都市は、まだ生きていた
最初の異変は、音だった。
市場に人はいる。
露店も並び、荷車も行き交っている。
子どもの笑い声すら、確かにあった。
だが――
音が、前に進まない。
「……今日の相場は?」
商人がそう聞き、
向かいの男は口を開いたまま止まった。
「……ええと」
言葉を探す仕草。
困ったように眉を寄せる。
だが、そのまま数秒が過ぎ、
男は何事もなかったかのように首を振った。
「まあ、いいや」
その言葉で会話は終わった。
売買は成立しない。
だが、揉め事にもならない。
誰も怒らない。
誰も疑問を持たない。
衛兵は巡回している。
歩き方も、装備も、規律も正しい。
ただ――
立ち止まる回数が、異様に多い。
「異常なし」
詰所で報告を受けた副隊長は、
書類にそう記した。
だが、その筆は
次の行に進まなかった。
「……次は」
言葉に詰まり、
書類を見下ろす。
「……何を書くんだったか」
部下が不思議そうに覗き込む。
「隊長?」
副隊長は一瞬、笑った。
「いや、大丈夫だ」
「少し、考え事をしていただけだ」
そのまま椅子に腰を下ろし、
彼は動かなくなった。
倒れたわけではない。
眠ったわけでもない。
ただ――
次の動作を選ばなかった。
昼になっても、鐘は鳴った。
時刻を告げる機構は正常だった。
だが、人は集まらない。
食堂では、
料理が並んだまま冷めていく。
「今日は……食欲がないな」
誰かがそう言い、
周囲も同じように頷いた。
理由は、誰も説明しない。
説明する必要を、
誰も感じていなかった。
最初の死者が出たのは、午後だった。
市庁舎の階段で、
役人の一人が崩れ落ちた。
血は出ていない。
傷もない。
医師が駆けつけ、
脈を取り、瞳孔を確認する。
「……死因が、分かりません」
集まった者たちは騒がない。
誰も叫ばない。
誰も泣かない。
ただ、立ち尽くしている。
「……次は、どうします?」
誰かがそう聞いた。
だが、答える者はいなかった。
都市は、まだ生きていた。
建物も、制度も、人もある。
戦火も、魔物も、侵略もない。
それでも確かに――
何かが、止まり始めていた。
異常は、説明されなかった。
説明される前に、
説明しようとする行為そのものが失われていった。
医師は解剖を試みた。
「死因が不明なら、
中を見れば――」
そう言って、
器具を手に取った。
だが、刃を入れる前に手が止まる。
「……待て」
誰に向けた言葉でもない。
「本当に、
そこまでする必要があるのか?」
問いは、宙に浮いた。
医師自身が、
その問いに答えを出せなかった。
「……いや」
「やめておこう」
解剖台の上の遺体は、
そのまま布をかけられ、
記録だけが残された。
死因:不明
外傷:なし
呪詛反応:なし
魂欠損:なし
「じゃあ、次は?」
助手が聞いた。
医師は、答えなかった。
その夜、死者は七人になった。
いずれも、
眠るように倒れていた。
悲鳴はない。
苦悶の痕跡もない。
ただ、
動作が終わっている。
「……怖くないんだ」
ある女が、ぽつりと呟いた。
「本当は、
怖いはずなのに」
「でも――」
言葉が続かない。
恐怖を言語化する工程が、
どこかで欠けていた。
都市の機構は、
“形式上”は動き続けている。
税は集められ、
書類は回り、
命令書も配布された。
だが、それを実行する者がいない。
「この通りは封鎖しろ」
そう命じられた衛兵は、
縄を持ったまま立ち尽くす。
「……封鎖して、
どうなる?」
自問する。
だが、その先を考えない。
考える必要が、
感じられなかった。
市議会は招集された。
議員たちは席に着き、
全員が揃っている。
だが、議長が開会を宣言しない。
「……誰か」
「議事を進めてくれ」
その言葉に、
誰も反応しなかった。
反対意見もない。
賛成意見もない。
沈黙だけが続く。
やがて、
一人が椅子からずり落ちた。
死んでいた。
その場にいた誰も、
席を立たなかった。
「……次は」
誰かが言った。
だが、
“次”が何かを知る者はいなかった。
夜明け前。
都市の外れで、
鐘が鳴り続けていた。
誰も止めない。
誰も確認しない。
時間だけが、
正確に流れていく。
都市は、
襲撃を受けていない。
侵略も、災害も、戦争もない。
それでも確実に――
都市は、機能停止へ向かっていた。
都市が完全に沈黙したのは、夜明けだった。
鐘は鳴っている。
時刻を告げる機構も、灯りも、生きている。
だが――
人が、動かない。
門は閉じられず、
街道には誰も出てこない。
巡回に入った隣接都市の衛兵は、
城門前で足を止めた。
「……静かだな」
異常を察知し、
慎重に街へ入る。
抵抗はない。
戦闘痕もない。
市街地の中心で、
彼らは“それ”を見た。
人がいる。
立っている。
座っている。
だが誰も、
こちらを見ない。
呼びかけても、
肩を叩いても、
反応がない。
倒れている者もいる。
すでに息がない。
「……生きてるのか?」
確認しようとして、
衛兵の一人が、ふと手を止めた。
「……いや」
「分からない」
その言葉に、
全員が違和感を覚える。
「分からない、って何だ」
だが、
誰も続きを言えなかった。
数刻後。
都市封鎖が決定され、
簡易的な調査団が派遣される。
医師、神官、魔導士、
それぞれが調査を行った。
結果は、同じだった。
外傷なし
毒物反応なし
呪詛検出なし
魂損傷なし
「……生きている」
「だが、
生きている理由が見当たらない」
報告書は、
淡々と書き連ねられる。
そして最後に、
一行だけが追記された。
共通点:
発症前、強い恐怖・怒り・混乱は確認されず。
多くが、行動を選択しようとした直後に停止。
調査団の一人が、
思わず口にした。
「……これは、
病気でも呪いでもない」
「じゃあ、何だ?」
返答はなかった。
報告は、
世界機関に送られる。
英雄にも、
蒼衡にも、
そして――
《非裁定》にも。
添付された注記は、
異様に短い。
襲撃なし。
侵入者なし。
原因不明。
ただし、
都市は停止した。
どこか高い場所で、
風が吹く。
誰もいない瓦礫の上。
“それ”は、すでに去っていた。
観測は終わった。
執行には、まだ早い。
だが――
世界は、確かに減った。
戦わずに。
裁かれずに。
理由を与えられることもなく。
そして次に壊れる場所は、
もう決まっている。




