ジル爺は、珍しく優しい声で続ける。
「強くなるためじゃない」
「一緒に立つための修行じゃ」
杖を地面に突き立てる。
結界が、完全に閉じる。
外の世界の気配が、消えた。
「修行が終わるまで」
ジル爺は背を向ける。
「ワシは、あやつを止めに行く」
ミリアが叫ぶ。
「一人で!?」
「うむ」
振り返らずに言う。
「まだ、ワシの仕事じゃ」
そして、小さく付け加える。
「……安心せい」
「戻ってくるかどうかは」
「お主ら次第じゃがな」
風が吹き、
ジル爺の姿が、溶けるように消える。
残された四人。
沈黙。
やがて、レインが息を吐いた。
「……やろう」
ミリアが剣を握る。
「最後まで」
リュカが頷く。
「今度こそ、置いていかれない」
エルドは盾を構え直す。
「立つ」
「逃げない」
結界の中心で、
修行が――静かに始まった。
そしてその頃。
世界のどこかで、
“それ”は二つ分の深傷を取り込み、
次の段階へ進化しつつあった。




