英雄は、立ち上がれない
最初に戻ってきた感覚は、痛みではなかった。
「……息が、重い」
ライザ=クロウデルは、天井を見つめたままそう呟いた。
白い布。簡素な梁。薬草の匂い。
野営用ではない。
きちんと整えられた治療室だ。
生きている。
それは、理解できた。
だが――
身体が、思うように動かない。
右腕に力を入れようとして、
**「入れ方が分からない」**ことに気づき、眉をひそめる。
「……は?」
動かないわけじゃない。
感覚もある。
ただ、
“いつもの力の入れ方”が失われている。
剣を振るための感覚。
踏み込むための距離感。
反射的に判断するはずだった“次の一手”。
それらが、霧の向こうにある。
「……っ」
歯を食いしばった瞬間、胸の奥が軋んだ。
あの時だ。
視線。
測定。
価値の再算定。
剣技でも、速度でもない。
「存在そのもの」を評価された感覚。
(……負けた?)
違う。
勝ち負け以前に、
戦闘として扱われていなかった。
「目、覚めたか」
低い声。
隣の寝台で、
ヴァルハルト=レオンが上体を起こしていた。
……いや、起こそうとして、止まっている。
片膝が、ベッドから降りない。
「……動かん」
それだけ言って、苦笑した。
大剣を振るう英雄が、
自分の脚を“動かそうとするだけ”で息を荒げている。
「医者は?」
ライザが尋ねる。
「『治るかは分からん』だとよ」
ヴァルハルトは淡々と言った。
「骨は繋がる。筋も戻る。
だが――」
一拍。
「“以前と同じ判断速度は保証できない”」
沈黙が落ちる。
英雄にとって、
それは致命的な宣告だった。
速さが落ちる。
判断が遅れる。
一瞬の躊躇が、誰かの死に直結する。
「……なあ」
ヴァルハルトが、天井を見上げたまま言う。
「俺たち、世界にとって……
邪魔なんじゃないか?」
ライザは、即答できなかった。
逸脱個体の言葉が、脳裏を掠める。
《世界寄与度:過剰》
《存在影響量:臨界値超過》
守る者が増えるほど、
争いも増える。
英雄が現れるほど、
敵も進化する。
「……考えるな」
そう言おうとして、
ライザ自身がそれを否定できなかった。
自分たちは、
世界を静かにする存在ではない。
むしろ、
世界を“騒がせる象徴”だ。
「ジル爺が来なかったら」
ライザが、ぽつりと言う。
「私たち、消されてたよね」
ヴァルハルトは答えない。
否定できないからだ。
「……悔しいな」
拳を握ろうとして、
力が入らず、指が震える。
「剣で負けたなら納得できた。
魔法で上を行かれたなら、鍛え直せた」
声が低くなる。
「でも、あれは……
“戦う資格がない”って言われたみたいだった」
その時。
治療室の扉が、静かに開いた。
看護兵が顔を出す。
「……英雄様。
世界機関から、正式な通達です」
二人は顔を上げる。
「当面、前線への復帰は見合わせてほしい、とのことです」
丁寧な言葉。
配慮された言い回し。
だが、意味は一つ。
――今のお前たちは、戦力外だ。
扉が閉じる。
静寂。
ヴァルハルトが、低く笑った。
「……ほらな」
ライザは、唇を噛む。
涙は出なかった。
代わりに、
理解だけが残った。
自分たちは、
もう“以前の英雄”ではない。
だが。
それでも――
「……それでもさ」
ライザが、視線を上げる。
「選ばれる側になるつもりは、ない」
ヴァルハルトは、ゆっくり頷いた。
「同感だ」
立てなくてもいい。
剣が振れなくてもいい。
だが、
“不要だと判断されるまま”で終わる気はない。
その夜、二人は眠れなかった。
そして同時に理解していた。
これは、始まりだ。
逸脱個体が
“次に来る理由”を、
自分たちが背負ってしまったことを。
その報は、戦場の喧騒よりも静かに届いた。
封蝋もない。
緊急指定もない。
ただ、世界機関の定型文書として。
だが――
内容は、明らかに異常だった。
「……英雄二名、重傷。
戦線離脱、当面復帰不能」
ミリアが、読み上げる途中で言葉を切った。
「冗談でしょ」
レインは、否定しなかった。
紙面に視線を落としたまま、
淡々と続きを追う。
「交戦対象、究極逸脱個体三体。
撃退ならず。
第三者介入により、対象は撤退」
「第三者?」
リュカが眉をひそめる。
「……ジル爺、でしょうね」
エルドは、盾を壁に立てかけたまま動かなかった。
英雄。
それも、前線に立ち続けてきた二人。
それが――
**“戦闘として成立しなかった”**相手に敗れた。
「……影より、やばい」
ミリアが、ぽつりと言う。
「影はさ、まだ“敵”だった。
倒す理由も、怒る理由もあった」
拳を握る。
「でも、逸脱個体は……
最初から、私たちを相手にしてない」
レインが、ようやく顔を上げた。
《模写理解》は沈黙している。
以前のように、
能力を拾い、
構造を解析し、
最適解を示す反応がない。
それ自体が、異常だった。
「……評価対象が違う」
レインは静かに言う。
「英雄は、“世界に与える影響”で見られてた」
「強いかどうかじゃない」
一拍。
「存在することで、何が起きるか」
リュカが、低く息を吐く。
「つまり……
英雄ですら、“ノイズ”扱い」
「うん」
レインは頷く。
「そして僕たちは――」
ミリアが、言葉を継ぐ。
「裁かれなかった」
空気が、少しだけ張り詰めた。
裁かれなかった。
排除もされなかった。
それは、安全ではない。
“後回しにされた”だけだ。
エルドが、初めて口を開く。
「……次は、ここに来る」
断定だった。
「英雄が潰れた地域。
防衛線が薄くなる場所」
「人が多くて、
判断が遅れやすい場所」
視線が、レインに集まる。
レインは、少しだけ考え、
それから首を横に振った。
「……英雄みたいな戦い方は、できない」
「でも」
ゆっくり言葉を選ぶ。
「逸脱個体は、選択を嫌う」
「迷いを、無駄だと切り捨てる」
ミリアが、目を細める。
「じゃあさ」
「逆に――
選択が多すぎる場所は?」
レインは、はっきり答えた。
「守れない」
「だから」
拳を、静かに握る。
「そこに、僕たちが立つ」
裁かず。
退かず。
選ばせない。
英雄のように象徴にはならない。
蒼衡のように切り捨てもしない。
だが――
選択そのものが壊される前に、踏み込む。
リュカが、小さく笑った。
「……英雄じゃなくて良かったですね、僕ら」
「ほんとそれ」
ミリアも頷く。
「“価値が高すぎる”って理由で
消されるとか、性に合わない」
レインは、窓の外を見る。
遠くの街。
避難民の流れ。
まだ、静かだ。
だが、
静かすぎる。
「……来るよ」
その声は、予言ではない。
計算でもない。
ただの、確信だった。
「逸脱個体は、
次は“英雄が守れない場所”を選ぶ」
《非裁定》は、
武器を取らない。
代わりに、
立ち位置を決める。
世界が、
次に“削ろうとする場所”へ。
夜だった。
治療棟の外では、風が静かに木を揺らしている。
戦場の音はもうない。
悲鳴も、爆発も、魔力の軋みも。
――それでも、眠れなかった。
ヴァルハルト=レオンは、天井を見つめたまま動かない。
正確には、動けなかった。
身体を横たえれば、痛みは抑えられる。
だが、少しでも起き上がろうとすると、
胸の奥に“拒否”が走る。
(……力が入らない)
剣を振るうための筋力ではない。
戦場に立つための、覚悟の回路が繋がらない。
隣の寝台から、微かな衣擦れの音。
「……起きてるか?」
低く、抑えた声。
ライザ=クロウデルだった。
「眠れん」
「だろうな」
短い会話。
だが、それだけで分かる。
――二人とも、同じ場所で止まっている。
ライザは、ゆっくりと上体を起こした。
無理はしていない。
医師の言葉を、きちんと守っている。
それが、余計に辛かった。
「なあ、ヴァル」
「……なんだ」
「俺たちさ」
少し、間が空く。
「本当に、英雄だったのか」
ヴァルハルトは、すぐには答えなかった。
その問いは、弱音ではない。
自己否定でもない。
――純粋な疑問だった。
「英雄ってのは」
ライザは、包帯の巻かれた腕を見つめる。
「強い奴で、
前に立って、
誰かに期待される存在だと思ってた」
「でも、あの時」
声が、わずかに低くなる。
「俺たち、
選ばれなかった」
処理対象。
評価外。
保留。
剣で負けたわけじゃない。
策で遅れたわけでもない。
ただ――
“世界にとって過剰”と判断された。
ヴァルハルトは、ゆっくりと息を吐いた。
「……俺はな」
低い声。
「英雄ってのは、
呼ばれてなるもんだと思ってた」
「期待されて、
背負わされて、
その重さに耐える存在だと」
拳を、わずかに握る。
「だが、あれは違った」
逸脱個体の“視線”を思い出す。
そこには、
称賛も、敵意も、恐怖もない。
あるのは、
**“整理対象を見る目”**だけ。
「俺たちは……
世界にとって、うるさくなっただけだ」
ライザは、歯を食いしばる。
「じゃあさ」
顔を上げる。
「英雄じゃなくなったら、
俺たちは何だ?」
沈黙。
答えは、用意されていなかった。
治療棟の外で、夜警の足音が遠ざかる。
その時。
「……生きてる」
ヴァルハルトが言った。
「俺たちは、まだ」
ライザが、彼を見る。
「剣も満足に振れない。
魔力も、前みたいに出ない。
判断も遅れる」
「それでも」
言葉を切り、続ける。
「選ばれる前に、消されなかった」
それは、慰めではない。
希望でもない。
だが、事実だった。
ライザは、しばらく黙り、
それから小さく鼻で笑った。
「……皮肉だな」
「英雄って肩書きを失って、
やっと“人間扱い”された気がする」
「悪くない」
ヴァルハルトも、わずかに口角を上げる。
「少なくとも、
次に立つ場所は――
自分で決められる」
その言葉に、
ライザの目が、ほんの少しだけ鋭くなる。
「……なあ」
「次に逸脱個体が来たら」
一拍。
「俺たち、
もう前線には立てないかもしれない」
「それでも」
声を低く、確かに。
「あいつらの“判断”を疑う役目くらいはできる」
ヴァルハルトは、静かに頷いた。
「英雄じゃなくてもな」
二人は、再び天井を見る。
身体は重い。
未来も、まだ見えない。
だが――
あの“評価する視線”に対して、
ただ処理される存在では終わらない。
その小さな反抗が、
夜の静けさの中で、確かに芽生えていた。




